Encroachment
目立った明かりのない世界を、香乃とイズはゆっくりと滞空していた。
香乃は暗所で目の利かないイズの分も埋めるために、彼に地形の説明をした。
もちろん夜行性というわけではないので明瞭さに欠くのは否めない。しかし、少しでも手にできている情報を重宝し、イズと共有しておいたほうが良い。
香乃は判別できる範囲で、イズに話す。
「見た感じ、すごく広い森って感じかな。細かい所までは分からないけど、時々出っ張ってる山の周りを森が埋め尽くしてるみたい」
眼下に見える景色のほとんどは、逞しい枝葉を携えた森林で占めている。夜の暗さを受けて葉の深みが増し、圧倒的な存在感に反して喧噪とは無縁の静けさがある。
一見、写真で見たアマゾンの熱帯雨林を連想させたが、大自然の壮大さではなく未知の不気味さを感じる。
森の所々からは大小様々な山が隆起している。丘のように見える小さなものから、上空の雲を貫くほどの大きさを持つものまで。形も無論それぞれ異なる。
一番近くにある山は、さすがイズの国を建てられるだけあり、他の山を遙かに逸している。イズは山脈と言っていたが、近くから眺める今は頂上の見えない巨大な壁にしか見えない。
「この上に、イズたちの国があるんだよね?」
「…そう……だよ、ね…?」
イズも驚いていた。
幼い頃に自分の国を上空から見たことはあった。
しかし、その土俵となっている山の全体像を見たことなんてあるわけがない。
目の前の山脈はこの場所に堂々と鎮座し、いかなる風が吹こうとも、どれほどの雨が降ろうとも、全く動かない。
普段の日常は、文字通りこんなに大きな山の上にあるということを実感し、感嘆せざるを得なかった。
いつからここで聳え立っているのかは知らない。どんな経過で山ができなのかなんて興味はない。
この場所にこの大きさの山ができたから、イズの国はできた。
愛国心など持っておらず、理解もできないイズは、不思議な気持ちに苛まれていた。
この山さえなければ、自分はあんな嫌な体験をすることなんてなかったのかもしれない。もっとちゃんとした天竜として成長できていたかもしれない。
太古に遡ってまでぶつけたくなる逆恨みがあるのに、どうして…
こんなに尊敬したくなる気持ちになるのだろう。
自分の中から湧出する感情に理由がつけられない。
意味すらも分からないのに、振り払うこともできない。
イズは息切れしているにもかかわらず休憩するのも忘れて、目の前の山脈に見入っていた。
イズは疲労感を堪えて翼を羽ばたかせ、目的の場所へと飛ぶ。
香乃と相談して、なんとか降りられそうな場所へと向かっていた。
しばらくの間山の前で滞空し、香乃も声をかけづらくてそのままでいたのだが、あまりにも疲れてしまって見るどころではなくなった。体力的にも休憩の潮時だと考え、香乃に周辺を見てもらって適当な場所を探した。
最初は
「すぐ下の森に降りればいいじゃん」
と言う香乃の提案が挙がったが、周りの様子が見えなくなるから心配だというイズの保守的な意見で却下された。
「すぐ近くの山の頂上へ行く」
とイズも提案したが、風が強そうでさすがにこれ以上冷えるのはヤバいという香乃の意見が出たので、体調を心配してイズは引き下がった。
イズの国のある山脈の、とある麓にちょうど降りられそうな空間の空いた場所を見つけた。発見した香乃は鼻を高くしていたが、イズは妙な不自然さを感じて取り下げ、他の場所を探した。その時に香乃は納得できなくてイズのぽかぽかと叩いていたが、頬を膨らませながら渋々引き下がってくれた。
それから少しの間、香乃が不機嫌になってイズが何かいろいろと気を回したのは余談。
しばらく探し回った末、香乃とイズは山脈から流れてくる川の近くへ降りることにした。
周囲の様子を見るのに適しているとは言えないが、密林の中に身を埋もれさせるよりは良い。
また、水分を摂れるという点が決定に背中を押した。イズは大丈夫だが、香乃は喉が渇き始めていたので水分補給をしなければならない。
なんとか今見つかるベストを厳選して、目的地へと急いでいた。
イズの体力がギリギリに差し掛かった時、目標の川へ到着した。
山脈より流れ来るせせらぎが深い森を分断するように続いている。流れはとても穏やかで、不規則ながらも一定の流れが心地よい音を鳴らしている。
香乃とイズは川に面したところから森へと降りた。
初めてあの広大な森の中へ足を踏み入れたが、密林を構成している木を見て、香乃だけでなくイズも言葉を失った。
幾重にも折り重なっている枝葉の下は、意外なことに広い。木の一本一本がある程度の間隔を開けて生えているため、予想していたほどの閉鎖さは感じない。
しかし、その意外性がどうでもよくなるほどの驚異性が目の前にあった。
木が、あまりにも巨大だった。
高さは一体どれほどだろうか。香乃よりも体の大きいイズでさえ、てっぺんを見るのに大きく見上げなければならない。幹の太さは両腕を広げて抱えようとしても届くわけがなく、壁に張り付いているようにしか見えない。香乃の感覚では、一戸建てよりも太いんじゃないかと思った。
巨大という言葉が似合う幹から分岐する枝は、それすらも既に常識外れの大きさがある。香乃達とは距離があるはずなのに、普段見る街路樹よりも太く見えた。
枝の端から生える葉の大きさは、ここからでは確かめられない。しかし、大きさなど関係なく、夜空を隠しきってしまうほどの無数の葉はそれだけでも圧倒するに事足りた。
あまりの壮絶さに、香乃は上から下までまじまじと見回してしまう(もちろん頂上など見えないのだが)。
不意に、気になる部分が目に入った。
場所は木の根本。この巨木を支える、まさに根本的な部分。
太い幹から分岐して土に潜るはずのそれは、幹からいくつかに分岐している。捻れるようにして伸びる箇所は、そこから根が始まるのだと分かる。
根は地面から派手に剥き出しており、根と根の間をくぐることもできそうだった。
その根の部分に、小さくて決定的な違和感があった。
根の部分から、枝が生え、葉が付いている。
香乃の常識だと、植物の根からは根毛という水分を吸収するための細い毛しか生えていないはずだ。だが、目の前の大木からは枝が生えている。
よくよく観察すれば、分岐した根は地面との境目に至ってから再び根が分裂している。これは、幹が太いからとか、この世界では普通だとかいう理由で済めばいいのだが、やはり常識的におかしい。最初の根の分岐から次の分岐までの感覚が、あまりにも不自然なのだ。
根の分岐の異様な間隔。捻れた根の伸び方。根から生える枝葉。巨大に生長した木の等身。森の中が予想より空洞化している状態。
小さいがいくつも挙がる不自然さ。
そこから導かれる答え。
(まさか…)
香乃は自分の推理した結論を疑った。
不自然を自然にする常識。
地球では決して有り得ない現象。
(木同士が、くっついてる…?)
植物は動物と同様に、通常は個体同士が融合することは有り得ない。外皮の細胞分裂が別個であることや、遺伝子が個体それぞれで異なるからだ。環境ホルモンや奇跡的な偶然により体の一部が結合している双子の新生児が誕生することがあるが、そのような症例は極めて稀である。ソメイヨシノなどの桜の木を代表として、個体数を増やすのに挿し木がよく採用されるが、遺伝子は同一でも二つの個体が一つになることはない。
だが、イズの世界の植物は“これ”が常識のようだ。
複数の樹木同志が集まり、螺旋状に捻れながら幹を一つに束ねることで、一本の巨大な大樹を形成する。
そんなのありか、と香乃は呆然としながら再度目の前の巨木を見上げた。
この木があって、あの森あり。
香乃とイズは会話することも忘れて、未踏の地にある自分の住む国との違いに息を飲んでいた。
「すごいね…」
「うん…」
しばらくの空白の後にようやく出た会話は、感動に支配され過ぎていたために短く終えた。
森の中に入ってから風を感じていない。川との境目まで行けば少しは吹いているだろうが、ほんの少し奥に入れば台風の目のように閑静になる。
おそらくこの森がそのような環境を作っているのだろう。しかし、見た目といい、もたらす影響といい、成長の仕方といい、一体どこまで自分達を驚かせれば気が済むのか。
「…んん…!」
香乃の体が震えた。思わず自分の体を抱きしめる。
何かがあったわけではない。単に体が冷えたことから起こるシバリングだった。
小さな声に反応したイズは、香乃を心配する。
「カノ、大丈夫?」
「うん、寒いのを思い出しただけだから、心配しないで」
香乃は苦笑しながら答えた。
そう言うものの、両腕を摩って暖を取ろうとしている。
ずっと背中に乗せていたのでイズは見逃していたが、香乃の服や髪は湿っていた。雲の中を通った時に服が水分を吸ってしまったのだろう。水滴が垂れるほどではないが、濡れた服が張り付き、香乃の体のシルエットを浮き上がらせている。生地の薄いところは肌の色まで透けてしまっているので、殿方が見れば恥ずかしくて目を背けるか凝視するだろう。
香乃本人が気づけばすぐに隠すだろうが(すでに腕で隠している体勢ではある)、イズは人間という異種族のセクシーさなど理解していないので、結局のところ誰も気にしていない。
とても寒そうな様子に、イズには心配しないほうが無理だった。
だが、何をすればいいのか分からなくなった。
寒そうなのだから、温かくしてあげればいいことくらいは分かる。そこまで分かるのに、そこから次の段階…具体的に何をすればいいのかが思いつかなくなる。
こんな時に、火が吐ければ、と悔しくなる。同族ならできることが自分にはできない。それがこんなところで改めてイズを苛んだ。
香乃は何も言ってこない。
どうして何も訊かないのだろう。
イズの部屋での中央で、温かい火が燃えていたのを知っているはずだ。あんなにも温かそうに当たっていたじゃないか。
どうして訊いてこないんだろう。
今なら素直に話せそうな気がするのに。
話し方は下手だろうけど、ちゃんと本当のことを話せるような気がするのに。
もしかして、とイズは勘繰る。
気遣われているのだろうか。
自分がこんな体たらくだから、余計な気を遣わせているのかもしれない。
もしそうなら…。
僕はなんて駄目な奴なんだ…!
イズは図らずとも見上げていた視線を下げた。
その様子は、香乃の視界の端に映っていた。
「でも、イズにとっては内心ウハウハだったんじゃない?」
突然訊かれて、イズは曇った表情を慌てて持ち上げた。
「…なんで?」
「だって、イズたちは雲を食べるんでしょ?雲の中にいる間は食べ物に囲まれて天国気分だったんじゃないかなーって思って」
そう言って、香乃は笑う。
ただ、香乃は勘違いしている。イズはそれを諫めた。
「…僕たちが食料に充てているのは、あれじゃない。あれは、食べられなくはないんだけど違うんだ。香乃の世界にもあればいいんだけど、雑草とか海水とか、その類だよ」
「あれ?そうなんだ?」
確かに、それは食べられなくはないけど食べたくはない。
よく知らなかったとは言え、香乃は変に決めつけていたことを少し反省した。
しかし、すぐにころっと笑顔に変える。
「そっかー。てっきりイズには極楽なんだと思ってたよ」
深く考えてからの理由ではなかったことにイズは呆れて、小さく溜息を漏らした。
「…もう少し考えてよ。僕たちはカノが思っているほど粗食じゃないんだから」
「あははっ、ごめんごめん」
香乃は気にする様子もなく笑う。
「いやー、イズって見かけによらず食いしん坊なほうなのかなーとか思ってたんだけどな。天竜族も、食べ物があんなに近くにあっていいなーって思ってたし」
「それは偏見。僕たちはそんなのじゃない」
「…あれ、怒っちゃった?」
「怒ってない」
「怒ってるじゃん」
「怒ってないって言ってるだろ!」
イズは声を荒げた。
そして、すぐにはっとした。
自分らしくもなく大きな声を出してしまった失態。
何も考えずに感情を剥き出しにしてしまった恥。
感情のままに発言した軽率さ。
イズは自分自身に怒りと情けなさを感じた。
どうして香乃に怒ったりしたのか。彼女は何も悪くない。ただ普通に会話していただけじゃないか。
なのに、急に怒りを抑えられなくなった。
怒りたくなったのは、香乃が天竜族に変な先入観を持っていたからだ。
別に自分だけが卑下されるのは構わない。自分でさえ天竜であることを嫌に思うことだって
何度もあったし、他の天竜族のことを忌み嫌ったことだってあった。
イズ自身が同族のことを嫌おうと、どうせ誰にも届かないのだから一向に良かった。誰にも気にされないのだから、自分だけが我慢していればそれで済んでいた。
でも、香乃が天竜族を馬鹿にしたような気がして、我慢できなくなった。
今までいくらでも我慢できていて、これから何があっても我慢できるという歪んだ自信がついていた。なのに、香乃という異世界の住人に自分を含めた天竜族全てを侮辱されたような気がして、気がつけば怒っていた。
こういう展開を自分で起こしておいて、このあとに起こる相手の変化が、イズにとってトラウマだった。
きっと、香乃はびっくりしたあと、すぐに悲しい顔をするだろう。
あの時だってそうだ。
イズは、幼なじみの友達に感情のままにひどいことを言って、そして傷つけた。
僕に言われたあとの、複雑な感情の末に現れたあの据わった表情を、イズは忘れることはできない。
誰も傷つけないように、誰にも傷つけられないように、今まで他者と距離を取っていたのに。
なんで、自分は…。
恐る恐る、イズは香乃に振り返った。
本当は見たくなんかない。
できれば逃げ出したい。
でも、逃げることすら怖いのか、なけなしの責任感が生まれているのか、何かの理由でイズは香乃と顔を合わせなければならないような気がした。
どんなことを言われても構わない。
でも、言われたあとに、どうすればいいのかは分からない。
中途半端な覚悟のまま、イズは香乃と向き合った。
「カ、ノ…」
まずは謝るべきだ。
誰が悪いとか、何が悪いとか、そんな細かいところを考えている余裕なんかない。
謝らないと、香乃との仲が悪くなりそうな気がして、それだけは嫌だとイズは思った。
「カノ、その…ご」
ごめん、と言おうとして、イズの手が香乃に握られた。
「っ!?」
突然で意味不明なことをされて、イズは体がビクついた。
「やっと、見せてくれたね」
よく分からない言葉をかけられて、イズは香乃を見る。
本当は見たくなくて、でもどうしても確かめたかった、香乃の様子は。
怒っていると思っていたのに、目を細めて微笑んでいた。
慈愛に満ち、体の大きいイズが包まれてしまいそうな、柔らかい笑顔だった。
「初めてだよ。イズが怒ってるところを見るの。イズってば、全然本当のことを言わないんだもん」
香乃は握る手の力をほんの少しだけ強める。
「イズに会ってから、イズが言うことはずっと説明みたいなものなんだもん。自分のことをあまり言ってくれないから、イズの気持ちが分からなかったの」
手を離した香乃は、イズとの距離を少し開いた。
「私がずっと質問ばっかりしていたのが悪かったのかもしれないけどね。でも、イズは私のことを心配してくれるけど、それしか考えてくれてなく思えてさ。せっかくこんなに凄いものを見られたのに、自分のために楽しまなきゃもったいないよ」
香乃はおもむろに両手を広げて、その場でくるりと回った。
「そのためには、まずは自分に正直にならなきゃね。楽しかったら笑って、不安だったら悲しくなってさ。さっきみたいに、ムカついたら怒って全然いいんだよ」
香乃はイズの過去を知らない。
今までどんな生き方をしてきたのかも知らない。
だが、香乃が話す内容はイズの在り方に鋭く突き刺さった。
「…でも、僕は…」
しかし、今さら誰かに言われたところで、生き方を変えることなんかできない。
イズは、香乃が元の世界に帰ったあとも、また孤独に帰るつもりだった。
自分でそう決めたことだ。変えるつもりもない。
それが、自分の力量を理解した上での、自分で決めた生き様だ。
「誰も傷つけたくないんだ…」
弱々しく本当の気持ちの一部を言った。
それを聞いた香乃はさらに嬉しくなって、イズでさえも見入ってしまうほどのとびきりの笑顔で、言った。
「いいじゃん。傷つけたら仲直りすればいいんだもん。たとえ誰かとぶつかることがあっても、自分の本当の気持ちを出すことは間違ってなんかないんだよ」
イズは目を見開いた。
香乃が言ったことは、ただの説教だ。それ以外に何もないはずだ。
自分があまりにも情けない態度だったから、矯正するために言っただけだ。
なのに…。
どうして言ってほしかったことを言うことができる?
自分自身が他者との関係を断ちきりたくなったのと、過去に冒した友への非礼を贖罪するために、イズは自分の在り方を内向的なものへ変えた。そういった方法でしか償い方が分からなかったからだ。
それしかないと決めつけつけられたから、今までそうしてこれたのだ。
だが、香乃に言われて、思い出した。
本当はそれに納得していないのだということを。
本当は言えるものなら、もう一度友達に自分の気持ちを言いたいのだということを。
自分がしたことが間違いではないのなら、もう一度だけ友達と話したいのだということを。
そして、香乃もまた、自分で言った言葉に気づかされた。
本当の気持ちでぶつかる大切さ。
我が儘であっても、一番好きな人に本音を言うことがどれだけ大切なのか。
恋人とは、結局自分の気持ちだけを勝手に吐き出しただけでその場所から立ち去ってしまった。
香乃は恋人の本音を聴いただろうか。
彼の取った行動の真意を聴こうとしただろうか。
そこまで考えて、香乃はようやく己の馬鹿さに気づいた。
恋人と分かり合うために必要なこと。
たとえ考えが異なろうとも、異なることを見せることで理解できること。
それを香乃は忘れていたのだ。
「私が恋人と喧嘩しちゃったっていうのは話したよね?それね、よく考えたら、相手の…彼の気持ちを聴こうとしなかったのが悪かったんだなって思ってるの。彼がどんな理由であんなことを言ったのか、予想はできても本当は分からないよ。でもね、まだ聴いてないんだ。また傷つくかもしれないけど、でもね、聴きたいの。彼の本当の気持ち」
香乃の言う“彼”とは、恋人なのか。それともイズのことなのか。
途中からどちらとも取れるニュアンスになっているような気がして、イズは混乱した。
「嫌な気持ちになる予想から逃げちゃダメだって思った。だって、本音で話せば、傷つけ合うことはあっても、許し合うことだってできるんだから」
そう言って、香乃はにこりと笑顔を見せた。
言ってもいいのだろうか。
話しても大丈夫だろうか。
笑わずに聞いてくれるのだろうか。
自分の気持ちを分かってくれるのだろうか。
こんなに自分のことを話したいと思ったことは、イズにはかつて無かった。
本当に初めてだから、話していいのかどうか分からない。
ただ、この機会を逃したら、イズはこの先ずっと誰にも言わないような気がした。
こんなに開示的な気持ちになることなんてないと思った。
もし、理解されなくても、傷つくかもしれないけど。
香乃だけには話しておこう。
自分の本当の気持ちを話しておこう。
そう思って、イズは香乃と向き合い、
香乃の背後に黒い影が現れてぎょっとした。
突然現れた“それ”は香乃を背後から抱き寄せるようにし、自由を奪った。
「えっ、わ!なにっ!?」
なんの前触れもなく後ろから抱きつかれた香乃はパニックになり、とにかく動かせる両足をばたつかせた。
「は、離して!」
必死に藻掻いて拘束から逃れようとするが、一向に弱まる気配がない。
香乃が襲われるのを目の前にしたイズは、呆然となって動けなくなっていた。
得体の知れない“それ”は全身真っ黒で、頭部と見られるところに二つの黄色い目が不気味に光っている。
知らぬ間に全身に恐怖が行き渡り、足が棒のように動かない。
「カ、カノ…!」
呻くように漏れた声はあまりに小さく、香乃の悲鳴に掻き消された。
「イズ!助けて!」
香乃が助けを求める。
自分の名前を呼ばれ、イズは我に返った。
何をしているんだ!香乃を助けるんだ!
イズは恐怖を必死で押さえ込んで、黒の“それ”に飛びかかろうと翼に力を入れる。
羽ばたこうとした直前、翼に何かが乗っかってきた。何があったのかと振り返ろうとした瞬間、後頭部に重い衝撃が走る。
視界が一瞬白く染まり、再び暗く戻ると景色が歪んで見えた。
気分が悪くなる。
背中にのしかかった重みがさらに加わり、イズはその場に倒れ込んだ。
「イズー!」
香乃の悲痛な声が、夜の樹海に響いて消えた。