第三話 お嬢様の為の特製ブレンドティー 〜筋肉を添えて〜
アビゲイルはひどく難しい顔をしながらも自室のソファに姿勢良く座り、侯爵令嬢に相応しい優雅な所作でティーカップを持ち上げた。
カップに注がれたお茶からふわりと漂う香りにムと難しい顔をしたかと思えば、一口飲んで彼女はムムムと更に難しい顔をする。
そんなアビゲイルの様子にリュディガーは不安そうな表情で眉尻を下げた。
「お口に合いませんか?」
ムキムキの新人筋肉メイドからの上目遣いの問い掛けである。
アビゲイルはそっとカップから唇を離し、視線だけをリュディガーに向ける。
そしてキュッと強く目を瞑って唇を軽く噛み、数秒沈黙した後、小さく唇を震わせた。
「……悪くないわ……」
か細く震えた声にはどこか屈辱のようなものが滲んでいる。
実際のところ、リュディガーの淹れたお茶はこの領地に来てから飲んだ中で一番美味しかった。
それどころかアビゲイルのこれまでの人生の中で一番と言っても過言ではない程だった。
香りは芳醇でもくど過ぎず、飲み口はすっきりとしていて飲んだ後にほんのりと口の中に花のような香りが残る。
味蕾が捉えた味には幾つかの茶葉の特徴があったので、これが絶妙な比率でブレンドされた最上級品だとわかる。
茶葉の量、蒸らし具合と抽出時間、使用するお湯の温度にカップの温め方まで。
全てが最適であるからここまで美味しいお茶を淹れられるのだ。
そしてそれが簡単なことでないことをアビゲイルは知っている。
──だからこそアビゲイルはなんだか無性に悔しかった。
(こんな……っ、こんな、女装したムキムキのデカくてむさ苦しい男が淹れたお茶が美味しいだなんて……っ!)
事実、リュディガーの淹れたお茶は素晴らしかった。
けれどあまりに多過ぎる視覚情報その他諸々が邪魔をして、アビゲイルにその素晴らしさを素直に認めさせてくれない。
ゆえにアビゲイルは複雑な感情を我慢できずに顔をキュッと顰めていた。
(しかも何なのよ、この男! 元聖騎士と言っていたのにメイドの仕事が既に完璧ってどういうことなの!?)
そもそも最初からおかしかった。ちなみに服装の話ではない。
先程リュディガーに洗顔用の水を持って来させた時、アビゲイルは『洗顔用の水を用意しろ』とだけ命令した。
これまでの田舎令嬢は器と冷たい水の入った水差しを用意して『どうぞ、お嬢様』というのみだった。
けれどリュディガーはふざけたとしか言いようのない格好をしているのに、彼が持ってきた水はお湯を足されて適温に調節されていた。器に張られた水の量も完璧だった。そして顔を洗ったアビゲイルが望む完璧なタイミングで肌触りの良いタオルをそっと差し出したのだ。
その後、リュディガーは粛々とメイドとしてアビゲイルの身の回りの支度を手伝い、部屋の掃除を済ませ、軽食まで用意した。
全ての手際が見事過ぎて、アビゲイルはすっかり着替えて髪を結い上げて貰ってから、ようやく今日初めて顔を合わせた男に着替えを手伝わせた事実に気が付いて、リュディガーがお茶の支度のために席を外している間ソファの上で悶絶していた。
そして今、アビゲイルはお茶を飲みながら必死に心を鎮めようと努力している。
(何を動揺しているのアビゲイル! わたくしは侯爵令嬢。使用人は家具のようなものではないの。しかもあれは男だけれどメイド! そう! メイドならばわたくしの着替えを手伝ってもおかしくは……おかし、お、おかしいでしょう! どう考えても! でも一切もたつくことなく、コルセットの締め具合の調節さえ繊細なのは一体どういうことなの……。何なのあの男は……)
そっと目を開き、アビゲイルの側に控える元聖騎士のムキムキメイドを見つめる。
自身が淹れたお茶を悪くないと評されて嬉しかったのか、彼は輝くニコニコ顔である。
有能であるのは確かなようだし、しばらく様子見を兼ねて使用人として側に置くくらいしてもいいのではないだろうか。
ならば己はこの新しい使用人に主人の威厳というものを見せつけてやらねばならない。躾は最初が肝心だ。
アビゲイルは胸中の動揺を押し隠し、さも『何も気にしていませんよ』とばかりに顔に笑みを張り付けて言った。
「このお茶。茶葉はどこから仕入れてきたものなのかしら」
余裕のあるゆったりとした口調での問い掛けは我ながら上手くいったと思う。
対するリュディガーもアビゲイルの質問にハキハキと答えた。
「茶葉は侯爵家御用達の王都の商会で買い付けて、その後でこの土地の水に合うように俺がブレンドしました」
そうなの、と一言で済ませようとしてはたと動きを止めたアビゲイルは、頭の上に大きな疑問符を浮かべて首を傾げた。
「……待って。それはいつの話なの? わたくしがこの領地に来てまだ二ヶ月と少しよ。その間にお前は聖騎士団を辞めて、お祖父様のところに通って、そのメイド用のお仕着せを自分で仕立てて、更にはこの土地の水に合うように茶葉をブレンドしたというの? いくらなんでも無理があるわ」
聖騎士団を辞める時にも引き留めがあったようだし、その後、侯爵家の使用人になる許可を得るため祖父のところにもしばらく通っているはずだ。
この領地へだって王都からでは来るだけで時間がかかる。逆算しても日数が合わないのではないか。
そう指摘すると、リュディガーは何でもないことのように答えた。
「当初の計画ではすぐにお嬢様の使用人になれる予定だったのです。例の宮廷晩餐会の件があった翌日には騎士団長に辞表を叩きつけていたのですが、色々と時間が掛かってしまったせいで二ヶ月も遅れてしまって……一日も早くお嬢様の元に駆け付けたいと思う気持ちが特製ブレンドティーを生み出し……」
「待って」
アビゲイルは手のひらを突き出してリュディガーを制止した。
色々と引っかかることはあったが、最後まで言わせたらそのまま流されてしまうような気がした。
「例の事件の翌日には辞表を叩きつけた、とは?」
「そのままの意味です。宮廷晩餐会で王子殿下がお嬢様を糾弾し、聖女候補から外したと聞いて、即辞表を出しました」
「何故そんな馬鹿なことを……! 聖騎士であれば一生安泰であったでしょうに、どうしてわたくしが聖女候補から外れただけで辞表など出すのよ! お前一生を棒に振ったのよ。わたくしなどのために人生をめちゃくちゃにしている自覚があって?」
この国において聖騎士になるのはとても難しいことであり、生半可な覚悟で出来ることではない。
それなのにどうして自分の後を追うような真似をするのか。
理解に苦しむとアビゲイルが言えば、リュディガーはアビゲイルの前で膝をつき、真剣な表情で口を開いた。
「俺が聖騎士になったのは、お嬢様が聖女となられた時にその騎士となるためです。お嬢様が候補から外れたのなら俺に聖騎士団に留まる理由はありません。聖騎士の称号への未練などありませんし、俺にとってはお嬢様のために働くことこそ何よりも尊いことなのです」
「どうしてそこまでわたくしにこだわるの」
「だって、お嬢様が仰ったんですよ。十四年前の豊穣祭の時に」
その言葉にアビゲイルはギョッとして、危うくカップを取り落とすところだった。
「わたくしが? わたくし、お前と会ったことがあった?」
「はい! お嬢様は豊穣祭を見るためにお一人でお屋敷を抜け出して街で迷子になっていて、通り掛かった俺を案内役に任命されました。その時にお嬢様が仰ったんです。お前は見込みがありそうだから、もしも聖騎士になれたら聖女になる自分の騎士にしてやっても良いと。だから俺、頑張って聖騎士になったんです」
リュディガーは当時を思い出すような表情で目をキラキラさせている。その言葉に嘘はなさそうだ。それに、何よりも。
(言うわ。その頃のわたくしなら絶対にそういうことを言う……!)
アビゲイルは幼少期から侯爵令嬢として、そして聖女候補として自身に絶大な自信を持っていた。
デビュタント前から怖いものなど何もない無敵の令嬢だったのだ。
歳を重ねた今なら、あの頃の自分が一人で街に出ることの無謀さや恐ろしさを理解出来るが、幼い自分はどこにいても誰もが自分を愛し尊重してくれると信じていた。
だから通り掛かっただけのリュディガーに案内役をしろなどと言ったのだろう。全く記憶にはないがあの頃の自分ならやる。
(え? じゃあ何? この男、わたくしがその場のノリで聖騎士になれたら自分の騎士にしてやると言ったから聖騎士になって、わたくしが候補から外れたからあっさりその地位を手放して、今ここで何の躊躇もなくメイドのお仕着せなど着ているの? 全て、わたくしの、ために……?)
目の前の男が、幼い自分の放った何気ない言葉を信じてここまで来た事実に、アビゲイルは少なからず恐怖した。
まさか自分の言葉一つで他人の人生をここまで左右してしまうだなんて思わなかった。
少なくとも元聖騎士がメイドになるルートは想定の範囲外だった。まぁ、それは多分誰にとっても同じだと思うけれど。
(わたくし、もしかして、いえ、もしかしなくともこの男の人生を歪めてしまったのでは……)
さぁっと青ざめたアビゲイルとは反対に、いまだキラキラの笑顔を浮かべたリュディガーは跪いたまま、何故かほんのりと頬を染めてアビゲイルを見上げている。
彼の人生を歪めてしまったのではという不安と負い目のあるアビゲイルは、少しだけ弱気になって視線を返した。
「な、何よ……」
「あの、お嬢様。俺、お嬢様に一生を捧げる覚悟があります。それで、あの、僭越ながらもう一度さっきの言葉を頂きたく……」
「さっきの言葉?」
「はい! あの、お嬢様に、俺の人生めちゃくちゃにしてやるって言われたくて……! あ、ちょっと蔑む視線で言って頂けると俺も色々捗るので、是非ともそんな感じでお願いしたく」
「お黙り。冗談は格好だけにして、さっさと正気に戻ることよ」
「アッ、冷たい。でもそこがいい……♡」
「頬を染めて身体をくねらせるのはおやめ!」
頬を染め、熱っぽく潤んだ瞳で言われた内容に、アビゲイルは逆にスンッとチベットスナギツネもかくやという虚無顔になった。
あ、これわたくしが人生を歪ませたというよりこの男の元々持っていた性質、つまり性癖ね。
そんな事実に気付いてしまったのだ。扉を開けたのはアビゲイルかもしれないが、その扉自体は元々リュディガーの中にあったのだろう。
なお、ここで反射的に出た言葉は、これまで社交界で培った淑女同士の優雅な応酬の賜物である。
だが、本人の性癖が多少アレでも、アビゲイルの些細な思い付きでリュディガーが聖騎士となったことも、彼が苦労の末に手にした輝かしい栄光をあっさり手放した事実も消えず、そこに辿り着くまで彼が重ねてきたであろう努力もまた消えない。努力というか、もはや全てが執念と言い換えてもいいが。
アビゲイルは空になったティーカップをソーサーに戻し、深く息を吐きながら考えて考えて考えて、そしてふふんと不敵に笑った。
「お前にとっては、例えメイドとなってもわたくしの側で、わたくしのために働くことこそ本望なのでしょう? だとしたら今のこの状態は、お前にとって人生順風満帆そのものではないの。クラネルト卿、せいぜいわたくしに解雇されないよう励むことよ」
──だって、わたくしに解雇されたら、それこそお前の人生めちゃくちゃでしょう?
どこまでも傲慢に、そして誰よりも毒を含んで美しく微笑んだアビゲイルに、リュディガーは一瞬言葉を失って目を瞠った。
そしてその直後、彼は首まで真っ赤に染め、両手で顔を覆いながらぐしゃりと床に頽れた。
「〜〜〜〜あ゙り゙がどゔござい゙ま゙じゅ゙」
「床に転がって青虫よろしくうねうねするのはおやめ!」
こうして、侯爵令嬢アビゲイル・ハインツェルは、王都から自分を追い掛けてやってきたムキムキの元聖騎士リュディガー・クラネルト卿(※ちょっぴり被虐思考あり)を、自分付きのメイドとして側に置くことになったのだった。だってもう他にメイドの成り手がいないのだから仕方ない。
なお、この件がハインツェル侯爵家の歴史書に『クラネルト卿メイド就任事件』として刻まれることになるとは、リュディガーは元よりアビゲイルも予想だにしていなかった。




