第五話 「国盗りをご所望ですか?」
──ある日、ふと気付いたように読んでいた本なら視線を上げたアビゲイルがぽつりと呟いた。
「リュディガー。お前、わたくしが聖女候補を外れた理由を知っていると言っていたわね」
最近あまりにも穏やかな日々を過ごしていて忘れがちだったが、アビゲイルはとある事件をきっかけに聖女候補から外され、王都を追放された身である。
それを口にすると、午後のお茶のためにテーブルにクロスを敷いていたリュディガーは、苦笑しながら小さく頷いた。
「えぇ、まぁ。聖騎士団には聖女候補の情報がすぐに入るようになっていますし、それでなくとも……」
「何?」
「俺がお嬢様の現場に出ない代わりに、お嬢様に関する情報はどんな些細なものでも逐一報告すると団長と契約を交わしていたので……」
「そう。わたくしのプライバシーはそうやっていとも容易く侵害されていたという訳ね」
「えっ、そんな、侵害だなんて! 一日の食事のメニューだとか外出先だとか交友関係、起床・就寝の時間だとか、そういう本当にちょっとした事だけですよ?」
「ひっ、す、ストーカー……!」
聖女候補には聖騎士団から護衛が日替わりシフト制で派遣される。
それはアビゲイルも承知していたが、自分の情報がここまで筒抜けだとは知らなかった。
「まさかそうやってあの女の情報も……」
「あ、いえ、それは毛ほどの興味もなかったので名前くらいしか知らないです。それに俺、あの頃は退職を押し通すのに忙しかったですし」
「温度差……!」
本当にこのリュディガーという男はアビゲイルのこととなると、ちょっと人としておかしくなるなとアビゲイルは冷静に思った。
むしろ既にこのくらいの奇行であれば想定の範囲内になってしまった自分が恐ろしい。
アビゲイルは大きな溜め息を吐いてやれやれと首を振った。
「まぁ、知っていてここまで来たのだものね。今更だったわ」
「でも俺はあの日のことを今でも悔しく思っています。俺がお側にいられたらと思うと」
「リュディガー……」
悔しげに眉根を寄せ、ぐっと握った拳を見つめて苦々しく言うリュディガーに、そこまで思ってくれていたのかとアビゲイルはほんのちょっぴり感動する。あの場では自分の味方など一人もいなかったのだ。
リュディガーは続けて呪詛のように低い声で吐き出した。
「……俺がお側にいたらあの場であの女の首を叩き斬ってやれたものを……!」
「そっち!? いえ、確かにあの者の首を刎ねてしまえと言ったのはわたくしだけれど!」
──事件の発端となったのは、アビゲイルが招かれた宮廷晩餐会で出されたメニューだった。
その日のメインは稀少な赤身肉を使ったグリル料理で、料理に合わせて臭み消しと彩りを兼ねて肉の表面には
ローズマリーが塗され、皿にもそれが一枝添えられていたのである。
見た目にも美しいそのメイン料理が出された瞬間、アビゲイルは浮かべた笑みを凍らせた。
同じテーブルについていた貴族の中には、すぐに状況に気が付いてアビゲイルに視線を向けた者もいた。
そう。アビゲイルはローズマリーが大の苦手であり、常日頃からそれを公言していた。
こういった晩餐会は例え貴族が開催するものであっても、招かれたゲストの好き嫌いは事前に料理人に伝えられているはずで、アビゲイルの前にその大嫌いな食材が出てくるなどあってはならないことであった。
しかし王家主催の宮廷晩餐会である。一口も手を付けないとなると不敬を問われる可能性もある。
アビゲイルは意を決して一口だけ肉を口に運び、ローズマリーの味に吐きそうになりながらも必死でそれを飲み下した。
そして口の中の味を追い出すために、メイン料理に合わせて取り替えられた水を含んだのだが。
なんとグラスの中の水はレモンとローズマリーで味付けをしたハーブ水だったのである。
あの時、反射的に吐き出さなかったのは宮廷晩餐会という場での侯爵令嬢としての矜持があったからだが、だからこそアビゲイルは許せなかった。
そっと口元をナプキンで拭い、アビゲイルは静かに、そして冷たい声で言った。
「この料理を用意した料理人をここへ」
その後、アビゲイルの言葉によって晩餐会の場に呼び出されたのはまだ若い女性料理人だった。
若い女性が料理人になることは珍しく、それが宮廷の厨房を任されているとなれば尚更である。
緊張からかブルブル震えている女性料理人に、アビゲイルはにっこりと微笑んで問う。
「あなたがこの料理を? このメニューを選んで、調理して、ここへ運ぶように指示をしたのかしら?」
「は、はい。そうです……」
「そうなの。あなたは最近宮廷に上がった方ね」
「えぇ。先月から」
「そう。宮廷の料理人も堕ちたものだわ。まさか、このわたくしの皿にローズマリーを載せるだなんてね」
この国においてハインツェル侯爵家は王家に次ぐ権力を持っている。
その侯爵家の一人娘であるアビゲイルは、ほとんど王女といっても差し支えのない立場だった。
アビゲイルは聖女候補であり、この国の貴族令嬢の頂点に君臨する娘だったのだ。
そんな己がこのような扱いを受けるなど屈辱以外の何ものでもない。
女性料理人を睨みつけ、アビゲイルは声高らかに言った。
「この無礼者の首を刎ねておしまい! ゲストの把握も出来ない宮廷料理人だなんて、恥知らずも良いところだわ!」
そしてその直後にそれまで静観を決め込んでいた王子がすっくと立ち上がり、アビゲイルを断罪したという訳だ。
なんとこの女性料理人、王子の秘密の恋人であったらしい。
王子は王家の開催した晩餐会を台無しにし、人の命を簡単に切り捨てるアビゲイルの傲慢極まりない振る舞いこそ罪であるとして処刑を言い渡したが、その後の侯爵家の異議申し立てによりアビゲイルは僻地送りとなったのである。
アビゲイルが全てを失って王都を追放された代わりに、王子の秘密の恋人であったその女性料理人は心の清らかさを認められて正式に聖女候補となったというのだから驚きだ。
アビゲイルが聖女候補から降りた今、候補となるのはその女性料理人だけ。彼女が聖女となるのは時間の問題である。
「今では聖女の称号も形骸化していて、選ばれるのだって結局はコネや賄賂だし、権力の象徴としてしか機能していないけれど、確実に己の手に入るはずだったモノを奪われるとなるとそれはそれで悔しいものよね」
あの夜のことを思い出し、アビゲイルは口にローズマリーを含んだ時のように盛大に顔を顰めた。
テーブルにクロスを敷き、菓子を載せた皿と茶器を置くリュディガーも顔を顰めている。
「あれ、絶対に王子があの女を聖女候補にするために裏で仕組んでましたよ。お嬢様のローズマリー嫌いを知らない人間なんて社交界にいません。料理人の中でも有名でした。それなのに水にまでローズマリーを使うだなんて……。お嬢様がお怒りになるのを狙っていたとしか思えません」
「それは、わたくしも今ではそう思うけれど……。でももう全て終わったことだわ」
「だから悔しいんです! 俺がそこにいたら、お嬢様の命令に即座に従ってそいつの首を落としたのに!」
「む、無辜の民相手になんて事を……。聖騎士にあるまじき発言ね」
アビゲイルのことなのに、アビゲイル以上に怒っている人間がいる。
その事実を目の当たりにしたら、かえって冷静になってしまった。
アビゲイルにとってはもう全て終わったことで、聖女候補の座を追われてこうして田舎に追放されてしまったし、ここから打てる手もなければ、手を打つ気力もない。
そう思っていたから、尚の事リュディガーの怒りはアビゲイルの心の深いところを慰めた。
「ふふ。お前、わたくしがもしもあの腹黒な王子の首を持って来いと言ったら本当にやりそうね」
もう気になどしていないのだと冗談めかした笑みを浮かべ、アビゲイルは未だ怒り心頭といった様子のリュディガーを宥めにかかる。これではいつまで経ってもお茶にありつけやしない。
リュディガーは微笑むアビゲイルを見て、パチと藤色の目を瞬かせ、つられたようにふっと笑みを浮かべた。
「はは、お嬢様ったら」
小さく肩を揺らしてくつくつと無邪気に笑うリュディガーに、とりあえず怒りは鎮まったようだとアビゲイルが安堵した瞬間。
鞘を払う独特の音がして目の前に白刃が現れた。
え、とアビゲイルが目を丸くする横で、リュディガーは剣を構えて静かに笑っている。
「なぁんだ。お嬢様は国盗りをご所望ですか? とりあえず一ヶ月頂けます?」
「おおお、お前、わたくしを逆賊にするつもりなの!?」
「ははは、冗談ですよ。ははははは」
「目、目が笑ってない……! もう、その剣どこから出したのよ。さっさとしまってちょうだい!」
リュディガーの割と本気めの殺意を目の当たりにして、アビゲイルはげんなりとした表情で椅子の背に身体を預けた。
その目の前でリュディガーは命じられた通り、そそくさとお仕着せのロングスカートの下に剣をしまっている。スカートにそんな物騒なものを仕込むな。
そう言おうとしたアビゲイルだったが、捲り上げたスカートの裾からチラッと逞しく鍛えられた太い脚とそこにベルトで取り付けられた鞘が見えてしまい、小言を口にする前に色んな意味で喉の奥で悲鳴を上げた。
(……が、ガーターベルトまでしているのね……)
見えたのは剣を取り付けるためのベルトのようなので、厳密にはガーターベルトとは異なるのかもしれないが、太ももに括り付けられたベルトはちょっとだけ官能的に見えてしまった。
そんなこと、口が裂けても言葉には出せないが。
「さて、お嬢様。気を取り直してお茶にしましょう。今日は良い蜂蜜があったので一緒にお持ちしたんです」
「そうなの。なら、お茶に合わせてみるわ。今日のお茶請けは何かしら」
「こちら、林檎の甘露煮です。お嬢様のお好みに合わせてスライスしたレモンを添えてあります」
「……わたくし、林檎の甘露煮にレモンを添えるのが好きだと言ったことがあったかしら……?」
「…………」
「……リュディガー?」
「……(ニコ!)」
アビゲイルはリュディガーの無言の笑みをしばらくじとりと見つめていたが、その内にもうどうでもいいと大きく息を吐いてひらりと手を振った。
「もういいわ。リュディガー、お茶」
「かしこまりました、お嬢様!」
今日もアビゲイルの好み通りに淹れられたお茶を飲み、彼女は何となしに考えた。
(この男、わたくしのことなら何でも知っていそうだわね)
今アビゲイルが口に含んだお茶にしたってそうだ。
アビゲイルは香り高く、けれど渋みの少ないお茶の淹れ方を好む。
しかしそれをこの男に伝えた記憶は一切ない。ないけれど、この男は当たり前のことのように知っていた。
(まぁ、不味いお茶を飲まされるよりはマシだものね)
実際のところ、アビゲイル自身の自覚していないような些細なことまで知っていそうで少し怖い。
だがアビゲイルはそんな事実からそっと目を逸らし、優雅にティーカップを傾けた。
例えリュディガーがストーカー紛いのことをしていたとしても、今こうして役立っているのならそれで手打ちだ。
それがアビゲイルの出したあまりに剛気すぎる結論だった。
「お味はいかがですか?」
「まぁ、悪くないわね」
侯爵令嬢アビゲイル・ハインツェル。
何だかんだで彼女もそれなりに順応性の高い人間であった。




