第2話:初恋の記憶、消せない言葉
「陽翔、久しぶりだね。元気にしてた?」
真白の声が、僕の耳に優しく響く。五年前と変わらない、少しだけハスキーな、それでいて透明感のある声。その声を聞くだけで、僕の心はあの頃に引き戻されるようだった。
「うん、まあね。真白こそ、元気だった?」
僕はぎこちなく答えた。左手の指輪が、僕の視界の端でキラリと光るたびに、胸の奥がチクリと痛む。聞きたいことは山ほどあるのに、何から尋ねればいいのか分からない。
「うん、私は元気だよ。まさか、こんなところで陽翔に会えるなんてね」
真白は屈託なく笑った。その笑顔は、僕の心を揺さぶる。
バスが到着し、僕たちは自然と乗り込んだ。車内は混み合っていて、僕たちは寄り添うように立つことになった。真白の髪から、雨に濡れたような、懐かしいシャンプーの香りが微かに漂ってくる。
「真白、今、どこに住んでるんだ? ていうか、連絡先とか……」
僕は、焦る気持ちを抑えきれずに尋ねた。この再会を、ただの偶然で終わらせたくなかった。
「あ、ごめんね。転校してからバタバタしてて、連絡できなくて。携帯も変わっちゃったし」
真白は申し訳なさそうに眉を下げた。その言葉に、僕の胸はまた締め付けられる。バタバタしていた? 連絡先が変わった? そんな簡単な理由で、五年間も音信不通だったのか。僕がどれだけ、君からの連絡を待っていたか、君は知らないだろう。
「うん、大丈夫。今、交換しよう」
僕はすぐにスマホを取り出した。真白も自分のスマホを取り出し、僕たちは互いの連絡先を交換した。たったそれだけの行為なのに、僕の指先は震えていた。
「じゃあ、また連絡するね」
バスを降りる真白に、僕は精一杯の笑顔でそう言った。真白も笑顔で頷き、人混みの中に消えていった。
彼女の背中が見えなくなるまで見送ってから、僕はその場に立ち尽くした。左手の指輪。あれは、一体何なのだろう。婚約指輪? それとも……。考えたくない想像が、僕の頭の中を駆け巡る。
だけど、まだ終わってない。
あのとき交わせなかった“さよなら”の続きを、
そして、“好き”の続きを、今から話そうと思う。
それが、僕の五年間の遅刻の答えだから。
五年前。
高校に入学して数週間。僕はまだ、クラスに馴染めずにいた。昼休みも、購買で買ったパンを片手に、屋上の隅で一人で過ごすことが多かった。
そんなある日、僕は屋上で、真白と鉢合わせした。彼女もまた、一人で文庫本を読んでいた。
「あれ、ここ、誰かいるんだ」
真白が、少し驚いたように僕を見た。僕は慌てて立ち上がろうとしたけれど、彼女は「気にしないで」と小さく笑った。
それから、僕たちの屋上での昼休みが始まった。
最初は、お互い言葉を交わすことも少なかった。ただ、隣に座って、それぞれの時間を過ごす。真白はいつも本を読んでいて、僕は彼女の横顔を盗み見ながら、パンをかじる。
ある日、真白が読んでいた本が、風に煽られて僕の足元に落ちた。僕は慌てて拾い上げ、彼女に差し出した。
「ありがとう」
真白はそう言って、僕から本を受け取った。その時、僕たちの指先が、ほんの少しだけ触れた。その小さな接触に、僕の心臓は大きく跳ね上がった。
「陽翔も、本読むの?」
真白が、僕が持っていた文庫本に目を向けた。それは、たまたま鞄に入れていた、僕が好きなミステリー小説だった。
「うん、まあ、たまに……」
「へえ。私も、ミステリー好きだよ」
そこから、僕たちの会話は少しずつ増えていった。好きな本のジャンル、最近読んだ面白い本、休日の過ごし方。他愛ない会話だったけれど、真白と話している時間は、僕にとって何よりも大切なものになっていった。
真白の笑顔を見るたびに、胸の奥が温かくなる。彼女の声を聞くだけで、心が弾む。
僕は、この感情が「好き」というものだと、はっきりと自覚し始めていた。
いつか、この気持ちを伝えたい。
そう、強く願うようになった、春の日のことだった。