閑話・一 家令サミュエル・ルヴォア
サミュエル・ルヴォアは、長年ハインツェル侯爵家に仕えてきたベテランの使用人である。
彼は若くして妻に先立たれて以来、ずっと独り身を通してきた。
それ故に、アビゲイルが王都を離れることが決まった際、自分の立場ならしがらみもなく他の者より動きやすかろうと、アビゲイル付きの使用人となることに一番最初に手を挙げた人物だった。
長年の経験からなる確かな手腕を持つサミュエルであれば、と侯爵も安心し、相場の倍以上の手当を彼に支払って領地の屋敷と孫娘を預けた。そこまでは良かった。
だが、領地入りしてすぐに問題が起こったのである。
「何よ、このお茶! どうしたらこんなに不味く淹れられるのかしら! 毒でも盛られたかと思ったわ!」
「掃除にいつまでかかっているの! まったく、仕事が遅くて仕上がりまで悪いだなんて、わたくしもはずれくじを引いたものだわ!」
「あぁもう、クビよ! お前のような無能にさせる仕事なんてあるものですか」
田舎の領地に送られた侯爵令嬢アビゲイル・ハインツェルが使用人たちにつらく当たり、次々に解雇してしまったのだ。
中にはアビゲイルからの仕打ちに耐えかねて、自分から退職を願い出るものもいた。
料理人がアビゲイルのために食事を作っても、彼女は一口か二口食べた後で大きな溜め息を吐き「下げてちょうだい」とサミュエルに命じる。
アビゲイルのために作られて、そのまま手も付けられずに下げられた料理の数々を見る料理人の表情に、サミュエルは毎日ひどく申し訳ない気持ちを覚えたものだ。
それでも手の付けられなかった料理なら使用人たちで分け合える。
それに比べて直接アビゲイルに接する侍女やメイドはもっと悪かった。
掃除の仕方が気に入らない。選んだ服が気に入らない。髪を梳かした際に痛みがあった。さらには顔付きが気に入らないとまで。
アビゲイルは事あるごとに癇癪を起こしては侍女やメイドを怒鳴りつけ、ひどい時にはお茶が不味いと言ってティーカップごとメイドに投げ付けた事さえあった。
何より、アビゲイルが田舎に来ることになったのは、宮廷晩餐会で苦手なものを食材に使用した料理人に対して「首を刎ねよ」と告げたことを王子殿下に咎められたからだと聞いている。
機嫌を損ねれば、次に首を刎ねよと言われるのは自分かもしれない。
屋敷の使用人たちは皆アビゲイルを恐れ、彼女の顔色を窺いながら、息を潜めて日々をやり過ごしていたのである。
昔のアビゲイルなら、貴族らしい高慢さはありつつもここまで酷くはなかった。
侯爵令嬢として周りがちやほやし過ぎた結果だろうか。もっと彼女に目を向ける時間を増やすべきだったと、サミュエルもまた心を痛める毎日であった。
──そんな毎日が少しずつ変わっていったのは、アビゲイル付きのメイドとして屋敷に来たリュディガー・クラネルトがきっかけであることは間違いない。
サミュエルはそう確信している。
初めてサミュエルがリュディガーと対峙した時、サミュエルはまず「はて?」と首を傾げた。
新しいメイドが来ると聞いていたのに、実際に来たのは大剣を背負った立派な体躯の青年だったのだ。
「初めまして。家令のサミュエル・ルヴォアさんですね。お嬢様付きのメイドとして参りました。リュディガー・クラネルトと申します」
「……メイド?」
「はい」
「君がお嬢様のメイド、ですか?」
「はい。その通りです」
非常に礼儀正しく、そして爽やかな青年である。
使用人が使う裏口で、サミュエルはリュディガーをジッと見上げ、無言で一度ドアを閉じた。
そして再びドアを開いた時、サミュエルの片手にはドア横に置かれていた箒が握られていた。
今この屋敷に必要なのは令嬢付きのメイドもしくは侍女である。このようなムキムキの青年ではない。顔は良いからフットマンには向くだろうが、生憎この屋敷には必要がない。
再び開いたドアの先では青年が困惑した表情を浮かべていた。
「……あの、ルヴォアさん? どうして箒なんて持って……?」
「帰りなさい。そんな見え透いた嘘までついて屋敷に入り込もうなど、この私が許しません。今なら役人に突き出すのは見逃します」
「えぇっ!?」
今では歳も重ねて髪も白くなりはしたが、これでもサミュエルはかつて侯爵の側付きとして、身の回りの世話に加えて護衛も務めたことがある。
武器を持った不審者を侯爵家の人間に近付かせてなるものかと、箒を手に追い出しに掛かったサミュエルに、不審者ことリュディガーは慌てて叫んだ。
「待って! 待って下さい! 嘘じゃありません! 俺は本当にお嬢様のメイドとして……」
「メイドに剣が必要ですか!?」
「これはただの私物で……! ほら、ここに紹介状と侯爵閣下からのお手紙もあります!」
侯爵からの手紙と聞いてはサミュエルも無碍には出来ない。
しかも封筒の封蝋は確かに侯爵の印章である。
その後、サミュエルは青年リュディガーからことのあらましを詳しく説明され、これが元聖騎士かと半分疑いつつ渋々ながら彼を屋敷に入れたのだった。
「来るのは今日の昼過ぎになると聞いていましたが」
「少しでも早く到着したくて、近くの町まで夜通し馬を走らせてきました!」
「そ、そこまでして……。しかしだね、君が仕えるのはハインツェル侯爵家のあのアビゲイル様ですよ」
誰でも最初は侯爵家に仕えることに期待や希望を持ってやって来る。
しかしこの屋敷は侯爵家の所有ではあっても全く別のものだ。
王都で教育を受け、高い教養を身に付けた一流の使用人であっても、容赦なく怒鳴りつけて解雇する気難しいご令嬢のためのお屋敷である。
サミュエルの目は『この扉を潜るもの、一切の希望を捨てよ』と物語っていたが、リュディガーは変わらずに爽やかな笑みを浮かべて言った。
「俺はアビゲイルお嬢様にお仕えするために、今日まで生きてきたのです」
その言葉に、サミュエルは彼は今まで来た使用人とは違うようだとすぐに感じた。剣を背負ってやってくる時点で使用人の枠からかなり外れかかっているが。
同時に彼の言葉に非常に重い何かを感じて、本当にお嬢様につかせて大丈夫だろうかとも思った。サミュエルは非常に勘の鋭い人間であった。
しかし侯爵からのお墨付きさえ携えている以上、家令としてアビゲイルにメイドの到着を報さなければならない。
サミュエルは事前に用意していた女性用の使用人部屋ではなく、男性用の使用人部屋にリュディガーを案内し、少々の迷いを抱えたままアビゲイルにメイドの到着を伝えにいくことにした。
ここでアビゲイルが気分ではないから会いたくないとでも言ってくれれば楽なのだが。
だが、そんな願いも虚しくアビゲイルはすぐに会うと言ってきた。どうやら今日は虫の居所がそれでも良い方らしい。
サミュエルは溜め息を零しながらも、待機を言い渡して待たせていたリュディガーをアビゲイルに会わせるべく使用人部屋へと戻った……のだが。
「……えぇ?」
「あぁ、ルヴォアさん。お嬢様は何と?」
「え、あ、あぁ、すぐにお会いになるので紹介状を持って部屋に来るようにと……」
「ではすぐに参ります」
「そう、ですね……?」
「申し訳ないのですが、お嬢様の部屋まで案内をお願いしても良いでしょうか」
「あぁ、もちろんですとも……」
言い付けを守って大人しく使用人部屋で待機し、サミュエルに向かって礼儀正しく頭を下げて謝意を述べるリュディガー。
待機中に着替えたのだろう彼が纏うのは、真新しい侯爵家のお仕着せであった。
そう。サミュエルのよく知る侯爵家のメイドのお仕着せである。
きちんと髪を纏め、ヘッドキャップも規定通りに着用しているのは素晴らしいが、何せそれらは女性用だ。
しっかりと鍛えられ逞しい体躯の青年が纏うと、見た目の衝撃がなんかもうものすごい。ムチムチのムキムキでパツパツである。
男がメイドとしてやって来たのも意味がわからなければ、女性用のお仕着せを着ているのも意味がわからない。リュディガーの存在はサミュエルの常識の遥か彼方にいた。
それでもそれが侯爵の意向であるなら従わなければ。
常識と目の前の現実の間で困惑に押し潰されそうになりながら、サミュエルは別の意味でアビゲイルに会わせて大丈夫だろうかと心配になった。正しい感覚である。
リュディガーをアビゲイルの部屋まで案内し、サミュエルはそっと隣の部屋から暖炉の火かき棒を持ち出してドアの前に控えた。
いざとなったら自分がお嬢様を守らねば。
あのムキムキの元聖騎士相手に老いた自分などがどこまで応戦できるものかはわからない。しかしサミュエルは侯爵家に仕える忠実な使用人であり、アビゲイルを守る義務がある。
ギュッと強く火かき棒を握るサミュエルを、アビゲイルの動揺を含んだ渾身の叫び声が襲ったのは、そのすぐ後のことであった。
「──そんなこともありましたねぇ」
サミュエルは屋敷の裏手で手際良く薪割りをするリュディガーを厨房の窓から眺めながら、過ぎ去った日々を思い出してぽつりと呟いた。
メイドのお仕着せを着たまま軽やかに斧を振るうリュディガーの絵面はなかなか衝撃的だが、既に慣れた。
最初こそリュディガーにどう接するのが正解か答えを出しあぐねていたサミュエルだったが、リュディガーの人柄は申し分なく、しかも非常に働き者で有能であったのだ。
そのお陰か、リュディガーが来てからはアビゲイルもヒステリックに喚き散らすことがなくなり(時折叫んではいるが)、屋敷には平穏な空気が流れている。
「あれ、ルヴォアさん。どうかしましたか」
「いえ、特には。君は働き者だと思って見ていたところです。薪割りの前には洗濯も手伝っていたでしょう?」
「このくらいお嬢様のためなら当然です」
「当然、ですか」
「えぇ。そのための俺です」
薪割りを終え、裏口からまっすぐ厨房に入ってきたリュディガーは、サミュエルの言葉に答えながら迷いなくアビゲイル用の茶器を用意し始めた。
そういえばそろそろアビゲイルのお茶の時間だ。
前日の夜に焼き上げて一晩寝かせていたフルーツケーキの具合を確かめ、良い出来だと微笑むリュディガーにサミュエルはしみじみと呟いた。
「あの気難しいお嬢様相手によく尽くしてくださり、本当にありがたいことです」
「気難しい? アビゲイルお嬢様が、ですか?」
「えぇ、以前いたメイドたちのほとんどは泣きながら屋敷を去りました」
「俺だってお嬢様と離れることになったら号泣しますが」
「うーん、少し違うんですよねぇ」
アビゲイルの話をする時、サミュエルとリュディガーは度々この手の食い違いを起こす。
リュディガーは心底喜んでアビゲイルの身の回りの世話を焼いている。元聖騎士だけあってメンタル面も鍛えられているのかもしれない。サミュエルはそう思って続けて口を開いた。
「辛くなったらいつでも言ってください。使用人のメンタルケアも私の役目ですので……」
サミュエルに言われ、リュディガーは作業の手を止めて少しの間ひどく難しい顔をして考え込んだ。
「……まさか、いやでも……」
「クラネルトさん?」
「んんんんんんんんんんん」
「クラネルトさん? どうしました?」
考え込んでいたかと思えば、急に口の中に輪切のレモンでも詰め込まれたかのように顔をキュッと顰めたリュディガーに、サミュエルはどうかしたのかと素直に心配した。
彼が屋敷に来てから初めて見せる顔だったからだ。
まさかやはり何か辛いことがあったのか。
サミュエルの脳裏に、これまで辞めていった侍女とメイドの姿が過ぎる。
しかし、リュディガーは変わらず顔をキュッとさせたままボソボソと答えた。
「お嬢様の素晴らしさについて語って共有したい気持ちと、俺だけが知っていれば良いという独り占めしたい気持ちがせめぎ合っていて……」
「はぁ……」
「アッ! でももうお嬢様のお茶の時間なので! この問題についてはいずれ必ず!」
「え、えぇ。君の結論が出た時に、また」
そうしてアビゲイルのためのお茶と菓子を用意したリュディガーは、ティーワゴンも使わずにそれらを載せたトレイを軽々と片手に持って厨房を出ていった。
「お嬢様の素晴らしさ、ですか……」
サミュエルがよく知るアビゲイルは、まだ彼女が聖女候補に認定されるよりも前の幼い頃と、この屋敷に来てからの姿である。
己の目で見たものを信じていたはずだが、もしかしたら自分はさほどアビゲイルのことを知らないのかもしれない。
「またクラネルトさんに教えられてしまいましたね」
サミュエルは苦笑した。
このようにして、リュディガーがもたらすほんの小さなきっかけが、屋敷の空気を変えていくのだ。
『──リュディガー! 上腕二頭筋で腹話術をするのはおやめと言ったでしょう!』
今日も遠くからアビゲイルの叫び声は聞こえてくるが、それは以前に彼女が発していたような、誰彼構わず傷付けるための声とはまるで違う。言葉の意味は全くもってわかりかねたが。
それでも、これはきっと良い変化だ。
(侯爵閣下に近況報告をしなければ)
一度だけこくりと小さく頷いた家令サミュエル・ルヴォアは、とても穏やかな表情で、己の職務を果たすべく与えられた執務室に向かうのだった。




