第三話『港町の噂とふてぶてしい先生』
ここ数日、放課後に美術室の扉が勢いよく開く音は、私にとっての帰宅合図になりつつあった。今日も今日とて、「雫ちゃーん! 終わったよー!」という元気すぎる声と共に現れたハルちゃんに半ば引きずられるようにして、私たちは昇降口へと向かう。すっかり、一緒に帰るのが当たり前になってしまっている。まずい傾向だとは思うけれど、彼女の太陽みたいな引力に逆らうのは、物理法則に逆らうくらい難しい気がしてきた。
「ねーねー、雫ちゃん、聞いた? 最近、港の方で変な噂が立ってるんだって!」
靴を履き替えながら、ハルちゃんが声を潜めて言った。潜めているつもりでも、声量が普通の人より大きいのはご愛敬だ。
「変な噂?」
「そう! なんか、誰もいないはずの空き家から物音がするとか、夜中に誰も乗ってないブランコが揺れてるとか……あと、倉庫街のあたりで、猫の声みたいなのが聞こえることもあるんだって!」
出た。その手の話。私が内心「ああ、またナゴリの仕業か……」とげんなりしているのを知ってか知らずか、ハルちゃんは目をキラキラさせている。
「面白くない? 探偵みたいでさ!」
「……面白くはないと思うけど」
「えー? なんで? ワクワクしない?」
この子は、恐怖という感情が欠落しているのだろうか。それとも、ただの好奇心の塊なのか。私は港へと続く坂道を下りながら、曖昧に笑って誤魔化した。ナゴリが見える私にとって、そういう話は日常茶飯事だ。けれど、最近の噂は少しだけ気にかかっていた。いつもより数が多いし、内容も具体的だ。街全体の空気が、少しだけざわついているような気配を感じる。
「ま、まさかとは思うけど……ゆ、幽霊とかじゃないよね……?」
さっきまでとは打って変わって、ハルちゃんが少しだけ不安そうな顔で私の袖を掴んだ。あれ? 意外と怖がり?
「さあ……どうだろうね」
私はわざと、少しだけ意味深に答えてみた。からかうつもりはなかったけれど、彼女の意外な一面が少しだけ面白かったのかもしれない。
「もー! 雫ちゃん、怖がらせないでよ!」
ぷう、と頬を膨らませるハルちゃん。こういうところは、普通の女の子なんだな、と少しだけ安心する。
そんな話をしているうちに、私たちは例の倉庫街の入り口に差しかかっていた。古いレンガ造りの倉庫が立ち並び、潮風が吹き抜ける、少し寂れたエリアだ。夕暮れ時ということもあって、人通りは少ない。壁には蔦が絡まり、窓ガラスが割れたままになっている建物もある。こういう場所は、古い記憶や想いが「ナゴリ」として残りやすい。空気が少しだけ、ひんやりしている気がした。
その時。
「ガタンッ!」
少し離れた倉庫の奥から、何かが倒れるような大きな物音が響いた。
「ひゃっ!」
ハルちゃんが短い悲鳴を上げ、ぎゅっと私の腕にしがみついてきた。意外と力が強い。
「な、何の音……?」
「さあ……」
物音がした方角を睨む。音だけじゃない。何か……ザワザワするような気配を感じる。複数の、落ち着きのないナゴリの気配だ。噂になっていたのは、この辺りのことだろうか。私は、腕にしがみつくハルちゃんの手をそっと外し、気配のする方へ数歩、足を踏み入れた。
「ちょ、雫ちゃん!? 行くの!?」
「……ちょっとだけ。すぐ戻るから」
ハルちゃんの制止を振り切って、薄暗い倉庫と倉庫の間の路地へと進む。湿った空気と、潮の匂い。そして、やはり感じる、ざわざわとしたナゴリの気配。何かが、この辺りで起こっているのかもしれない。
路地の少し開けた場所、積み上げられた古い木箱の上に、一匹の猫が座っているのが見えた。いや、猫じゃない。その体は夕暮れの光の中で僅かに透けていて、輪郭がぼんやりと揺らいでいる。見るからにふてぶてしい顔つきをした、大きなトラ猫。その周りには、古い港町の記憶のような、くすんだセピア色のモヤ(ナゴリ)がまとわりついている。間違いなく、この辺りのナゴリたちの「主」のような存在だ。
猫(?)はじっと私を見つめていた。そして、次の瞬間、私の頭の中に直接、声が響いてきた。それは、低くて、少し嗄れた、どうしようもなく尊大な声だった。
『……チッ、またお前か、小娘。うろちょろしおって』
「……あなたが、この辺りのナゴリの主?」
私は声には出さず、心の中で問いかけた。テレパシーのようなものなのか、このナゴリとは意識で会話ができるらしい。
『ふん。主、などというガラではないわ。我輩はニャンゴロ。しがない隠居猫よ』
隠居猫がこんなところにいるだろうか。というか、喋り方が偉そうだ。
「最近、この辺りで変なことが起こってるって噂、知ってる? あなたの仕業じゃないの?」 『くだらん噂に耳を貸すな。我輩は昼寝が忙しい。……だが』
ニャンゴロと名乗るナゴリ猫は、面倒くさそうに尻尾を振った。
『この街も、近頃ちと騒がしいからな……。余計なものに首を突っ込むでないぞ、小娘。気をつけろ』
意味深な言葉。やはり、何か起こっているのか。私がさらに何かを尋ねようと、ニャンゴロ先生(もう先生と呼ぶことにした)に真剣な顔で向き合った、その時だった。
「雫ちゃーん! 大丈夫ーっ!?」
心配そうなハルちゃんの声が、路地の入り口から響いた。見ると、彼女が恐る恐るこちらを覗き込んでいる。そして、私と、私の目の前にいる(彼女には普通の猫にしか見えないであろう)ニャンゴロ先生を交互に見て、目を丸くした。
次の瞬間、ハルちゃんの顔が、ぱあっと輝いた。
「し、雫ちゃん……もしかして……」 ごくり、と唾を飲む音が聞こえる。
「猫と、お話しできるの!?」
キラキラした瞳で、ものすごい期待感を込めて、彼女は叫んだ。 ……勘違いされている。それも、とんでもなくポジティブな方向に。
違う、そうじゃない。このふてぶてしいのはナゴリで、別に動物と会話できるメルヘンな能力じゃないんだ。そう説明すべきなのだろうけれど、ハルちゃんのあまりにも嬉しそうな顔を見ていると、なんだか訂正する気力が削がれていく。
私は、反論する代わりに、ただただ額に手を当てて、深くため息をつくことしかできなかった。 私の秘密は、どうやら妙な方向に誤解されたまま、新しい段階に進んでしまいそうだ。
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