お気楽王子をただざまぁするだけの日常。
「本当にソレと結婚するつもりですのね。リクハルド……」
アンニーナは警戒している猫のような顔つきでリクハルドに問いかける。その言葉にリクハルドは眉間にしわを寄せて拗ねたような声で返す。
「ソレとはなんだ、ソレとはっ! エルメルに失礼だぞ!」
「そうですわぁ、アンニーナ様、わたくし悲しいっ!」
「ほら、エルメルは君と違って繊細なんだ。体が大きいからって、外見で判断してひどい事を言うなよ!」
リクハルドは、金色に光る美しい瞳をゆがめて怒り、隣にいるエルメルの肩を抱いて大丈夫だぞと笑みを向ける。
そのハンサムな横顔をエルメルは惚れ惚れするとばかりに見入って「リクハルドさまぁ」と語尾にハートのマークがつきそうな声をあげた。
しかし、何もアンニーナだって、ただ浮気相手の体が大きいからと言ってむやみにソレ扱いしているわけではない。
なんせ、ソレはドレスを着ているけれども、ぱつんと胸板が張っている。
ソレの口の周りには、今朝剃ったばかりであろう青髭がうっすらと浮かんでいる。
極めつけにはドレスの袖から見えるずっしりとした筋肉が付いている腕、その腕には血管が脈打っていて、ビキィッと主張している。
……リクハルド、それはどこからどう見ても男ですわ……。
「エルメル、ごめんな。アンニーナは誰に対してもこうきついんだ。アンニーナが優しくしている相手なんて、自分で育てている庭園の花ぐらいなんだ。情緒が足りないと思うだろう?」
「ええ、ええっ! それはもうっ、わたくしの方が千倍優しくて美しいのですわよリクハルド王太子殿下ァ!! オーッホッホッホッ!!」
「ああ知ってるぞ! エルメル、お前は人の痛みがわかるいいやつだ。それなのに家族からも冷遇されてエルメルは本当に不憫な奴だ」
「いいんですのッ、わたくしはこんななりだから皆を困惑させてしまってっ!」
「お前は悪くないぞ、エルメルゥ、一緒んなろうな、俺がエルメルを守ってやるッ!」
「リクハルド王子殿下ッ!!」
「ヴッ」
感極まった様子でエルメルがリクハルドを抱きしめる。するとリクハルドはぎゅっと腕を締められて胴回りが半分ほどのサイズになってしまう。
それほど力が強く、リクハルドが言っているような繊細な女性ではない事はたしかなのに彼はにへにへと笑っていて、さらりとした金髪が少し乱れる。
「お、おいおい、エルメル。いくら俺が愛おしいとは言え、絞め殺せばお前は罪に問われる。し、慎重に頼むぞ」
「ハッ、失敬!! ついつい力加減を忘れてしまいましたわっ!!」
「いいんだいいんだ。エルメルはおっちょこちょいだなっ」
「オーッホッホッホッ、それこそ女の愛嬌というものですわァ!!」
「そうそうたまには失敗してなんぼだ……ま、俺の今の婚約者はそんなことも許容してくれないがな」
そう言ってリクハルドはこちらをちらりと見た。
多少哀れに思っていたアンニーナは、その視線に若干腹が立って、頬を若干引きつらせた。
「あらそう、では婚約破棄をしますのね。リクハルド」
「ああもちろんっ、アンニーナは俺がいなくとも一人で強くやるだろう。俺はこのエルメルを支えて楽しい結婚生活を送るんだぞ!」
自信満々に言うリクハルド、その言葉を聞いてエルメルは彼の見ていないところで目をカッと見開きものすごい視線で彼の事をなめるように見ていた。
それに、アンニーナは少々ぞっとしたが、しばらくして長い長いため息をついた。
それから彼に適当に自分のお気楽さ加減を思い知らせる方法を思いついて、アンニーナはわざとらしく言った。
「わかりましたわ。ではわたくしはこの後、国王陛下に報告に参りますの。それに、この応接室はこれからしばらく使う予定もありませんわ。新しい二人の門出を邪魔しないようにあなたの騎士や、侍女たちもみんな下がるように言いましょう」
「なんだ随分とすんなり引き下がって気の利いたことをしてくれるじゃないか、アンニーナ、俺はうれしいぞ!」
「ええ、ほかでもないあなたの為ですもの。さぁ、皆さん参りましょう。二人で濃厚な時間を楽しんで」
アンニーナはわざわざエルメルに向かってそう口にする。すると彼はごくりと唾液を飲んでべろりと舌なめずりをした。
オカメインコのようにまん丸につけられたチークが上に吊り上がり、彼はにんまりと笑う。
それから騎士たちを連れて、応接室を出た。しかしうんざりした顔で使用人たちと応接室の前で静かに待機する。
しばらくしたのちにどったんばったんと音が響いて、アンニーナはやっぱりそうなるかと思う。
あんまり思い通りになったので内心ちょっとおかしかった。
いつ助けてやろうかと思っていると「あ゛っー!!!」と王太子という高貴な身分の人間があげるべきではない声が部屋の中から響く。
そして応接室の中から、扉を開いてリクハルドが出てくる。
彼は頬に、いくつものキスマークをつけられて、服を脱がされそうになったのかシャツのボタンが飛んだ状態で飛び出てきた。
しかし足首をがしりとつかまれて、びたんと廊下に激突しそのままずるずると応接室の中に引き込まれていく。
「はいっ、皆さん、不敬罪ですわ。ソレをとらえてくださいませ。リクハルドはわたくしの前に、洋服はそのままで構いませんわ」
「了解いたしました!」
騎士たちはすぐに応接室の中に突入していき、これまたどったんばったんの大騒ぎだ。
捕らえられたエルメルが運び出された後、グズッズビッっと鼻をすすって涙を流しているリクハルドが連れてこられる。
彼は廊下に膝をたたんで座り込み、涙をぬぐってアンニーナを見上げた。
「ざまぁみなさい、お気楽王子。あなたという人間は騙されやすくほだされやすすぎるのです。少しは周りの人間の面倒を考えなければいけませんわ」
「っ、くすんっ、ゔっ、ひっく」
「子供のように泣くんじゃありませんの! あなた一体いくつですの!?」
「じゅうろく」
「もう大人も同然ですわ。それでわたくしに何か言うことは?」
アンニーナは、視線を鋭くして泣いている彼に対してか問いかける。
すると彼はちらりとアンニーナを見上げて、少し言葉を詰まらせた後、口を開く。
「お、男だったぞっ! アンニーナ! ドレスを着ているのに!!」
「……」
「俺は男も好きになれるのか! でも服を脱がされて怖かったぞ!!」
「……」
「エルメルの事を真に愛しているというのに!!」
アンニーナは彼に謝罪をしてもらうつもりでそう聞いた。しかし彼の言葉はやっぱり的外れで、やはりその思考は理解できない。
……お馬鹿ですわ! 本当にどうしようもない。
またふかくため息をつきそうになったけれどももう呆れて、アンニーナは「そんなことは聞いていません」と厳しく言った。
「そこでしばらく反省なさい! 分かりましたわね!」
そう言ってリクハルドから視線を逸らす「アンニーナァ……」と情けない声が響いたが気のせいだろう。
まったくどうしようもない人である。それがこのヨミシオン王国の王太子で、アンニーナの婚約者のリクハルドである。
世も平和ではないし、たいして恵まれていない土地であるのに、この国の王太子が彼なのはとても困った事なのだった。
「ハンナマリーは本当に可哀想な生い立ちなんだ、アンニーナ……」
リクハルドは懲りない。
前回あんな目に遭ったというのに三ヶ月経つともうそのことを忘れ去って今度はアンニーナにそんな言葉を言った。
彼女のことはアンニーナも知っている……というか社交界でも話題の令嬢だった。
寝不足なのか酷い隈が目元にあって、色白で血の気がなさそうなのに真っ赤な口紅が異様に目立っている。
彼女は向かい合っているというのにアンニーナの事を一切見ておらずリクハルドをひたすらに見つめて、黒い直毛の髪をぎゅうっと握りしめている。
…………また、とんでもない人を拾って来たわね。
アンニーナは尋常ではない様子のハンナマリーを見て何というべきか考えていた。
「ハンナマリーの生い立ちを聞いて俺はいてもたってもいられなかった! すぐにでもハンナマリーに、自分っていうものがどれだけ尊いか教えてやりたい気持ちになったんだ!」
「……」
「だから婚約を破棄させてくれ! アンニーナは自分でなんでもできるだろ! でもハンナマリーはダメなんだ! な、そうだよな!」
リクハルドがハンナマリーに問いかけると彼女はニタァッと笑って、リクハルドの顔面をガシッとつかんだ。
リクハルドの綺麗な肌に彼女の真っ赤な爪が食い込む。
「リクハルド王太子殿下、リクハルド王太子殿下、そんな女とは話さないでください、私、私あなたしかいないのよ。私、あなた以外は見えないのよ。こんなにこんなに愛しているのに、どうしてあなたはよそ見ばかり、私を愛してくれるって言ったじゃないのぉ……」
「ハンナマリー! 今はアンニーナを説得して俺たち二人の関係を認めてもらわなきゃならないんだぞ! だからアンニーナと話すのは仕方ない!」
「すぐにしまわなきゃ、私のお部屋にしまってその目を隠して誰も瞳に映さないようにしなきゃ、私の事を愛せるように愛のジュースをたっぷり飲ませてあなたをブクブクに醜く太らせるのぉ……」
「ハンナマリー! そんなことをしてはダメだ俺には公務があるし、怠けて太っていては民草に示しがつかないぞ」
「そしたらそしたら私だけの大切な人にできる。私の何から何まで愛してもらわないと気が済まない。あなたのすべてを愛していあげるからその代わりに全部を受け止めて欲しいのぉ……」
ハンナマリーはまったくリクハルドの言葉を聞いていない様子でべらべらとおぞましい事をまくしたてる。
彼女は、今何か理由があって偶然こうなってしまっているというわけではない。
彼女は常にそうなのだ。社交界での話を聞く限り、そのせいで婚約を破棄されて、さらには新しい婚約者も見つからず嫌われている。
彼女を何がそこまで狂わせたのかそれはまったくわからない。しかし、その理由がリクハルドにはない事はたしかなはずだ。
そんな感情をむけられても受け止める義理はないし、リクハルドのせいではない。
それにいくら同情しているからと言っても、話をまったく聞いてないではないか会話もできないくせに何が結婚だ。
これでいいのかとリクハルドに視線を向けると、彼はハンナマリーに顔を掴まれている状態でアンニーナの方へと向いて、それから「な?」と同意を求めていった。
いったい何に対する「な?」という言葉なのかまったくわからなかったがアンニーナは適当に「そうですわね、では一ヶ月後婚約を破棄しましょう」と口にする。
するとぱっと表情を明るくして、リクハルドは「いいのか!?」と返す。
しかしその二人の会話が気にくわなかったのか、ハンナマリーが両手でガシッとリクハルドの顔を掴んで自分の方にグイッと向けさせた。
ごりっと音がした気がする。
「ああ~、リクハルド王太子殿下、どうしてそう私以外の物で喜んで、私以外の物に反応をするの? どうして? どうして? どうして? どうして?」
「く、くびがいだい」
「すぐにすぐに、すぐにしまわなきゃ!」
「ハンナマリー、痛い」
そんなふうに間抜けな会話をしている二人を置いて、アンニーナはさっさと応接室を出た。それから本当に一ヶ月何もせずに期日になったのでリクハルドを訪ねた。
彼は公務だけはきちんと行う、お気楽で能天気でありながら真面目だけが取り柄の男だったのだが、それにも今は出ていないらしい。
それどころか自室のベッドから出てこられなくなったそうだ。
彼の了解もなくアンニーナは部屋へと入る。
するとベッドから顔だけ出したリクハルドがぶるぶると震えてすぐさま言った。
「手紙か!? また手紙を持ってきたのか!? 俺の元にもってこないでくれ、見せないでくれ!! 嫌だぁもう、もうあんな気持ち悪い手紙いやだぁ!!」
「アンニーナですわ。リクハルド」
「アンニーナ!!」
彼は途端にベッドの中から飛び出してきて、笑みを浮かべてしがみついてきた。
「アンニーナ! あの子はまずい、あの子はちょっとおかしいぞ!」
アンニーナのドレスにひしっとしがみついて報告してくる彼に、アンニーナはため息をつく。
「だって俺が離れようとするだけで泣き叫んで発狂するし、仕事をしなければというのに、力ずくで引き留めてくるし!」
必死に訴えかける彼は、なんだかボロボロで、いつものキラキラとした雰囲気がない。
そして不思議と、先日会ったハンナマリーと似たような風貌だ。
……不健康が移ってるみたいですわ。まったく。
「しまいには会えないというとすぐに手紙を送ってくる。最初はたくさんのただの手紙だった……」
「最初は?」
「そう、最初はただの手紙……でも、なんか変だったんだ。変なシミがあって、紙がヨレヨレで……」
「変?」
「そう、でもたくさん細かい文字が書いてあるから返信をするために顔を近づけて読まなきゃならない。だから顔を近づけると変なにおいがした」
「ふん、なるほど」
「それでも俺は頑張って手紙の返信をかいた。何度かやり取りしているうちに手紙に変なプレゼントがついてきて、切った髪とか、爪とか、それをお互いに送りあって気持ちを交換しようというんだ」
「……」
「でも俺は気持ち悪いからそんなの嫌だって言ったんだ。それにそんなものも送らないで欲しいって。でも、彼女はいっぱい送っていっぱい私を見て欲しいって言った。もういやなんだぞ! 俺は手紙が大嫌いだ!」
なんだかホラーのような話にアンニーナは彼を叱りつける前に続きを聞いた。
「それでなんで手紙は変だったんですの?」
「それは……ハンナマリーが手紙に自分をしみこませてたから。でも俺はそうとは知らずにっ……わあああっ!! いやだ! もうハンナマリーの話はしたくない、なんであんな気持ち悪いことするんだ!?」
「……自分を?」
アンニーナはすぐにピンとこなかったが、しばらく考えて髪、爪、と来たら唾液だろうか。つまり手紙をべろべろと舐めまわし乾かした後で送り付けていたと。
それを知らずに読んだリクハルドは最悪の気持ちになったらしい。そうして「別れたい! 別れさせてくれぇ!」と本人に言わなければならない事をアンニーナに言ってくる。
「はぁ、ざまぁみなさい。リクハルド。あなたには見る目がないのよ。お気楽でお馬鹿なんだから」
縋りついてくるリクハルドにアンニーナは仕方のない気持ちで彼に言って、その頬に触れる。
「ごめんなさい、謝るから、謝るしもうしないぞ! しないから別れたい! 助けてくれっアンニーナ!!」
「はいはい、構いませんわ。まったくあなたはいつも、どうしようもないのですから」
謝罪をするリクハルドを引きはがしつつアンニーナはそれから、ハンナマリーの元へと向かって腕のいい医者をつけて、家族と引き離した。
そして適切な治療と普通の生活を送れるように手配してやる。
すると自然と異常な執着はなくなって、リクハルドはまた元気を取り戻した。
彼女の不遇はアンニーナも知るところだったのだ。だからこそ情だけではない対処が必要だった。
そのことを滔々と説いたがリクハルドは話を聞いていなかった。
それからもリクハルドはどうしようもない事をやらかした。
婚約破棄をすると言い出したのは二回だけだったが、魔獣を飼うと言い出したり、どこぞのスパイともわからない怪しい人物を側近にしたり。
そのたびに痛い目を見て、アンニーナはざまぁみなさいと口にする。
しかしリクハルドは奇跡的にというか、アンニーナのおかげというか特にひどい傷を負うことも、性格が改まるわけでもなく成人した。
成人した彼はアンニーナとともに小さな王国がたくさん集まって、今年の帝国への対策を定める会議へと出席した。
国王陛下夫妻からも、アンニーナからも静かにしていろと言われたリクハルドはその通りに言いつけを守っていたが、彼はどこでスイッチが入ったのか、どんと手をついて立ち上がった。
その様子をアンニーナは目を丸くして見上げていた。
彼の金髪は窓の外から差し込んだ日の光でキラキラと輝いていた。
「なぜ、誰も言わない。俺は生まれた時から戦争をしていた記憶があるが一度だって勝利を収めたという話は聞いていない」
周りの王族たちがどよめく、今年の会議の開催国になっている国の王族は鋭くリクハルドを見つめていた。
「帝国の侵略がなんだ。毎年毎年、細々と対策をして何になる。ただ人がグダグダと死んでいくだけだぞ! こんなに多くの国が協力していてやることがこんなにくだらない事だなんて思わなかった!」
素直に、まっすぐにリクハルドは指摘する。
彼の言っていることは事実だ。間違いない。帝国は毎年毎年、この大陸の西側に攻めてきてたくさんの王国を攻め落としている。
だからこそ、これ以上帝国の力を強くしないために結束しているのが、この会議に出席している国々だ。
しかし協力していたとしても、みんな自分の身が惜しい、戦火に身を投じたくない。
だからこそ毎年毎年押し付け合って、最低限の規模で兵士を出し、そんなもので帝国に勝てるはずもないとわかっていても最低限の犠牲で何とかやってきた。
それがどうやら彼には気にくわないらしい。
「撃退できるだけの兵力がこの会議に出ている王国にはあるだろ! 俺でもわかる。なんでそうしない」
アンニーナはリクハルドの手を引いて、今すぐにのしてやろうかと考える。
しかしそれよりも先にしめたとばかりに、議長の席に座っている王族が言った。
「そうはいっても、誰もが己が大切、己の民が大切。外野からそれを言うだけの人間の言葉など耳を貸しませぬぞ。ヨミシオン王国王太子、リクハルド殿」
「それでも誰かが動くべきだ、何年も何年も人を殺し続けるよりもずっといい」
「おや、誰か? はははっ、そうだな誰かが動けばいいみんなそう思っているぞ」
煽るようにいう、議長の目は鋭く打算が含まれている。
しかしそんなやすい挑発に誰も乗るはずがない。
誰もがそう思っているだだろう。しかし、リクハルドはお気楽王子で、お馬鹿で能天気でまるで何も分かっていない。
「じゃあ俺がやる! 俺が先頭に立つから兵を出して一発、帝国に泡を吹かせてやればいい、その方が絶対に民たちも喜ぶだろっ!!」
アンニーナはその言葉を止められなかった。正式な結婚式も上げていない状態ではアンニーナはここでは発言権がない。
ただいるだけで、議題を話し合うようなこともできないし、事前に彼によく言い聞かせることしかできない。
王族たちはわぁと湧いて、そうだやるぞ! と盛り上がる。しかし彼らは薄情だ。
自分の身内や自分が戦わなくてもいい理由が出来て喜んでおだてているに過ぎない。
隣にいる国王陛下は青い顔をしていて、王妃殿下は椅子の上からふらりと倒れて昏倒する。
彼らだってリクハルドを愛している、どうしようもなくて、お気楽で、優しくて仕方のない王子を、多くの人が愛している。
「見ろ、アンニーナ、こんなに喜ばれてる。きっとうまくいくぞ!」
彼は無邪気にそう笑って、出陣が決まったのだった。
彼が国を立つ日、アンニーナは葬式みたいな顔をしていた。
国王陛下や王妃殿下はそれでも愛していた彼を戦地に送り出すことを直前まで拒んでいたが、リクハルドは事の重大性を理解していない。
彼が望めば逃がすことも、匿うこともできたのに、意気揚々と危険に突っ込んでいくのだからどうしようもない。
昔からこうだったのだ、正義に熱く情をうつしやすく王族なんかに向いていない。
分かっていたのに、止められなかったアンニーナはきっと女神さまに罰されるだろう。
そんなふうに思っていた。出発のパレードが開かれて、彼は側近たちとともにこの国から去っていく、重たい鎧を着て笑顔で進み出た。
しかし馬に乗る前に、アンニーナの元によくなついた犬のように戻ってきて、落ち込んだアンニーナをぎゅっと抱き寄せた。
固い鎧の胸部分がアンニーナの頬に当たって冷たい。
「行ってくるぞ! 父上と母上を頼む、アンニーナ!」
いつものように明るい声がして、アンニーナはゆっくりと彼を見上げた。
齢十七歳、本人が言ったからと言って、戦地送りして自らは動かない王族たちがアンニーナは憎い。
「……アンニーナ? どうしたいつもの元気がないぞ?」
アンニーナの異変にここでやっと気が付いたリクハルドはそう聞いてアンニーナを窺うように見た。
彼だって悪い、しかし戦争がなければ彼はただの頭の悪い王子だっただけじゃないか。
そう思って、悔しくてアンニーナは彼の胸板をドンッと拳でたたいた。
リクハルドはびくっとしてそのまま様子を窺った。
どうしていってしまうのか、どうしてわかってくれないのか。
胸が張り裂けそうで、とても彼を許せそうにない。お気楽なことは彼の欠点であっても同時に美徳だとも思っていた。
アンニーナに甘えっきりでアンニーナだったら何をしても良いと思っているところも、アンニーナは好きだった。そう言う駄目な愛情の示し方も愛らしいと思うほど惚れていたのだから仕方がない。
それにアンニーナはこういう性分だ。
だからまったくもって苦しくなかった、仕方ないと思いながら彼に接することに慣れきっていて、日常を穏やかに受け入れていた、それなのに。
ドンッと拳を握って彼の胸元に叩きつける。
また彼はびくっとして、それから騎士がそろそろと声をかけてくる。
「アンニーナ、俺そろそろ行かないと。……だ、大丈夫か?」
「……」
「な、なんか怒ってるのか? 言ってくれないとわからないぞ」
「っ……」
拳を強く握ってその胸元に打ち付ける。
何故、何故だ。
どうしてこんなことになったんだ。
彼が失敗してざまぁみなさいダメだったでしょうと言っている生活。それを送っているだけで良かったのに、彼が失敗して戻ってこなかったら何も言ってやれないじゃないか。
助けてやれないじゃないか。
国の中の事なら助けてあげられるのに、そうしてこんなに大きな規模で失敗してくれるのだろう。
これじゃあ、助けてあげられない。守ってあげられない。
……わたくしの、リクハルド……。
騎士たちに引き離されて結局何も言えずに、リクハルドは馬に乗って去っていく、彼はアンニーナの手元から離れて、もうきっと戻ってこない。
そう思うと立っているのさえ、難しいのだった。
数年後、アンニーナはハンナマリーのようになっていた。
それでも最初の一年ほどは、戦地から送られてくる報告を聞いて彼が生きていることを確認していたのだが、それが長くなればなるほど、いつ”その報告”が届くかと気が気ではなくなった。
生き残れないだろうという気持ちが大半を占めていて、そして死んだという報告はきっといつかやってくる。
来ないでくれと思いながらも報告を待ち続けるのはひどくつらい日々でアンニーナは気がふれたようになって実家に戻されて養生することになった。
幸い、アンニーナの事情を知っている家族も使用人もみんな優しく、暮らしは穏やかだ。
穏やかすぎて、何も日々が進んでいないようだった。
滞りのない毎日が当たり前に過ぎていく。
優しくて、温かな日々、でもお気楽で問題児の王子はもうどこにもいない。
アンニーナはため息をつくことはなくなったし、彼の為にあれこれと手を回してやる必要も、たくさんの情報収集も必要ない。
ただ何もない。そう思いながらただ無為にぼうっとして自分の手平を見ていた。
後ろからさす温かな午後の光に背中が温かくて心地がいい。
手を意味もなく握ったり、開いたりして時間が進んでいることを確認する。
何も起こらない。優しくて過ごしやすくとも、つまらない日々。
カタンッと音がしてゴトッと何かが床に落ちる音がする。何も起こらないと思っていた途端になにかが起きた。
「あっ……」
しかしきっと侍女がコップを落としたとかそういう事だろう。
そう言う話ではないのだけどなと思いながらもアンニーナは視線をあげた。
するとやっぱりティーカップが床に落ちていて、アンニーナに用意してくれた紅茶も半円をかくようにこぼれている。
紅茶を淹れることなど慣れているはずの侍女がどうして紅茶の入ったティーカップなど落としたのか、それが腑に落ちずに彼女を見る。
すると、彼女はアンニーナの方を見ていてすぐに身を翻して、ぱたぱたとかけて部屋から出ていく。
アンニーナが何かしたのか……そう言うわけではない。
アンニーナの後ろ、その窓の外を見たのではないかそう考えて、よく考えずにアンニーナは振り返った。
するとそこにはガラスにこれでもかと顔をくっつけてこちらを覗き込んでいるリクハルドの姿があった。
と言っても顔をものすごく押し付けているので知っている彼よりも不細工になってしまっているのだが、それを見てアンニーナは惚けてしまった。
しかし、幻覚かもしれないと思って窓の鍵を開けてみる。
外から新鮮な風が入り込んで、リクハルドは窓から離れてぱっと笑った。
「アンニーナ! なんでこんなところにいるんだ! アンニーナは辺境に住む趣味なんか無かっただろ?」
……。
変わらない彼の口調、しかし以前の通りではない。声は少し低くなっていて、顔には大きな切り傷の跡が残っている。なんだか歴戦の猛者のような顔だ。
けれどもサラサラの金髪も、ハンサムな顔もそのまま、声は少し低くなっていて子供らしさがない。
「驚いたぞ! 報告書の返事は母上からの物になるし、出てくるときのアンニーナはおかしかったし! 俺がどれだけ心配したと思ってるんだぞ!」
思わず窓辺に手を付いて、アンニーナは窓辺から飛び出してとびかかるように彼に向かった。
「ぉわ! な、何だ!?」
「っ……っ、あ、はっ」
「アンニーナ? なんだかお前、小さくなったな!」
するとぎゅっと抱きとめられて、抱えられる。今までの彼だったらアンニーナを抱えられなかっただろうに軽々と抱えて今、アンニーナの手の中にいて、喋っていて動いていて息をしている。
それがどれほど素晴らしい事か。
……いる、生きてる……!
とにかくそう思ってリクハルドの体温を感じると、アンニーナは猛烈に何かが襲ってきて今まで一度だって流れなかった涙が、堰を切ったようにあふれる。
苦しくなってうまく呼吸ができない。
「ああっ、は、ああっ、はっ、う」
「え? えっ、は? え、な、泣いてる!?」
「っ、っ~、っは、く、あぁ、この、おきらく、ものっ、この、っ、馬鹿っ」
あふれた涙は頬を伝って、彼の服に落ちていく、数年間止まっていた時は再び動き出し、鮮明に世界が輝いて見える。
「な、せっかく帰ってきたのに、第一声がそれって酷いぞ!」
「ひ、どいのは、どっちよっ、このっ、っ、っ~、リクハルドッ」
アンニーナの言葉にそんなふうに反応する彼に、アンニーナはどんなにひどい言葉を言ってやろうかと考える。
戻ってきたら言ってやろうと数年前に考えていた説教があったのだ。
たくさん怒ってしかって、せめてやらかすのならこの国の事だけにしてもらえるようにもっと怒ろうと思っていた。
それを言うはずだったのに、それよりももっとダイレクトな気持ちが先走って貶してからすぐにアンニーナは言った。
「わたくしの守れないっ、ところにもう、行かないでくださいませっ、もう勝手に一人で、行かないでくださいな、あなたがいないと苦しいんですの、何も得られないんですの」
「……」
「あなたがわたくしのすべてですのよ。わたくしは、あなたをどうしようもないほど、ダメになるぐらい愛してますの、だからっ、だからぁ」
「…………心配、かけたか?」
「っ、山ほど。心が折れてしまうほどっ、リクハルド、そばにいてくださいませっ、リクハルドッ、愛してますの」
「……うん。……これからはそうするぞ」
アンニーナの鬼気迫る表情でアンニーナの状態を正しく理解したリクハルドは、やっとアンニーナはなんでもできてなんでも知ってる完璧超人ではないと気が付いた。
その言葉に嬉しくなって、さらにアンニーナは数年分のとめどない涙を流し続けてリクハルドにしがみついた。
あんなに気取っていて、彼を仕方なく面倒を見てやっている体を取っていたというのに、こんなことになって、自分自身にざまぁないなとアンニーナは自嘲したのだった。
リクハルドは逞しくなって以前よりも、簡単に折れなくなった。
その背景には、彼が戦地で剣士たちから必要以上の剣術を学び、その技術と戦闘経験を持っているからという側面があるだろうと思う。
しかし相変わらず人に情をうつしがちで、誰でも助けようとする。
失敗する確率も減って、お気楽で能天気から、少しお気楽なぐらいになったような気がする。
それに国民や他の王国からもリクハルドは英雄扱いだ。
実際に帝国との戦争を終わらせたいと思っていた人間は、西側の大陸中にたくさんいて、ついに一人の勇気ある王族が名乗りを上げたという事で各国の騎士たちは想像以上の軍勢になり、帝国の攻撃の要所をつぶしていった。
誰も彼も自分の可愛さに、他人の事を考えることができていなかった。それにアンニーナも自分の周りだけが助かればいいと思っていた。
それは多くの場合正しい事とされることが多い。
しかし時にはリクハルドのような問題を何も考えずに指摘するような、打算のない人間が必要なのかもしれない。
アンニーナは最近そう思う。
それに結婚してしまってからは会議での発言権もある。彼を一人で危険な場所に行かせるようなことはもう二度としないと心に誓っていた。
そしてバリバリ働いていた。
惚けていた数年があるので以前以上にバリバリと。
しかし、それを退屈そうにリクハルドが見つめている。
彼はアンニーナの机の前に膝をついて、机の腕で腕を組んでそれを枕にして頭にのせてアンニーナの書く文字を追っている。
その品格のかけらもないような体勢を叱りたいような気持になるが、アンニーナ以外は見ていないのだからいいだろう。
「アンニーナ、もう随分と夜も更けたぞ」
しかし見ているだけでは暇だったのかリクハルドはそう告げる。
それにアンニーナはだから何だと思ったが、一応答える。
「そうですわね」
「俺、そろそろ眠いんだ」
「なら先にベッドに入っていてくださいませ。わたくしはこれを済ませたら眠りますわ」
「…………仕事ばっかりしていると父上のようにはげるんだぞ」
ジトッとした子供っぽい声で言われて、アンニーナはなんてことを言うんだと思う。
それに一人で眠れない子供というわけでもあるまいし、アンニーナの事は放っておいて欲しい。
しかし、彼の顔を見て、その甘えたような瞳にアンニーナはどうしても弱い。
「そう言うことは言ってはいけませんわ」
「アンニーナにだけだ」
「わたくしだけと言われても嬉しくないことですわね……まぁ、これは明日でも出来ますし、ベッドに入りましょうか」
「おう! 一緒に寝よう!」
ペンを置いて、アンニーナは机の上の明かりを消す。
一緒に寝るのは別に構わないのだが、それにしてもなぜこんなに一緒に寝たがるのかというのは疑問だった。
「そういえば戻ってきてからでしたね。あなたが子供のように同じベッドで寝たいと言い始めたのは」
そう言いながらベッドに入る。
すでに睡眠用の服に着替えているので横になるだけでリラックスできる。
しかしリクハルドは隣に来ることはなくベッドのそばで、少ししてから、暗い中でアンニーナに言った。
「だってあんなに、泣きながらどこにも行くなって言われたら……一時でも離れるのがつらいだろうと思って、あの時のアンニーナ……泣きすぎて、枯れるかと思うぐらいだったし」
そう返しながらリクハルドは掛け布団の間に体を滑り込ませてアンニーナを抱きしめる。
それから「だからずっと一緒にいるだけだ」と眠たそうな声で言われて、アンニーナはしばらく硬直してから、自らの痴態と言葉をきちんと彼が覚えていることを知って顔を真っ赤にさせた。
しかし暗闇の中で彼から見えていないであろうことだけが唯一の救いなのであった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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