体験は一番の勉強
雲とは、大気中に存在する水蒸気が気圧や気温などの外的要因によって膨張し、それら同士が凝結して微細な水滴状となったものが群を成し、大気中に浮遊しているものである。
気体状ではあるが、水分であることには変わりはない。
つまり、触ると冷たい。
「さーーーーーーーーーぶーーーーーーーーーーいーーーーーーーーー!」
雲の中に、寒さで震える香乃の声が響いた。
少し前は風で凍えたが、今度は雲で凍える展開が待っているとは思わなかった。
雲自体はそこまで低温ではないのだが、水の常温は人体よりも低いのが常だ。温度は高いほうから低い方へ流れる性質がある。香乃の体温は雲よりも高いため、体温を奪われる立場になっている。
雲の中を進んでいる間に、香乃の着る服が雲の水分を吸っていた。つまり、今の香乃はまるで雨の中を傘も差さずに吹き曝しになっているようなものだった。
また、液体は気体へと蒸発する時に吸熱という現象を起こす。これは物質の状態が変化する際に触れている物の温度を下げる効果で、注射の前に消毒用アルコールを塗るとあとでひんやりするのが例に当たる。
水蒸気に触れるだけでなく、体に付着した水滴状の水分が吸熱を起こして相乗効果を生み、結果として香乃の体は冷え続けていた。
他に通り道など知らないので雲の中を強行突破する手順になったが、香乃はそれを思い切り後悔する。女性はあまり体を冷やしてはいけないというのに、これは堪える。
「いいいいいずずず、まだまままだまだまだつつつ着かなないのののの…?」
がたがたと震えるながら、ぶるぶると震撼している口で絞り出すように香乃が言う。
一方で、高地なりの寒さに慣れているイズはいつもの調子で答えた。
「…分からない。僕も行ったことがないし、こればかりはちょっと…」
「じじじじゃじゃあ、ももっとはや早くくくく…!」
「そうしたいのも山々だけど、いつ陸地が見えてくるか分からない…っていうか陸地があるかどうかもまだ分からないから、様子を見ながら少しずつ降りないと」
自分たちの周りは全て雲であるため、視界のほとんどが暗灰色で占めている。香乃とイズとの距離ならまだ見えるので大丈夫だが、下手をすればそれすらもぼやけるほど雲が濃い。
「うううぅぅぅぅうぅぅ…!」
できる限り迅速にこの状況から抜け出したい香乃だが、イズの安全重視な返事に変な唸り声を上げるしかできなかった。
いつもなら抗議するところだろうが、生憎と今の香乃は寒さで冷静さがこれっぽっちもない。早く体を温まりたいという自己防衛の本能しか働いていないため、まともに話すことすら困難だった。
イズは香乃から恨めしげな視線を感じるが、お願いだからそんな理不尽な視線を送らないでほしいと思う。
香乃にとってつらい状況に晒されていると考えると、やはり雲の下に降りる判断を誤ったように思えて不安になる。
イズが香乃の提案を了承したのは、自分でも不可思議な理由だった。
いくら考えても、下層に行くのは心配の種が多すぎる。何があるか不明な以上、近づかないことが一番安全なのだ。
飛んでいるのはイズなので主導権はイズにあったはずだった。部屋に戻ろうと思えば、香乃は否が応でもイズと共に戻らなければならない。決定権はずっとイズにあったのである。
しかし、香乃の言葉を聞いた時、イズの後ろめたい部分が抉られた。
自分のことを自分で決めるということ。
イズにとってそれは、今までの自分の在り方と敵対するものだった。
イズは自分が他者と関わることで相手との関係が粗悪になることが嫌になり、自ら外との接点を捨てた。イズが世間と疎遠になることが世間のためだと自分に言い聞かせた。これが周囲を思った自分なりの最良案であり、自分で選んだ道でもある。
だが、イズが望んでいたことか、というと少し違う気がした。
自ら孤独になったのは、あくまで他者を思っての採択である。それしか思いつかなかったので、結果的にそれを徹底していた。
他者は関係なかったら、自分は何を望んでいるのか。
香乃に言われて、ずっと悩んでいた。
自分はどうしたいのだろう…?
本当は何をしたいのか分からない。自分のことなのに、全然思いつかない。空っぽすぎる自分の心を今さら自覚したイズは、得体の知れない恐怖を覚えた。
何もしたくない。それが正直な気持ちではある。何かをすれば、また嫌な思いをするから。
でも、やっぱり何かが違う。
それは心のどこかで無意識に導かれる、いわば洗脳のような答えのような気がする。
何かをすれば悪いほうへしか転ばないから。自分が何かをしたいと思うだけで誰かを傷つけるような気がするから。
何かを望みたくてもできなくて、始めから望んでないみたいに自分を誤魔化して。
そしたら、いつの間にか何も望まなくなっていたんじゃないのか。
何も望んでないことを周囲から求められていると思っていたんじゃないのか。
もしかしたら、自分でそう決めつけていただけかもしれない。
我が儘を言っていいのなら。
誰にも迷惑をかけないのなら。
行ってみたい。
雲の下に何があるのか、見てみたい。
それが本心だった。
周囲の目を気にして押し込められていた自分を、イズは表に出した。
自分のために何かをしよう。
他の誰でもない、ちっぽけな自分のために動いてみよう。
そう思い、イズは香乃の提案に乗ったのだった。
「ふぇぇええええぇぇぇ……さ、寒いーーー…!」
ただ、これでは決心が揺らいでも仕方がないんじゃないかと思う。
今はあまりの寒さに、イズに力強く抱きつく形で温を取っている。別に苦しくはないが、首に力がこもっているのが分かる。
イズにとっては大したことのない風でも、香乃にとっては体調に影響するほどのものだった。ついさっきそれでつらい目に遭わせたというのに、自分の決断によって二度も香乃につらい思いをさせている。
本当にこれで良かったのかと迷う。
せめてつらい思いをするのが短く済むよう、イズはより警戒しながら降りる速度を気持ち速めた。
しばらく雲の中を下降していくと、視界を覆っていた色が薄れてきた。
暗灰色が徐々に取り除かれ、代わりに深い闇が覗いてくる。
そろそろかと思ったイズは、降下する速度を緩めた。
高度を下げるほど雲が薄まっていくので、イズは完全に雲から抜けきらない所で一度滞空した。
少し頑張って翼を羽ばたかせ、周りの薄くなった雲を一気に払う。すると、ぼやけていた視界が晴れ、下に広がる世界を一望できた。
目の前に広がっていたのは、どこまでも黒い影に染まった世界だった。
夜の時間帯ではあるが、雲の上にいた時とは違う暗さに覆われている。見上げても星の輝きはなく、代わりに暗灰色の雲がそれを阻んでいる。
光が遮られているため、イズの目にはほとんどが闇に覆われていてはっきりと眺めることができない。足の下を見ても遠くのほうを見渡しても、黒ばかりが目に入る。
「暗いねー。雲の上と全然違うね」
突然イズの背後から香乃が言った。
びっくりして肩が跳ねるが、そういえばいつの間にか香乃の震えはやんでいた。
急な出来事に鼓動を早めた蚤の心臓を落ち着かせながら、イズは訊いた。
「か、カノ、大丈夫なの?」
心配するイズに対して、香乃はけろっとした様子で答えた。
「うん。まだ少し肌寒いけど、こっちのほうが暖かいみたいだからさ、ちょっとじっとしてたらちょうど良くなったよ」
標高の高い場所と違い、地上付近では地中からの地熱と日中の日光によって温められている。また、雲がかかっている場合、まるで服を着ている時のように保温効果が生まれるため、地表面では気温が上がりやすい。
雲の上ではそれらがないので、香乃をはじめとした人間にとっては寒く感じる場所だった。しかし、そこよりも比較的温かい場所に来たことで、香乃の体を温めることができたようだ。
イズは図らずとも良い方向に結果が流れたことに胸を撫で下ろした。あのまま香乃が寒がっていたら、自分の体力が戻らなくても無理矢理帰っていただろうから。
香乃の隊長は思うほど心配がないとして、今度はイズの身が心配だった。体力切れからしばらく経つがまだ休憩する目処が立っていなくて、正直しんどい。
しかし、どこで休憩すればいいのだろうか。視界は暗く、下がどんなふうになっているのか視認できないでいる。着陸地点が決められないため、イズの体力はただただ奪われる一方だった。
早く着陸できる場所を見つけないと…!
イズは焦燥を募らせる。だが気をつけても暗い空間を見えるようになれるわけではない。見えるのは暗い闇でしかなく、何があるのかも何かあるのかも確認できない状況が続く。一向に悪いほうにしか進んでいかない今の状況がさらにイズを焦らせる。
何か、せめて目印になる物が見つかれば…!
「それにしてもすごい森だね。ずーっと向こうまで続いてるし」
香乃が言った。
香乃が感想を言った。
香乃が、風景を見た感想を、言った。
「…カノ」
「ん?なーに?降りないの?」
「もしかして、見えるの…?」
「えっ?見えないの?」
香乃は答える代わりにイズに訊き返した。
イズは信じられないものを見たように驚き、香乃に問い詰めた。
「な、なんで…?こんなに暗いのに…」
上手く言葉が出てこないせいで拙い訊き方になったが、香乃は逆に不思議そうな表情をした。
「だって、ずっと外にいるんだもん。暗い所にいれば目が慣れるでしょ?」
人間にとっての可視光線は幅が広いとは言えない。見えるのは光の三原色を基礎とした色彩のみであり、赤外線やエックス線を見ることはできない。
可視光線の範囲でも、明るすぎれば目を瞑ってしまうし、暗すぎては何も見えなくなる。それでも可視の範囲であれば、人間の視界は順応性に優れている。明るい場所に行けば明順応が働き、ある程度の眩しさでも目を開けていられるようになる。暗い場所ならば暗順応が働き、ある程度の暗さならば色彩を判別できるようになる。
香乃にとっては当たり前のことなので、景色が見えていても何ら不思議ではなかった。
しかし、イズをはじめとした天竜族は明暗の順応性がそれほど高くはなかった。雲の上では星の明かりがあるのでその程度ならば適応しているが、これほどの暗闇はイズにとって初体験だった。また、昼行性であるだけでなく、暗くなる夜には火を燃やして照明を確保できるため、過度の暗さに適応する必要がなかった。
「ごめん、僕には見えないんだ。その、暗すぎて…」
イズは内心、理不尽にもずるいと思った。香乃の様子から、特に意識してやっていることではないようだ。それでも、できる香乃とできない自分を比べてしまい、嫉妬の気持ちが生まれてしまう。
しかし、香乃にとって天竜族の理解力が理解できなさそうだったのはこんな気持ちだったからだろうかと思い、勝手に能力差を妬んだのを反省した。
一方、イズの申し訳なさそうな言い分を聞いて、香乃はちょっと笑ってしまった。
まだ出会って短いけれど、香乃は今までずっとイズができることを羨んでいた。
聞いた言葉を覚えられる。
高い理解力を持っている。
ある程度の寒さにも強い。
空を飛べる。
火を吐ける。
どれも香乃にはできない要素だ。
だから、イズができることを意識する度に、すごいとも思うし、いいなとも思った。
自分よりもできることが多くて、どうしても劣等感が湧いた。情けないと自分を詰った時も、イズには秘密だが、本当はあった。
しかし、イズにもできないことがあると知ったら、もやもやとしていた気持ちが嘘みたいに晴れた。
自分よりも優れていると思っていたのに、ひょんなことから苦手なことを知った。
イズには悪いと思っているが、奇妙なほど心が明るくなった気がした。
イズと自分は違う。
そんな簡単なことを、今さらながら本当に理解した。
…いや、人間とドラゴンという時点で根本的に違うんだけれども。
また、イズの性格がもう少し分かった気がした。
ネガティブに考えがちなのと他に、気にしなくてもいいようなことを大袈裟に気にする。それがイズの癖なのだと思った。
謝ることでもないのに気が病んでしまいそうなほど真剣に悩む。そんなひたむきな姿が、なんだか可愛く思えた。
「そんなこと気にしなくていいの。なんだったら道案内を請け負ってあげてもいいよ?」
香乃はイズの沈んだ雰囲気を少しでも軽くしてあげたくて、ちょっと戯けて言ってみた。さり気なく首をちょこんと傾けた拍子に、髪を濡らしていた水滴がイズの背中に落ちた。
香乃の軽い調子で言われたイズは、それに乗ることなく真剣な態度を保ったまま考えた。
「…じゃあ、降りられそうな場所、探してもらえる?」
ちょっとしたおふざけをスルーされて軽くブルーになりそうになった香乃だが、なんとか平常心を意識しまくってイズの低姿勢から来た頼み事を受理した。