第九話 色褪せる日常と、握りしめた手のひら』
翌朝、教室の窓から差し込む光は昨日と変わらないはずなのに、なぜか世界全体がセピア色のフィルターでもかかったように、くすんで見えた。気のせいではない。昨日感じた空の色の違和感や、ナゴリたちの不穏なざわめきは、一夜明けても消えていなかったのだ。
教室の中も、どこか活気がない。
「なんか今日、妙にだるいんだけどー」「わかるー、めっちゃ眠い……」そんな会話があちこちで交わされている。天気は悪くないのに、街全体を覆うどんよりとした空気は、確実に人々にも影響を与え始めているようだった。
私自身も、今朝から調子が悪かった。いつもならコントロールできているはずのナゴリの見え方が妙に不安定で、視界の端でノイズのようにチカチカとちらつく。そのせいか、軽い頭痛も続いていた。まるで、テレビのチャンネルがうまく合っていない時のような、不快な感覚だ。
「……雫ちゃん、顔色悪いよ? 大丈夫?」
休み時間、隣の席のハルちゃんが、心配そうに私の顔を覗き込んできた。その距離の近さに、また少しドキッとしてしまう。
「う、うん。平気だよ。ちょっと寝不足なだけかも」
「ほんとに? 無理してない?」
ハルちゃんは納得していない顔で、私の額に手を伸ばしかけた。その手が触れる前に、私は慌てて身を引いてしまう。
「だ、大丈夫だって!」
「……そっか」
ハルちゃんは少しだけ寂しそうな顔をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻って言った。
「もしかして、昨日雫ちゃんが言ってた『変な感じ』って、これのこと?」
私はこくりと頷くしかなかった。街に何か良くない変化が起き始めている。それはもう、私だけの感覚ではなく、ハルちゃんにも、そして他の人たちにも感じられるレベルで、現実になりつつあった。ニャンゴロ先生の言っていた「騒がしさ」は、これのことなのだろうか。
午後の授業中、その異変はさらに顕著になった。窓の外に広がる港町の景色が、一瞬、ふっと色を失い、モノクローム映画のワンシーンのように見えたのだ。慌てて瞬きをすると、元の色彩が戻っていたけれど、あれは幻覚なんかじゃない。
同時に、教室の中にいる生徒たちの頭上や肩のあたりに見える、淡い感情のナゴリ――オーラのようなものが、まるで古い蛍光灯のように、激しくチカチカと点滅し、乱れているのが見えた。人々の微かな不調や不安が、ナゴリの世界にも影響を与えているのかもしれない。そして、その不安定なナゴリの波が、私の頭痛をさらに強くした。力の制御が、うまくいっていない。自分の体が、自分のものでないような、嫌な感覚だった。
放課後。チャイムが鳴っても、私はしばらく席を立つことができなかった。頭痛と、視界のちらつきが収まらない。
「雫ちゃん? 帰らないの?」
心配そうに声をかけてきたハルちゃんに、私は弱々しく答えた。
「……ごめん、ちょっと、気分が悪くて。少し休んでから帰るよ」
「えっ、大丈夫!? 保健室行く?」
「ううん、そこまでじゃ……美術室で、少しだけ……」
私の言葉を聞くと、ハルちゃんは「わかった! 私も行く!」と、自分の荷物をまとめ始めた。
「え、ハルちゃんは部活……」
「いいのいいの! 今日は自主練だけだから! それより雫ちゃんの方が心配だよ!」
結局、ハルちゃんに付き添われる形で、私たちは美術室へと向かった。幸い、今日は菫先輩も他の部員もいなくて、静かだった。私は窓際の椅子に深く腰掛け、目を閉じる。
「無理しないでね。私、ここにいるから」
隣に座ったハルちゃんが、優しい声で言う。その声が、ささくれた神経にじんわりと染みた。
しばらく目を閉じていると、少しだけ頭痛が和らいできた気がした。薄目を開けて窓の外を見る。いつもなら活気のある港町の景色も、やはり今日はどこか色褪せて、活気がないように見える。この異変は、一体何が原因なんだろう。ニャンゴロ先生の言っていた「潮が満ちる夜」と、何か関係があるのだろうか……。考えれば考えるほど、不安が募る。
「……私に、何かできることないかな?」
隣で、ハルちゃんが真剣な顔で私を見ていた。
「雫ちゃんが辛いの、見てるだけなんて嫌だよ」
その言葉が、なんだかとても嬉しくて、でも同時に自分の不甲斐なさが情けなくて、涙が出そうになった。
「私の力じゃ……原因を探るくらいしか、できないかもしれない。でも、今はそれも……うまくできなくて……」
弱音が、思わず口をついて出た。こんな力、なければ良かったのかもしれない。そう思った瞬間。
そっと、私の冷たい手を、温かいものが包み込んだ。ハルちゃんの手だった。
「大丈夫だよ」
力強い、でも優しい声。
「一人で抱え込まないで。私がそばにいるから。雫ちゃんが辛い時は、私が支える。だから、無理しないで」
握られた手のひらから伝わる、ハルちゃんの温もりと、真っ直ぐな想い。それが、冷え切っていた私の心に、じんわりと広がっていく。不安が消えたわけじゃない。でも、一人じゃない。そう思えただけで、強張っていた心が少しだけ、解けていく気がした。
「……ありがとう、ハルちゃん」
俯いたまま、かろうじてそれだけ言うのが精一杯だった。
しばらく美術室で休み、少しだけ体調が回復した私たちは、一緒に帰り道を歩いていた。街を覆う重たい空気は、まだ晴れていない。けれど、隣を歩くハルちゃんの存在が、私の不安を確かに和らげてくれていた。
「本当に、ありがとうね。付き合わせちゃって」
「どーいたしまして! 友達が困ってる時はお互い様でしょ!」
そう言ってニカッと笑うハルちゃんの笑顔が、いつもより少しだけ、頼もしく見えた。
この異変が、これからどうなっていくのか、まだ分からない。私の力が、この先どうなるのかも。本格的な「何か」が始まろうとしている、そんな予感だけが、胸の中に渦巻いていた。
それでも、今はただ、隣にある温かい手の存在を、強く感じていた。
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