青の果てへ
焼け焦げた街の残骸の中、僕は立ち尽くしていた。
かつての喧騒は、今や静寂に塗りつぶされている。
ふと見上げると、空は驚くほど青かった。
雲ひとつなく、澄み渡っている。
この世界の絶望を嘲笑うかのように。
美しく——そして、無慈悲なほどに。
だが、この空の下に広がる地上は、かつての世界とはまるで違っていた。
道は割れ、ビルは崩れ落ち、焦げた鉄筋と砕けたコンクリートが無造作に転がっている。草も木も枯れ果て、乾いた風が砂埃を巻き上げていく。
そんな世界の中で、僕はひとり、歩いていた。
こんな空を見るのも、今日が最後かもしれない。
何の根拠もないが、ふとそう思った。
戦争が終わった後、世界は瓦礫と灰にまみれた。
核か、生物兵器か、あるいは両方か――もはや確かめる意味すらない。
燃え尽きた都市、崩れ落ちた家々。
生き残った者たちは、過去を振り返らなくなった。
そうしなければ、生きていけなかった。
昨日まで隣にいた人間が、次の瞬間にはいなくなる。そんなことが何度も続いた。
食料は底をつき、水を求めて彷徨う者たちは、互いを奪い合うようになった。
どこかに、生き残った誰かがいるかもしれない。
それが、知っている誰かかどうかは分からない。
それでも——
「約束があるから。」
誰に言うでもなく、風に預けるように呟いた。
そして、僕はまた足を踏み出した。
どこへ向かうのかも分からず、それでも足を前に出す。
前に青空を見たのは、いつだっただろう。
記憶をたどろうとするが、思い出すたびに胸の奥に鈍い痛みが広がる。
あの時はまだ、彼女がいた。親友と呼べる人間も、生きていた。
笑い合って、冗談を言い合い、未来のことを話していた。
「いつか海を見に行こう」
「この戦争が終わったら、一緒に暮らそう」
「きっと、普通の生活が戻ってくるよ」
そんな言葉を、何度交わしただろう。
だが、その約束はすべて果たされることはなかった。
戦争さえなければ——。
この青空の下で、今も変わらず、普通の暮らしを続けていただろう。
——なんで、こんなことになったのだろう。
問いかけても、答えは出ない。
過去を悔やんだところで、失ったものは戻らない。
名前を呼んでも、もう誰も振り向いてはくれない。
ただ、生きるために歩くしかなかった。
青空は、僕たちを見下ろすように広がっていた。
この世界にいるのは、僕ひとりだけのように思えた。
◇◇◇
砂混じりの風が吹き抜ける。
頬を切るような鋭い風に、思わず顔をしかめた。
乾いた喉がひりつくように痛む。
熱された空気が肌を刺す。
唾を飲み込もうとするが、もはや唾液すら出てこない。
胃の奥から、鈍い痛みがこみ上げる。
今日も、何も食べていない。
この数日、まともな食事にはありつけていない。
拾った干からびたパンの欠片を最後に口にしたのは、二日前だっただろうか。
どこを歩いても、荒れ果てた土地ばかりで、食べられるものなど見つからない。
水も尽きかけていた。
こんな状態で、あとどれくらい歩けるのか。
足が重くなり、視界の端がぼやける。
このまま倒れてしまえば、もう二度と目を覚まさないかもしれない。
だが、それが特別怖いとは思わなかった。
戦争が終わっても、生き残った人間には何も残らなかった。
死んだ者の方が、むしろ楽だったのではないかとすら思う。
だが、それでも。
それでも、足を止めることはできなかった。
歩かなければならない。
生きるために。
その時だった。
風のざわめきの中、微かな足音。
ふと、視線の端に、何かが動いた気がした。
誰かがこちらを窺っているような気配。
気のせいか――そう思いかけたとき、背後から小さな声がした。
「……お兄さん」
小さな声が、風に溶けた。
一瞬、幻聴かと思った。
「これ……食べる?」
すぐそばで、確かに聞こえた。
疲れた頭が、それを理解するのに少し時間がかかった。
ゆっくりと顔を上げる。
目の前に、小さな手が差し出されていた。
その手のひらには、干し肉のようなものがのっている。
振り向くと、そこには一人の少年が立っていた。
まだ十歳にも満たないだろう。
やせ細った体に、ぼろぼろの服。
服の端は裂け、泥や砂にまみれている。
それでも、彼の瞳は不思議なほどに輝いていた。
この世界がまだ終わっていないかのように。
「……なんで?」
思わず声が漏れた。
少年は、首をかしげる。
「だって、お兄さん、お腹……すいてるよね?」
何の迷いもなく、自然にそう言った。
この世界で、人は奪い合うことはあっても、与え合うことはほとんどない。
なのに、この子は迷いもなく、自分の食べ物を差し出してくる。
僕は、一瞬迷った。
何か裏があるのではないかと、疑うべきなのかもしれない。
しかし、そんなことを考える余裕もなかった。
ゆっくりと手を伸ばし、少年の手から干し肉を受け取る。
驚くほど小さな手だった。
「……ありがとう」
言葉が喉の奥で詰まりながらも、なんとかそう呟いた。
少年は、にっこりと笑った。
その笑顔を見た瞬間、僕は何かを思い出しそうになった。
でも、それが何だったのかは、思い出せなかった。
戦争が始まってから、誰かに食べ物をもらったのは初めてだった。
◇◇◇
干し肉をゆっくりと噛みしめながら、僕は少年をじっと見た。
どこから来たのか、なぜこんな場所でひとりでいるのか、気にならないわけではなかった。
だが、それを聞いたところで、答えが出るわけでもない。
それでも、無言で食べ続けるのが妙に気まずく感じられて、僕は何気なく口を開いた。
「どこに行くんだ?」
少年は、少し考えるように視線を彷徨わせたあと、あっさりと答えた。
「どこでも」
どこでも——。
その言葉は、妙に心に引っかかった。
普通なら、行き先があるはずだった。
帰るべき家があるか、誰か待っている人がいるか、あるいは目的地があるはずだった。
彼にはそれがなかった。
「家は?」
僕の問いに、少年は少しだけ視線を落とし、それから顔を上げて答えた。
「ないよ。でも、どこかにあるかもしれないって、お母さんが言ってた」
その言葉が、胸に重くのしかかった。
家が「ない」とはどういう意味なのか。
住んでいた場所を失ったのか、あるいは……。
「お母さんは?」
聞くべきではなかったかもしれない。
けれど、どうしても確かめたかった。
少年は、一瞬だけ口を開きかけたが、何も言わずに閉じた。
小さな指が服の裾をぎゅっと握りしめる。
そして、かすれた声で、短く答えた。
「……いなくなった」
それ以上、何も言わなかった。
「いなくなった」
この世界でその言葉が何を意味するのかは、説明されなくても分かる。
僕も、何度もその言葉を心の中で繰り返してきた。
だからこそ、それにどう返せばいいのか、分からなかった。
慰めの言葉を口にする気にはなれなかった。
少年がどれだけのものを失ってきたのか、それを軽々しく「大丈夫だ」と言うことなどできなかった。
僕はただ、黙って少年の頭を軽く撫でた。
少年は何も言わず、じっと立っていた。
「……そっか」
それだけしか、言えなかった。
言葉にできない沈黙が、僕たちの間に流れた。
けれど、その沈黙が、何かを否定するものではないような気がした。
しばらくして、少年は小さく息をついた。
そして、再び歩き出した。
どこへ向かうとも知らずに。
僕は、その背中を見つめていた。
このまま、何も言わずに別れるべきなのかもしれない。
気づけば僕の足もまた、少年のあとを追っていた。
◇◇◇
二人で並んで歩いた。
どこまでも続く荒野の中、僕たちの影だけが細長く伸びていた。
風は止み、あたりは静まり返っている。
足元の砂利がわずかに音を立てるほか、世界には何の音もなかった。
——ここにはもう誰も生きていないかのように。
歩き続けるうちに、次第に景色が変わってきた。
地平線の先に、崩れかけた建物がいくつも見えてくる。
骨組みだけを残して焼け落ちたビル。
壁が崩れ、瓦礫と化した家々。
かつてここには、確かに人々の暮らしがあったはずだった。
だが今、その名残は瓦礫の山と灰になり、静かに朽ちていくだけだった。
「ここ、お母さんといた場所だから」
少年が足を止め、指をさした。
視線の先には、半壊したビルがそびえ立っていた。
壁の一部は黒く焦げ、窓はすべて砕け落ちている。
鉄骨がむき出しになり、建物全体が崩れ落ちそうなほど歪んでいた。
かつては、ここで人々が暮らしていたのだろう。
だが今は、静まり返った廃墟に過ぎなかった。
「大丈夫か?」
気づけば、僕はそう尋ねていた。
少年の表情は変わらない。
だが、その小さな手がわずかに震えていることに気づいた。
「……うん」
少年はそう呟くと、ゆっくりと足を踏み出した。
躊躇うように、一歩ずつ。
僕も、そのあとに続いた。
◇◇◇
建物の中は、時間が止まったかのように静まり返っていた。
壁にはひびが入り、崩れた天井の隙間からは細い光が差し込んでいる。
かつては、ここに人が住んでいたのだろう。
今は、誰の気配もない。
割れたガラス片が床に散らばり、踏むたびにかすかな音を立てる。
焦げた木材の匂いが、まだわずかに残っていた。
少年は、じっと前を見つめながら歩いていた。
慎重に、迷うことなく奥へと進んでいく。
彼にとって、ここは「知っている場所」なのだろう。
「メダルがあるかもしれないんだ」
少年がぽつりと呟いた。
「メダル?」
僕は彼の言葉の意味を理解できず、思わず聞き返した。
少年は立ち止まり、足元の瓦礫をそっと掻き分けながら答える。
「お母さんが大事にしてたもの。見つけたら、持っていくんだ」
その声は淡々としていた。
けれど、その指先はわずかに震えていた。
それは彼にとって、かけがえのないものなのだろう。
母親が大切にしていたもの。
それを探すことで、彼は母親とのつながりを感じているのかもしれない。
「どんなメダルなんだ?」
「小さくて、丸くて……お母さんがいつもポケットに入れてたんだ。『これがあれば、大丈夫』って言ってた」
「大丈夫?」
少年は一瞬だけ僕の方を見た。
そして、小さくうなずいた。
「うん。お守りみたいなものなんだと思う」
僕は何も言わず、彼の隣にしゃがみこんだ。
瓦礫を手でどけながら、一緒に探し始める。
壊れた家具、ひび割れた食器、破れた布切れ——。
かつてここで生きていた人々の痕跡が、静かに埋もれていた。
少年は、ひとつひとつを確認するように手に取り、そしてまたそっと置いた。
記憶のかけらを拾い集めるように。
僕たちは、無言で探し続けた。
この場所に、彼の母親が確かにいた証を見つけるために。
◇◇◇
「……?」
瓦礫の間を掘り起こしていた少年の手が止まった。
僕も、思わず動きを止める。
耳を澄ませた。
静寂に包まれた廃墟の中——
かすかな音がした。
カン……
かすれるような金属音。
風が吹き抜けたせいかもしれない。
だが、それにしては妙に明確な音だった。
ただの崩れかけた建物なら、こんな規則的な音はしないはず。
僕は瞬時に体を動かした。
少年を背後へかばうようにして立ち上がる。
音のする方へ目を向けた。
瓦礫の影。
暗闇の奥で、何かが動いた気がした。
「誰かいるのか?」
低く問いかける。
返事はない。
しかし、気配は確かにあった。
ただの風ではない。
誰かが、そこにいる。
「お兄さん……」
少年の小さな手が、僕の服の袖をぎゅっと握った。
かすかな震えを感じる。
そのまま、少年がつぶやいた。
「……お母さん?」
震える声。
僕は息をのんだ。
音の主が、ゆっくりと姿を現した。
——瓦礫の影から、一人の女性が現れた。
痩せこけ、ぼろぼろの服をまとった女性。
髪は乱れ、頬はこけ、傷だらけの体。
だが、その目だけはまだ、生きていた。
少年の息が止まる。
目を大きく見開き、ただ、そこに立ち尽くしていた。
時間が、止まったように感じた。
静寂の中、僕たちは、その女性をじっと見つめていた。
何かを確かめるように、震えるまなざしで——。
「お母さん……?」
少年が、かすれた声でつぶやいた。
自分の目の前の光景が本物なのか確かめるように。
その一言が空気を震わせた。
女性は、ゆっくりと少年へ視線を移した。
その表情は、驚きと戸惑い、そして込み上げる何かで揺れ動いていた。
「……ハル……?」
震えながらも、確かめるような声。
もう一度、今度は少しだけ強く。
「ハル……?」
「お母さん……!?」
少年の声は震えていた。
母親もまた、震える指を伸ばし、掴むように手を伸ばす。
その瞬間——
少年の小さな体が弾かれたように駆け出した。
まるで、一度止まっていた時間が再び動き出したかのように。
「お母さん!!」
迷いもなく、ためらいもなく。
その小さな体が、一目散に女性の元へと飛び込んでいった。
彼女もまた、弱々しくも腕を広げる。
そして——
強く、強く抱きしめた。
もう二度と離さないと言うように。
「お母さん、お母さん……っ!」
少年の声が、震えていた。
涙が、止めどなく頬を伝っていた。
彼女の体もまた、小さく震えていた。
掠れた喉から、か細い声が漏れる。
「……生きてたんだね……」
彼女の声は、震えていた。
そして、もう一度——
「生きてたんだね……」
震える指が、少年の頬に触れた。
これが現実であることを確かめるように。
誰もが失い続けたこの世界で、やっと取り戻せたものがあった。
少年は、母親の腕の中でしゃくりあげながら泣き続けた。
彼女もまた、少年の髪を撫でながら、涙を落とし続けた。
僕は、その光景をただ静かに見守っていた。
この瞬間に言葉は必要なかった。
ただ、瓦礫の影で、ふたりの再会を見届けることしかできなかった。
失われたものが多すぎる世界で、今、ひとつの絆が戻ってきた。
◇◇◇
僕はふと、空を見上げた。
広がる青空は、何も変わっていなかった。
雲ひとつない、澄み渡る青。
どこまでも果てしなく続いている。
それは、あの戦争が始まる前と同じだった。
変わってしまったのは、僕たちの方だった。
かつて、この空は僕にとって「過去の象徴」だった。
彼女と笑い合った日々、親友と語り合った時間。
すべては遠い記憶の中で凍りつき、もう二度と戻ることはないと思っていた。
青空を見るたびに、過去に囚われた自分を思い知るだけだった。
だが——
今、僕はこの青空を、違う目で見ている気がした。
それは、過去の象徴ではなく、未来へ続く道のように思えた。
少年が母親と再会し、彼の旅は終わった。
この世界で失われ続けていたものの中で、ひとつだけ取り戻せたものがあった。
それは——
温もりと、つながり。
この世界がまだ完全に壊れていないことを証明するものだった。
では、僕の旅は——?
このまま、一人で歩き続けるのだろうか?
足を止めることなく、生きる意味も目的も見つからぬまま、ただ前へ進み続けるのだろうか?
ふと、少年が僕を見上げた。
「お兄さんは……一人で行くの?」
彼の手は、しっかりと母親の手を握っていた。
だが、もう片方の手は空いていた。
それは、僕が掴むためのものだったのだろうか。
しばらく迷って、僕は答えた。
「……行こうか。」
少年は、にっこりと笑った。
僕は、再び青空を見上げた。
相変わらず、それはどこまでも広がっていた。
いつまでも続くように。
過去ではなく、未来へと。
僕は、少年の手を取った。
「行こうか」
少年は笑った。
彼の母親も、静かに微笑んでいた。
僕たちは、歩き始めた。
どこまでも続く、青い空の下を。
◇◇◇
風が、穏やかに吹いていた。
砂埃を巻き上げながら、ゆるやかに世界を撫でていく。
瓦礫の街は、相変わらず静寂に包まれていた。
ここで起きたことも、ここに生きた人々の声も、この街の崩れた壁の中に埋もれ、誰にも気づかれることはないのだろう。
けれど——
今、この場所に確かに生まれたものがあった。
それは、少年と母親の再会。
失われ続ける世界の中で、唯一、取り戻すことができたもの。
僕たちは、ゆっくりとその場を離れた。
少年は母親の手を握り、時折、嬉しそうに彼女を見上げていた。
彼女もまた、そんな彼を愛おしそうに見つめながら、ぎゅっとその手を握り返していた。
僕は、彼らの少し後ろを歩きながら、その様子を静かに見守っていた。
かつて、僕も誰かと手を繋いで歩いていたことがあった。
もう戻ることのない記憶の中で、あの温もりを何度も思い出した。
——今はもう、それを過去のものとして片付ける気にはなれなかった。
青い空は、今日もどこまでも続いている。
それは、過去の象徴ではなく、未来への道だった。
僕たちは、どこへ行くのか分からなかった。
安全な場所があるのかも知らなかった。
今はそれでいいと思った。
前へ進めば、何かがある。
きっと、まだ何かを見つけられる。
少年が、ふとこちらを振り返った。
「お兄さん、これからどうするの?」
僕は少し考えた。
答えはすぐに出た。
「歩くよ。君たちと一緒に」
少年は、にっこりと笑った。
母親も、小さく微笑む。
そして、僕たちは再び歩き出した。
どこまでも続く青空の下——。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
ふと顔を上げる。
昨日も、今日も、そしてきっと明日も。
この空は変わらず、僕たちを包み込んでいる。
未来へと続く道。
どこへ行くのかは分からない。
それでも、僕たちは歩き続ける。