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鼬鼠の細筆

 

 ☆


 このお店の「ご近所さん」、隣のビルのオーナー・富樫さんは、おそらく悪い人ではない。

 ただ、悪魔の道具に頼りきってしまい、もう自力では抜け出せなくなっているのも事実だ。完全な善人とは、とても思えない。


「おかえりなさい。お土産は渡せましたか?」


 店に戻ると、店主さんが出迎えてくれた。


「はい。……それより、盗聴でもしてたんですか?」


 富樫オーナーとの会話中、社内電話から突然店主さんの声が聞こえてきた。どう考えても、会話を聞かれていたようなタイミングだった。


「流石にそんな犯罪行為はしていません。ただ、富樫様なら柴崎様を引き抜こうとするだろうと予想して、念のため確認しただけです。……どうでした? 心は揺れましたか?」

「お昼ごはんが美味しいこの職場を手放すほど、僕は愚かじゃありません」


 はっきり答えると、店主さんは少し目を丸くした。


「……思った以上に、強い意志をお持ちなんですね」

「でも、悪魔である店主さんが、人にそこまで興味があるようには思えないんですよね。僕を引き止める理由って、本当にあるんですか?」

「ええ、柴崎様のご認識通り。もし柴崎様ご自身が『辞めます』と言えば、私は『そうですか』と返して手続きするだけです。ただし、第三者が無理に連れ去ろうとした場合は困りますので、引き止めます」


 ……都合が悪いって、つまりどういうことなんだろう。

 そう考えていたら、ちょうど扉が開いた。


「コホッ。悪魔店主さん、買い物に来たです」


 来訪者は、野良神社の疫病神さんだった。そういえば店主さんには「触れない商品」っていうのが結構ある。


 ☆


 前回、この神様は「ガジュマルの手鏡」を買っていった。さて、今回は何を求めてやって来たのだろう。


「今日は少しお高いかもです」

「それは朗報です。柴崎様、明日のお昼は牛タンにしましょう!」


 売り上げでお昼ごはんが変わるなら、宣伝も頑張ってみようかな……いや、営業トークとか得意じゃないけど!


「これを見てください」


 疫病神さんが新聞を取り出した。記事には交通事故の写真と、被害者の詳細が載っている。


「この被害者の骨折を“喰らおう”としたのですが……変なお守りのせいで、できなかったのです」

「変なお守り?」


 そう言うと疫病神さんは僕のそばに来て、僕が首から下げているネックレスを指さした。


「これとそっくり、というか、まったく同じです」

「……あ、それ、心当たりしかないやつだ」


 前の職場の先輩だ。そういえば名前を覚えてない……横山さん以外、誰だったか思い出せない。人にあまり興味を持ってなかったんだろうな。


「野良神社の神主に聞いてみたのですが、お守りについては何も答えてくれませんでした」


「それ、僕を殴って奪ったものですからね」


 疫病神さんは一瞬固まり、ジト目で僕を見た。


「……でしたら自業自得ですね。ヤクは帰ります」

「ええ!? いや、待ってください!」

「そうですか。柴崎様、明日は牛タンではなく、サイコロステーキに変更ですね」


 牛タンが……! 牛タンが消えた……っ!

 焦っていると、店主さんがバックヤードから段ボール箱を持って戻ってきた。


「人知れず手を差し伸べる神が、そう簡単に見捨てるものではないでしょう。柴崎様、中の物を出してください」


「はい」


 箱の中から取り出したのは、小さな細筆だった。


「『イタチ毛の細筆』。日本古来の逸品です。野良神社にある墨とこの筆を使って刻印を塗りつぶせば、邪神との縁は断たれます」


 ……いや、それって国宝級では?


「悪魔の貴方が、どうしてこんな物を……」

「間違えて買ったんです。ルーン文字を書く筆が欲しかったのに、神聖すぎるブツが届きまして……」


 まさかの誤発注かよ!


「自業自得な人間に貴重な墨を使うのは惜しいですが……支払い次第ですね。一旦、借りてもいいですか?」

「構いません。そのうち、柴崎様を神社に向かわせましょう」


 え、僕が?

 まあ、配達なら問題ない。むしろ慣れてる。


「なるほど、これからは直接届けてもらうのもアリですね」


 そうか、店主さんは悪魔だから神社には入れないんだ。


「もしかして今後は、直接来てくれるのでは?」

「配達料は上乗せします」

「……悩ましいですが、検討します」


 さすが悪魔、ぼったくる気満々だ。


 ☆


 支払いの最中、疫病神さんがじっと僕を見つめていた。


「……えっと、何か?」


「ちょっと気になったことがあったです。……そうですね、大通りまでお見送りしてもらえますか?」

「え? まあ、いいですけど」


 店主さんに声をかけ、疫病神さんと一緒に店を出る。


「悪魔店主さん、ちょっと行ってきます」

「気を付けてくださいね」


 彼女の歩くスピードはとてもゆっくりだった。それに合わせて歩いていると、店が見えなくなったあたりで、ぽつりと話しかけてきた。


「……柴崎さん、人生を諦めてませんです?」


 唐突な問いに、声が詰まった。


「すみません、他意はないです。でも、なんだか心が疲れてる気がして」


「まあ、前の職場のせいですかね」

「前職……?」

「はい。あの事故の被害者、僕の元上司です。部下だったときはロボットみたいに働かされてました。でも今の職場で、少しずつ元気になれてるんです」

「……ヤクとしては、やっぱりその人を助けない方が……」

「神様がそんなこと言っちゃだめです」


 先輩のせいで僕は職を失った。けれど、そのおかげで今の場所に出会えた。


「ヤクは人の病を喰らう神です。悪魔店主さんとは違って、人間は守るべき存在だと思ってます。貴方のような人には、なるべく手を差し伸べたいんです」


 それは嬉しい言葉だった。だけど……。


「……って、これ、富樫オーナーの引き抜きのときと同じ流れじゃないですか!」

「ふふ、焦りましたか? でも、大丈夫。ヤクは知っていますよ、柴崎さんがあの店で働くことに、生きがいを感じていること」

「え、知ってるんですか?」

「知ってるんじゃなくて、“心を覗いた”んです」

「心を……?」

「少しだけです。悪魔店主さんが苦手とする術で、ほんの少し覗くだけですが。さっき、配達をお願いしたときに、何かを諦めたような気配を感じて、心配になったんです。でも杞憂でしたね」

「……ありがとうございます」

「神ですから。ケホッ」


 どや顔した後に、また咳き込んでいた。額の冷却シートが剥がれかけて、それをぺたっと貼り直す。


「悪魔との契約は、ハイリスク・ローリターン。でも、生き方を間違わなければ、貴方は今頃大富豪だったかもですね」


 そう言って、疫病神さんの姿はふっと空気の中に溶けて消えていった。


 ……大富豪? 僕が?

 何だかピンと来ない。でも、たとえそうだったとしても。

 今の僕には、この場所でガウスと遊んで、店主さんやイナリに振り回される日々が――何より大切だ。

 疫病神さんの口調は読みにくいかもですが、そういうキャラだと思っていただければ!

 ということで今回は出番こそ少なかった「イタチの細筆」です。動物の毛を使った筆は多く、希少な動物や小さな動物の道具は何かしら力があるとも言われていますね。

 お守りという区分で動物の部位が使われているもので有名なのは「ウサギのラビットフット」ですね。幸運のお守りとか繁栄のお守りとして有名ですが、いざお土産で渡されたら、人によってはちょっと驚くかもしれませんね。

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