第六話 お嬢様は暇を潰すことにした
夜明けはまだ遠く、辺りは薄青色の闇の中だった。
暗い部屋の中で唐突にパチリと目を開けたアビゲイルは、朝が来ていないことにまず驚いた。
辺りはしんと静まり返り、小鳥の囀りも、リュディガーのタンパク質要員である鶏の声も聞こえない。
この分では、きっと空の端すら朝日の色に染まってはいないのだろう。
それなのに目が覚めてしまった。
(こんな時間に目が覚めるだなんて……)
戸惑ったのは、目が覚めた瞬間に既に眠気はさっぱり消えていて、身体の疲労感もなく、ただ『よく眠った』という感覚だけがあることだった。
いつもと同じように一日を過ごし、いつもと同じように眠りについたはずなのに、まるで昼までぐっすり寝ていたかのように睡眠は満ちたり、気力も体力も溢れている。
今なら十人と続けてダンスを踊れるかもしれないと思うほどに、アビゲイルはものすごく元気だった。
(こうもしっかり目が覚めてしまっては、朝までもう一眠りとはいかないわね)
朝が来るまでもうしばらくあるのだし、寝直してしまうのも有りだとは思うのだが、完全に覚醒してしまっている以上このまま再び眠れるかというとかなり自信がない。
(こんな時間では人も呼べないわ。……そうだ)
あのリュディガーなら、こんな時間に呼んでも喜んでアビゲイルの世話を始めるかもしれない。だが、生憎そういう気分でもない。
特に用事もないのに呼び付けて、暇潰しにとまた筋肉腹話術など見せられたりしたら堪らない。
あれは絶妙なラインで笑わせてくるので笑いを堪えるのが大変なのだ。
そんなことを考えながらアビゲイルは無言のままそっと身体を起こし、なるべく物音を立てないように注意してベッドを抜け出した。
着ていた肌触りの良いナイトドレスの上にショールを羽織り、ベッド脇に揃えて置かれていた屋内用の柔らかな靴に自ら足を押し込む。
そうしてひっそりこっそりと身動きができる程度の支度を軽く整えて、アビゲイルは自室のドアの前に立った。
薄闇の中でもはっきりとわかる金色のドアノブ。
それをジッと見つめ、小さく深呼吸をしてからノブに手を伸ばす。
ひんやりとしたドアノブをやたら時間をかけて回し、カチャリと音を立ててドアが開くと、アビゲイルは妙な興奮と緊張でわずかに頬を紅潮させた。
(自分でドアを開けるだなんて、なんだかとてもいけないことをしている気分だわ)
アビゲイルは侯爵令嬢である。
着替えも食事も入浴も、その全てを使用人が世話をする。それが当然の身分であるから、彼女は幼少期から自らドアを開けたことさえなかった。
ドアを開けるのは侯爵令嬢にとってみれば使用人の仕事であり、自分が行うだなんてはしたない。そう躾けられてきたこともあり、アビゲイルは自分で開けたドアを見て、何か達成感のようなものさえ覚えていたのである。
ドアの隙間から首を出し、左右に視線を向けて人がいないことを確認する。
「……い、いくわよ」
己を鼓舞するように小声で囁いてから部屋から出たアビゲイルは、昼とはまるで違う顔を見せる廊下に一瞬息を呑んだ。
満月なので明かりがなくとも廊下は明るく、足元に不安はない。
だが、月光で明るいからこそ大きな花瓶だとかちょっとした影が濃く、その真っ黒な影はまるで常闇の国に繋がる扉のように見えた。
(……夜のお屋敷は、こんな風に眠っているのね……)
思えば王都の屋敷は夜中でも廊下は明るかった。
夜会から帰るのが夜中を過ぎるからという理由があるのだが、満月の下に広がる厳かな夜の世界を、己は今この瞬間まで知らなかったのだ。
そう思うと、この屋敷に来てから毎夜ただ部屋で過ごしていたことが、なんだかとても勿体ないことであったように思えてしまう。
(静かだわ。でもこんなに暗くて静かでも、不思議と恐ろしくはないものね)
手燭すら持っていないが、この柔らかな闇のなかでは、むしろそんなものはかえって不粋だろうとアビゲイルは小さく目を細めた。
ひどく気分が良いのは満月の美しさのせいだろうか。
一通り屋敷の廊下を歩き、時折足を止めては窓の外を眺め、彼女はしばらくの間ゆったりと夜の散歩を楽しんでいた。
普段歩くことのない使用人廊下を物珍しそうに歩いていたアビゲイルだったが、何か小さな物音が聞こえた気がしてはたと足を止める。
(……あら? 何の音かしら)
ここは屋敷の一階で、裏庭に面した廊下である。
まだ暗くて庭の様子がわからないので代わりにじっと耳を澄ませてみれば、やはり何か聞こえてくる。
どうやらそれは風取りのために僅かに開けられた窓の外から聞こえているようだ。
(人の声? いえ、それよりも大きな犬の呼吸のような……?)
アビゲイルは聞こえたのが動物の呼吸ではないかと思い至り、パッと辺りを見回した。
そうだ。祖父の猟犬たちは狩りの後でこんな風に呼吸していた。
よくは知らないが獣は夜行性が多いと聞くし、どこからか野犬でも入り込んだのだろうか。
(ど、どうしたら……。ここは使用人部屋に近いはずだけど、誰がどの部屋を使っているかなんてわたくし知らないわ)
まさか屋敷の中にまでは入ってこないとは思うが、それでも敷地の中に獣が入り込んだのなら大問題だ。
今こそリュディガーを呼ぶべきか。
逡巡したアビゲイルは、不意に名前を呼ばれて反射的に声のした方へと視線を向けた。
「……え?」
アビゲイルの金の睫毛が瞬く。
見開かれた大きな青い瞳に映ったのは、窓の外にぶら下がる逆さまの、──首。
長い髪をゆらゆらと揺らすその首の表情はよく見えないが、その首が闇の中でニィと笑ったように見えた。
「……ッ!」
ひくりと喉の奥が震え、アビゲイルが腹の底からの悲鳴を繰り出そうとした瞬間だった。
「アビゲイルお嬢様。こんな時間にそんなところで何をなさっているんですか。まだ起床予定時刻まで四時間三十二分もあるのに! 何か問題でも……、ハッ、まさか新しいシーツがお肌に合わなかったとか……? 俺がお嬢様の安眠を害してしまった可能性が?」
「えっ、あ、りゅ、リュディガー……?」
「はい? 何でしょう」
「お、おま、お前、どうしてそんな、窓の外で逆さまになっているのよ……!」
ビシッとリュディガーを指差し、アビゲイルは先ほどまでの恐怖で掠れたかっすかすの声で正論を叫んだ。
「どうしてって……」
逆さまのままきょとんとした顔で首を傾げているリュディガーは、アビゲイル限定で聴覚が鋭くなる。
窓越しの掠れた声でもアビゲイルの声であればしっかりばっちり聞き分けるので、かすかすの声での問い掛けにも平然とかつ正確に答えた。
「えぇと、腹筋運動中だったので……」
「ふ、腹筋運動? それは逆さまになってやるものなの?」
筋トレ界隈から一番縁遠い世界で生きてきたアビゲイルには、腹筋運動というものがどういうことをするものかわからない。
しかし、おそらく逆さまになるのは違うのではないか。そういう方法もあるのかもしれないが、多分スタンダードではないはずだ。アビゲイルの直感がそう叫んでいる。
だがリュディガーはこれまでアビゲイルの信じてきた正論の外で元気に飛び跳ねているような男である。
未だ逆さまのままのリュディガーが、顎に手を当ててうーんと思案顔になる。
「このお屋敷のバルコニーの柵はとても頑丈なので、筋トレにちょうど良かったんですよね」
「は? バルコニー?」
「はい。この上の、中二階のバルコニーの柵に足首を引っ掛けてですね、こう、ぶらーんと」
「えっ、じゃあお前、今バルコニーからぶら下がっているということ!?」
「そうですけど」
「そうですけど、じゃあないわよ! 人の屋敷を勝手にトレーニング器具として使うのはおやめ! あとそれは普通に危険だわ!」
「そんな! じゃあ俺はどこで筋トレすれば良いのですか」
「それは……」
リュディガーに問われアビゲイルは言葉に詰まった。
当然である。アビゲイルは筋トレというものに関して無知だ。
どのような場所が適していて、どのような器具が必要なのかもさっぱりわからない。
その内にリュディガーは「よいせ」と言いながら腹筋その他諸々の筋肉を使ってバルコニーに戻って行ったかと思うと、ひょいと地面に飛び降り、何にもなかったような顔をして窓から廊下に入ってきた。
あまりに堂々とした動作であったので、アビゲイルはリュディガーの無作法を嗜めることすら忘れていた。
「リュディガー?」
「はい、お嬢様」
「……お前、本当にリュディガーなの?」
「偽物の話は聞いたことがありませんが、何か俺に不審なところでも?」
「だって普通の格好のお前を初めて見たのだもの。何よ。メイドのお仕着せ以外も持っているのね」
普通の格好をしていると逆に疑われる男、リュディガー・クラネルト。
アビゲイルの言葉通り今のリュディガーは動きやすいシャツとトラウザーズ、それから編み上げの頑丈なブーツ姿で髪だって軽く高めの位置で結っているだけだ。
顔が良いからか、シンプルな服装と髪型でも黙って立ってさえいれば貴族子息にだって見えなくもない。どこに出しても恥ずかしくない美しい青年である。
見目良い貴族を見慣れているアビゲイルでもメイド服以外の姿のリュディガーは新鮮に見えた。
「お前、やっぱり今からでも従僕に」
「嫌です」
「言葉に被せてくるのはおやめなさいよ」
キッパリと従僕への変更に否を返す彼を見て、どんな格好をしていてもリュディガーはリュディガーなのだなと、アビゲイルは小さく息を吐いた。
それをアビゲイルが疲れたのかと思ったらしいリュディガーが、へにょりと眉尻を下げる。
「ところでお嬢様。まだ朝まで時間があります。お部屋に戻ってお休みになられては?」
「目が冴えて眠れそうにないわ。部屋にいても退屈なだけよ」
「ではホットミルクでもお作りしましょうか。温かいものをお召し上がりになれば、眠気も戻ってくるかもしれません」
蜂蜜も入れましょうねと笑うリュディガーは、アビゲイルの知るリュディガーではあるのだが、服装が違うせいか何だか知らない人にも見える。
そのせいでアビゲイルはいつもの調子が出せず、もじもじとしながら視線を泳がせていた。
「さ、お嬢様は先にお部屋に」
「嫌よ」
「お嬢様こそ被せてくるじゃないですか」
「わたくしはいいのよ。リュディガー、厨房に行くのならわたくしも一緒に行くわ」
「いけません、お嬢様が立ち入る場所ではありません」
「あら、この屋敷の主人はわたくしよ。わたくしが入ることの出来ない場所などこの屋敷に存在しないわ。それに部屋にいるのは暇なの。退屈なの。別に厨房を荒らしたりしないわ。見るだけよ」
そしてアビゲイルは対祖父最終兵器である『小首傾げ+上目遣い』を駆使してリュディガーを見つめた。
「ね、リュディガー。お願い」
「ぐぅ……ッ! 可愛い……っ」
途端にリュディガーは太陽の光に灼かれる吸血鬼よろしく、両腕を交差させて顔を覆いその場に膝をついた。
祖父ですらもう少し粘るというのに、リュディガーときたらあまりにも弱過ぎるなとアビゲイルは思った。
「こ、今回だけですからね……!」
「ふふ。ありがとう、リュディガー」
こうしてアビゲイルの月夜の散歩は、リュディガー特製蜂蜜入りホットミルクで幕を閉じた……かと思われた。
「……あのぅ、お嬢様。このようなところで何をなさっておられるのでしょう……?」
毎朝身支度を整えた後に屋敷の周りを一周することを日課にしている家令のサミュエルは、この日もいつもと同じように朝焼けを眺めながら屋敷の周りを歩いていた。
だが、裏庭に差し掛かったところで突如として目の前に現れた光景にしばらくの間言葉を失い、ようやく取り戻した言葉が先ほどの一言であった。
「あら、おはようサミュエル。何をしているかって、見ての通りよ。わからない?」
「はぁ……」
アビゲイルはナイトドレスの上にショールを羽織っただけの姿で、悠々と組んでいた脚を組み替えて笑っている。
だがサミュエルはますます困惑するばかりだった。
アビゲイルが座っている場所が腕立て伏せをしているリュディガーの背中の上であったからだ。
しかもアビゲイルが座りやすくするためか、そこにはクッションまで添えられている。
まるで長椅子に身を預ける貴婦人のような優雅さでアビゲイルは口端を上げた。
「この筋肉メイドがわたくしの深夜の散歩を筋トレで台無しにしてくれたから、暇潰しがてら主人としてこうして罰を与えているところよ」
「お嬢様を背中に乗せたまま腕立て伏せをすることが罰、ですか?」
「そうよ。この腕立て伏せというのもメジャーな筋トレなのでしょう? わたくしという負荷を乗せた状態で百回を三セットよ。ほほほ! 今日は腕が使い物にならないかもしれないわね!」
腕立て伏せをするリュディガーの背中に座ったアビゲイルがとても楽しそうだったので、家令サミュエル・ルヴォアは少しだけ迷って喉元まで出かかった言葉をなんとか飲み込んだ。
(お嬢様はクラネルト卿が今どんなに嬉しそうな顔をしているのか、ご存知ないのだな)
サミュエルは長年の使用人経験で会得した完璧な笑みを浮かべて思った。
リュディガーがキラキラの笑顔を浮かべて腕立て伏せに勤しんでいるのは、どこからどう見ても罰ではなくご褒美である。
さすがにこれを口にする勇気はない。サミュエルはとても空気の読める男であった。
「リュディガー! あまり揺れないでちょうだい。もっとゆっくり静かに出来ないの」
「そんな、ゆっくりだなんて更に筋肉に負荷をかけよと仰せですか?」
「あら、出来ないの?」
「喜んでやらせて頂きます♡」
早朝の裏庭で筋トレに励むムキムキのメイドと、背中の上でそれを監督する女主人。
世間一般的に見れば大分様子がおかしく、しかしこの屋敷においてはその内に日常の光景になるであろう朝のワンシーンだった。
朝日を合図にして鶏が元気に鳴き、他の使用人もそれぞれ自分の仕事に入っていく。
訪れた新しい朝に、アビゲイルは空を見上げて眩しそうに目を細めていた。
なお、罰筋トレを終えて通常業務へと戻ったリュディガーは、あんなに腕立て伏せをさせられて大丈夫かと心配するサミュエルに笑顔でこう答えた。
「腕立て伏せ三百回なんて、聖騎士時代なら休憩中の暇潰しにしていた程度のものなので特に負担ではないですね!」




