指探し_01
常石匡佑は探偵事務所の一角で洗濯物に埋もれていた。
【アイ探偵事務所】白い飾り文字で書かれた茶色のガラスのドアからは、午後の日差しが差し込んで、光の中を埃が舞っている。匡佑は探偵助手としてここで住み込みで働いている。助手とは雖も探偵らしいことはここ最近何ひとつしていない。それは匡佑がいつでもボーっとしている人間なので仕事を任されないというのもあるのだが、前提として依頼人が来ない。依頼人が来ないということは平和で結構なのだが、事務所としては仕事がないのは困る。こうして、日がな一日洗濯物を畳むなどして過ごしている。
当の探偵はというと――
「先生、ご遺体の面布みたいで縁起が悪いので白い布はやめてくださいよ」
白い布を顔にかけ、デスクに脚を組んで載せて椅子にもたれかかって寝ている。茂住透悟、それが彼の名である。歳は三十代くらい、長身痩躯、顔立ちがはっきりしており、それでいて目の色が薄いので、混血児のように見えるが、純日本人である。
「常石くん、飴チョコが切れた」
「噓でしょう? 今日で三箱食べちゃったんですか?」
「食べた」
透悟は甘いものに目がなく、飴チョコを常備している。透悟曰く、これがないと頭が回らない、そうである。
「僕も暇じゃないんですよぅ。蓉子ちゃん来ないかな⋯⋯」
匡佑も暇ではないと言いつつも、さっきから洗濯物を畳む手が止まっている。実際ここにいる二人は暇人なのであるが、十月の外は肌寒い。飴チョコを買いに行くのが面倒なのである。
「久埜くんはまた霧真に捕まっているんじゃないか? 常石くん行ってきたまえよ」
「たまには先生行って来たらどうです? いい運動になりますよ。先生のご趣味にぴったりな木も見つかるでしょう」
匡佑は透悟のデスクに置いてある、その辺の木の棒に彫刻して作ったなんだかわからない置物の数々を一瞥した。
そのとき、勢いよくドアが開いて、ドアベルが鳴り響いた。
「こんにちは~、ってまた言い合いですか?」
フリルのついた女給服を着た可愛らしい少女が入ってきた。
「蓉子ちゃん、やっと来たね」
「久埜くん、また霧真の着せ替え人形をやっていたのかね」
「まあそんなところです、今度はなんですか?」
彼女は久埜蓉子。この探偵事務所の入っている【若部ビルヂング】の看板娘である。四階建てのこのビルヂングは一階が洋食店、二階が印刷会社、三階がピアノ教室、四階が探偵事務所兼透悟と匡佑の居住スペースとなっている。孤児であった蓉子は大家の若部霧真に拾われた。それからは霧真の趣味の服を着せられて、看板娘をやっている。いつもは一階の洋食店にいるが、探偵たちだけでは生活がやっていかれないので、一階が暇になる昼下がりになると、四階まで上がってくる。
「いや、先生の飴チョコが切れてしまってね」
「なんだそんなこと、匡ちゃん行ってくればよかったじゃない」
匡佑と蓉子はだいたい歳が同じくらい、十代後半である。匡佑も親に捨てられた身の上であり、境遇が近いということで兄妹のように暮らしている。
「僕だって暇じゃない、っていうんだよ常石くんは」
「なによ洗濯物に埋もれて畳の上に座り込んでるだけじゃないの、先生もいい加減動きなさいよ、しょうがない二人ね」
「久埜くん行ってくれるかね?」
「しょうがないですね⋯⋯何箱?」
「十箱」
「なら一円くださいな」
「はいはい」
透悟は蓉子に一円をいそいそと手渡した。晴れて飴チョコ問題は解決した。蓉子が出ていき、階段を降りていくのを見送ると、透悟はまた椅子にもたれかかって脚をデスクに載せた。
「常石くん、新聞」
「はい」
新聞の一面には女学生が作家の浦部征一を想うあまり、征一の同居人を鋏で刺し殺そうとしたというスキャンダラスな事件が載っていた。
「ふん、男色家の作家と女学生の恋か⋯⋯」
「おや、仕事の予感ですか?」
「いや、こんなのは作家が自分で洗いざらい書くさ。哀れなのはこの女学生のエスの相手。⋯⋯まあ俺には関係のない話だがね」
エスのことなど新聞にはひとことも書いていないが、この探偵にはわかるのだ。
「あ、客人が来るぞ。常石くん洗濯物を片づけたまえ」
透悟はデスクからひらりと脚を下ろし立ち上がった。
「え! いまですか?」
匡佑の素っ頓狂な声と同時にドアベルが鳴った。
「あの、探し物専門の探偵さんって、ここですか?」
入ってきたのは十歳になるかならないかくらいの少女であった。青いワンピースを着て、いいとこのお嬢さんといった雰囲気を醸し出している。
「いかにも。まあ、こちらに座りたまえ。常石くん、お茶を」
「はい」
匡佑はバタバタと居住スペースの前に衝立を立て、洗濯物を隠し、少女にぬるいお茶を出した。
少女は促されるままソファに座ると、長身の探偵が長い脚を折り曲げて向かいのソファに座るのを、息を詰めて見つめていた。
「うちは探し物専門の探偵だ。失せもの、人探し、⋯⋯真犯人の追及。何でもやるが、必ず結果を出す。その代わりお代は相場より高いがね。さて、決心がついたら話してくれたまえ。なにをお探しかね?」
少女は探偵の両の瞳が灰色であることに気づいて息を呑んだ。
「ああ、これかね。十代のころに高熱を出してね。それ以来目が良くなった。いまでは“なんでも見える”」
「そうなの⋯⋯、お母さんと一緒だから、見えないのかと思った」
「お母さんは目が見えないのかね」
「はい、目が真っ白でした。もう死んでしまったけど⋯⋯」
少女は俯いた。
「それは悪いことを聞いてしまった。すまない。それで、探し物というのは?」
「お母さん⋯⋯」
「え?」
「お母さんの、形見を探してほしいの」
少女曰く、それは黒瑪瑙の指輪だという。母親が娘時代から肌身離さず着けていたもので、生前の母はお守りと言っていたらしい。亡くなる直前に少女に手渡されたが、葬儀が終わってみると、どこにもない。少女の指にはまだ大きく、ポケットに入れていたのをどこかで落としてしまったのか、家の中は隅々まで探したが、見つからない。半泣きで何度も同じところを探すが、見つかるわけがない。そんなとき探し物専門の探偵の噂を聞き、ここにやってきた次第だという。
「⋯⋯なるほど。特徴は黒瑪瑙か。指輪の写真かなにかがあればよいのだが、あるかね?」
「お母さんの写真なら⋯⋯、これがそうです」
差し出された写真には、耳隠しの髪型の女性が、目を瞑って椅子に座っていた。少女に似た鼻筋の通った高めの鼻と、薄い唇に笑みを湛えているのが印象的であった。重ねて置かれた左手の人差し指には、小さいが確かに指輪が写っている。
「ではこれは預かろう。最後に、依頼人の名前を聞いてもいいかな?」
「天田奈緒子です。書きますか?」
「ではこの紙に頼むよ、住所も」
匡佑が横から調査依頼書を差し出した。奈緒子は万年筆で大きく名前と住所を書いた。
「この程度ならお代は二十円だが⋯⋯お嬢さん、出せるかね?」
「はい、お父様が出してくれます」
しっかりした受け答えができるとはいえ、年端もいかぬ少女に親が二十円も出してくれるかは少し不安ではあるが、一人でここを訪れるほど本気で探しているのだ。無下にはできない。透悟は引き受けることにした。
「お母さんは何で亡くなったのかね」
「わからない⋯⋯突然悪くなって、それで⋯⋯」
奈緒子はしばらく記憶を探るように目線をさまよわせ、俯いたまま口を開いた。
「お医者様は、がんじゃないかって⋯⋯」
「がん⋯⋯そうか」
透悟と匡佑は黙りこくってしまった。がんは大正八年現在、きちんとした治療法が確立されていない。不治の病として人々に恐れられていた。奈緒子にかける言葉が見つからない。事務所の中には重たい空気が流れた。
そのとき、ドアが開いて蓉子が入ってきた。
「ただいま戻りましたー⋯⋯って、あらお客さん?」
「蓉子ちゃん、早かったね」
蓉子は腕に飴チョコの箱が入った紙袋を抱えていた。
「久埜くんありがとう。お釣りは取っておいてくれたまえ。⋯⋯彼女は奈緒子さん。れっきとしたお客様だよ。挨拶したまえ」
「こんにちは、わたしはここの世話係の久埜蓉子です。甘いものはお好き? 飴チョコ食べる? ねえ先生、あげてもいいかしら」
そう言いながら蓉子は既に飴チョコの箱をひとつ手に取って開けていた。奈緒子と透悟の返事も待たずに飴チョコを手渡した。
「⋯⋯ありがとうお姉さん。いただきます」
奈緒子はここで初めて微笑んだ。透悟は『俺の飴チョコ⋯⋯』と思ったが、奈緒子の顔を見ると、文句は言えなかった。先ほどの重たい空気を払拭してくれた蓉子には感謝の気持ちでいっぱいになった。
「おいしいかね? 気に入ったのなら一箱あげようか」
「いいの? ありがとう探偵さん」
飴チョコは一箱十銭。子供のおやつにしては少々割高である。奈緒子の家がどのような家だかは着ているものを見るに中流階級と見えるが、あまり甘いものは与えられていないのか、心底満足そうにみえた。
「⋯⋯それで、見つかった時の連絡だが、ここに書いてある住所にお伺いするのでいいだろうか?」
「はい、それで大丈夫です」
「たぶん三日くらいで見つかるだろう」
透悟は立ち上がって、手を合わせた。
「さて、これで依頼は完了だよ。常石くん、奈緒子さんを家まで送っていきなさい」
「ありがとうございました。よろしくお願いします」
奈緒子は礼儀正しくお辞儀をして立ち上がった。匡佑もそれに続いて立ち上がり、ドアまで奈緒子を誘導した。
「またいつでも来てね」
蓉子は妹でも見るような顔で手を振って見送った。普段年下の女の子に触れ合う機会がないので、相当嬉しいのだろう。
ドアが閉まって、匡佑と奈緒子が行ってしまうと蓉子が口を開いた。
「⋯⋯三日もかからないでしょ? 先生」
「いや、かかるさ。今回のは複雑だ」
透悟は自分のデスクに戻ってまた椅子にもたれかかった。普段の依頼であればその場で場所を言い当てて客を驚かせてしまうのに、今回は複雑だというひとことで終わりにしてしまった。蓉子は訝しんだ。
「ほんとはやる気がないだけなんじゃないの?」
「酷い言い草だな。見えた通りのことを伝えるのが俺の仕事だが、俺が意味がわからないことを伝えるのは嫌なんだよ。そんなことは拝み屋にでもやってもらえばいい」
「意味がわからないわ」
「そうだろうよ。久埜くん、見たこともない西洋の道具を口で説明することができるかね?」
「⋯⋯できないわ、たぶん」
「そういうことさ。たとえば、机の下にあるのが見えたなら、机の下は探したかね? と聞く。しかし死んだはずの女性の指に光っているのが見えたところで、俺の理解の範疇を超えている。そんなことはないはずなのだから、これでは客に伝えられない。まあ、いつもやっていることのほうが占い師じみているんだ。少しは探偵らしいことができる」
たしかに、透悟のいつもの仕事は話を聞きながら、どこそこにある。と見えた通りに伝えるだけなので、実際に透悟が“よく見える”人なのだと知らない客は、訝しんで帰っていく。本当にそこにあることを確認して驚いた客が金を払いに戻ってくるのを蓉子はこれまで何度も見てきた。蓉子自身も、まるで霊能者のようだわ⋯⋯と思っている。はじめの頃はもったいぶって、自分の脚で探しに行こうとしていたらしいのだが、最近は面倒になって、事務所から一歩も出ないスタイルをとっている。
「匡ちゃん、不思議に思わなかったのかしら。依頼人を家まで送っていくなんて、今までやったことなかったじゃない」
「そこを不思議に思わないのが常石くんなのさ」
探偵はまた白い布を顔にかけてデスクの上に脚を置いた。