第一話 美しい朝、囀る小鳥、そして筋肉
アビゲイルは外から聞こえる小鳥の囀りに気が付き、ベッドに横たわったまま溜め息を吐いた。
──また、朝が来てしまった。
そっと瞼を持ち上げれば、そこに見えるのはアビゲイルの自室である。
カーテンの閉まった薄暗い部屋は、王都の屋敷に比べればずっと狭く、古びている。調度品自体はどれも良いものではあるが古臭さは拭えず、壁紙だって流行から大分外れたものだ。
それらを目にする度に突き付けられる現実に、アビゲイルは屈託の滲んだ表情を浮かべてのそりと身体を起こした。
「朝だというのにメイドは一体何をして……」
いつまでも起こしに来ない部屋付きメイドを叱りつけようと考えたところで、三日前に最後の一人がアビゲイルの仕打ちに耐えかねて出て行ったことを思い出す。
幸い屋敷を整えるための使用人は何人か残っていたし、通いではあるが料理人もいる。
最低限の生活は確保出来ているが、アビゲイルは己の待遇を不満に思っていた。
苛立ちを隠さず、いささか乱暴な仕草で布団を跳ね除けて窓際まで行くと、アビゲイルは勢いよくカーテンを開けた。
「っ!」
途端に部屋に差し込む眩い朝日。
その眩しさにアビゲイルは一瞬強く目を瞑った。
(どうしてわたくしがこのような事をせねばならないのよ)
自分を起こすのも、カーテンを開けるのも、全てメイドの役目だ。
部屋付きメイドがいないから、洗顔用の水だって起きてから人を呼んで用意させなければならない。
そんなのは、侯爵令嬢であり、かつて王都の神殿に迎えられる聖女候補であった自分のやることではない。
全てはアビゲイルのためにあらかじめ整えられているべきものだ。
「あぁ、でも昼には新しいメイドが来るのよね。今度こそ少しは使えるといいのだけど」
使えなかったら即送り返してやる。
そう思いながらアビゲイルはガウンを羽織ってバルコニーに出た。
この田舎の領地に送られてから二ヶ月と少し。
空気が澄んでいて、呼吸をするだけで健康になれるような気がするのと、王都ではあまり馴染みのない可憐な小鳥の囀りが聞こえる事だけが彼女の心の慰めだった。
そうしてアビゲイルがバルコニーから田舎の豊かな自然を眺めてしばらく経った頃である。
部屋のドアがノックされ、この屋敷を任されている年嵩の家令がおそるおそるといった口調で部屋の外から声をかけてきた。
「お嬢様、お目覚めでいらっしゃいますか。あ、あの、新しいメイドがご挨拶したいと……」
珍しく戸惑い気味な家令の言葉に、アビゲイルはパチリと目を瞬かせる。
バルコニーから部屋の中に戻り、ドアを開けずに彼女は答えた。
「あら、昼だと聞いていたのにもう来たの。まぁいいわ。紹介状を持って今すぐ部屋に来るよう伝えなさい。仕事は山ほどあるのよ」
「よろしいのですか?」
「いいも何も、早く来たなら早く仕事をさせるべきだわ。ちょうどいいからわたくしの朝の支度から手伝わせます」
「……かしこまりました」
家令の気配が遠ざかるのを確かめ、アビゲイルは踵を返して再びバルコニーに出る。
そしてはたと気が付いて呟いた。
「洗顔用の水を持ってくるように伝えるのを忘れたわ」
しかしすぐにメイドが来るのなら、そのメイドにやらせればいい。
どんなに使えなくても、さすがに洗顔用の水を運ぶくらいは出来るだろう。
(紹介状を確認したらすぐに洗顔。それから髪の手入れをして、あとは……)
この屋敷でアビゲイルがやることは多くない。
社交活動だってないのだから、読書か刺繍、楽器演奏、それから健康のための散歩程度のものだ。
一日は退屈極まりないほど平坦で、とても長い。
「……この退屈さえ罰だというのかしら……」
結わずに背に流した長い金の巻毛を風に遊ばせながら彼女が零した言葉は誰の耳にも届かない。
きっと、もう誰もアビゲイルの言葉などに耳を傾けたりしない。
(王都を追われた者の末路なんて哀れなものよね)
かつて社交界で絶大な地位と権力を誇り、貴族たちの中心で輝いていた己は既に過去のもの。
侯爵である祖父の権力でなんとか貴族籍こそ残されたが、こんな寂れた田舎に封じ込められては実質的に平民に落とされたのと同じことだ。
もう二度とあの煌びやかな王都に戻れる日も来るまい。
アビゲイルは諦念の混じった物憂げな表情を浮かべ、大きな溜め息を吐いた。
その時である。
部屋のドアを叩く音がして、彼女は新しいメイドがやって来たのだと、身を翻してバルコニーの手摺から離れた。
「──入りなさい」
着替えるのは面倒だったので、とりあえずガウンを羽織り直し、ソファに腰を下ろして指示をする。
その言葉に従うようにそっとドアノブが動いて、静かにかつゆっくりとドアが開いた。
今度の新入りメイドは、主人の気に障らないドアの開け方程度は知っているらしい。
最近は王都式のマナーもろくに知らない田舎令嬢ばかり相手にしていたが、今回は少しばかり期待できそうだ。
「失礼致します。アビゲイルお嬢様」
聞こえたのは想像よりもずっと低い声。
……いや、低過ぎる。まるで男だ。一体どんなメイドが来たのだろうか。
アビゲイルは怪訝な顔でドアの方を見て、そしてきっかり五秒動かなかった。
「……は?」
きちんとシニヨンに結われ、メイドキャップをつけた艶やかで美しい鉄色の髪。
この国では稀少な藤色の瞳。
侯爵家のメイドのためにデザインされた昼用のお仕着せ。
「……は???」
──そしてそのお仕着せをパツパツにするほどの筋肉。
「お初にお目にかかります。今日からお嬢様付きのメイドとしてお屋敷に入りました、リュディガー・クラネルトと申します♡」
朝日の差し込む部屋の中、ムキムキの身体をメイドのお仕着せに押し込めた美しい男が、にっこりと笑みを浮かべてアビゲイルの前に立っていた。
──数秒の沈黙の後。
アビゲイルは豊かな金の睫毛に縁取られた青い瞳をカッと見開いて渾身の声量で叫んだ。
「男ではないの!!!!!!!!」
屋敷を揺るがすようなアビゲイルの叫び声が辺りに響き渡り、ガラスがビリビリと揺れる。
美しい田舎の朝の風景に、今朝も可愛らしく囀る小鳥の声。
そして朝日の眩しさにも負けじとばかりに存在感を主張するムキムキの筋肉メイド。
侯爵令嬢アビゲイル・ハインツェルの、色んな意味で新しい一日の始まりであった。




