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努力の種類

 あの時、ああすればよかった。

 今を生きる者はどれだけこの後悔を繰り返せばいいのだろうか。




 香乃が部屋を出て行っても、イズの気持ちは曇ったままだった。

 香乃の言う通り、自分でもひどい言い方をしたと思う。

 そうなのだ。あんなことを口に出すものではなかったのだ。

 本当はもっとやさしくしたかった。幼い頃より父から「他者の心を汲めるようになれ」と育てられてきた。幼少期は言いつけのまま目標としてきて、自我が確立した今になってもその志に賛成しているから別にいい。

 でも、どうしても上手くできないことっていうのはある。香乃の気持ちを理解してあげたかったのだが、誰かと話をするのが久し振りだったせいで話をしただけで変な疲れが出てしまった。さっきも香乃の事情をよく知らないのに、自分一人だけの時間が欲しくなって突き放すような言い方をしてしまった。香乃の話を聞いてあげればよかったのに、イズは拒んでしまった。

 それだけならやり直しが利いたかもしれない。謝れば済んだかもしれない。でも、香乃が怒った時、イズは自分がとても嫌な存在に思えてしまった。香乃の些細な言葉を聞いて、心が無駄なくらい敏感に怯えてしまった。香乃の怒りをぶつけられて、いうべき言葉を忘れてしまうくらい心が傷ついてしまった。

 その言葉が本当じゃないってことは分かっている。部屋を出て行く時に香乃は謝ってくれていた。

 でも、違う人からも同じようなことを言われていたら、簡単に否定できるものだろうか。


 イズには分からない。


 そう言った香乃。

 そしてもう一人。

 幼なじみから言われた言葉が、昨日のことのように思い出される。



 天竜の国の民は基本的に自由な生活を送っている。それぞれの住処を持ち、家庭を築き、日々の享楽を求めて生きる。

 しかし、過ぎた自由は治安の悪化を招くとして、国の代表者は治国を懸念した。考案を重ねたのち、苦肉の思いで一部の者に国の統括の役割を与えた。自由主義を基礎に置く故に、厳選した者に適切な範囲で民を管理・指導する権限を与えた。

 その治国策は成功の形を収め、今もなお豊かな国として安寧を栄えている。


 イズには幼い頃から仲の良かった友達がいた。

 親の繋がりでまだ空も飛べない頃から顔を合わせ、それからはいつも一緒に遊んでいた。

 朝ご飯を食べたら親に連れて行ってもらい、日が暮れるまで飽きもせずに遊んだ。お互いに腕白だったので、体のいろいろな所に怪我ができていった。しかし、イズも友達もそれについて嫌だとは思わず、むしろ誇らしい気持ちになった。

 飛行の適齢期になると、今度は一緒に空の飛び方を練習した。自分の力で飛べるようになれば、親の力を借りずに好きな時に好きな場所へ行けるようになる。子供の頃に抱いていた、親の拘束力から解かれる夢を実現しようと、イズと友達は一生懸命練習した。

 最初に飛べるようになったのはイズだった。体の成長度は個人差が出るため、その点ではイズのほうがわずかに先行する結果になったようだった。その時のイズは嬉しさが勝っていたので気に留めなかったが、今思い返せば、先に飛べるようになったイズを見る友人の目つきは羨望と嫉妬に満ちていたような気がする。

 翌日、友達は用事があると言って遊ばなかったが、次の日には友達も飛べるようになっていた。何も言っていなかったが、もともと怪我だらけの友達の体のところどころに、今までなかった傷跡が増えていた。


 それからしばらくは一緒に遊んでいたが、いつの頃からか友達はイズと遊ぶのを断ることが増えていった。イズは当初、それそれの用事があるのだと思って気にしなかった。

 しかし、月日が経つにつれて友達が誘いを断ることが多くなり、イズも誘うことに遠慮し始め、ついには一緒に遊ぶことがなくなってしまった。

 それぞれの用事がある。イズはそう自分に言い聞かせ、一人でいる時の楽しみ方を見つけてはそれで過ごしていった。


 数年が経ち、イズの体つきはすでに成年と呼べてもいいほどの段階まで成長した。

 これを機に、親の勧めで、イズは火の吐き方と次元移動の仕方を教わることになった。天竜族は体の構造上、火を吐くことはできる。同様に、成年に近づくにつれて発達する両翼によって飛行能力も備わるのだ。親の模範を見て、倣うことを繰り返してコツを掴んでいく。どちらも感覚的な部分が多いので習得するのは容易ではなかったが、半年の歳月を費やした頃ようやくできるようになった。

 きちんとできるようになり、イズは、昔初めて飛び方を覚えた時のように大喜びした。これで天竜として一人前になれたのだと自賛した。


 喜びが抑えきれなかったイズは、友達に自慢してやろうと考えた。できるようになったのだと自慢してやりたかった。

 友達の家を訪れると、イズは彼を見て驚いた。

 友達は、昔の腕白さが抜け落ち、威圧感の漂う雰囲気になっていた。身のこなしの一つ一つに重みが感じられ、自分を見る目は無邪気さの欠片もなかった。

 幸いにも時間の空いていた友達はイズを連れて静かな場所へと移動した。

 腰を落ち着かせてから、イズは自分の努力の成果を話した。初めて火を吐けるようになったこと。異次元へ行けるようになったこと。イズは友達に、自分の努力の成果を見てほしかった。

 それらを覚えるためにたくさん練習したことも話そうとした直前、聞き手に回っていた友達は突然一笑した。


 友達は、そんなこと誰だってできると言った。

 今頃覚えているのはお前くらいだと言った。

 友達の口から出された冷たい言葉に、イズは何を話したかったのか分からなくなってしまった。

 口を噤んだイズに、友達は話し始めた。

 空の飛び方をイズに先を越されてから、彼は人一倍努力し始めた。何度も地面や壁に体をこ叩きつけて、むりやり身につけた。飛び方を覚えてからも、友達は努力を止めなかった。両親の縁を最大限に利用し、国学や哲学、心理学などの教養を身につけた。また、国の統率関係の者に弟子入りし、統治に係る知識を身につけていった。火の吐き方、次元の移動法などとうの昔に習得していて、現在は若くして治国者の一角を担うまでになったようだ。

 それを聞いたイズは、平穏を望む自分には友達の考えが分からなかった。どうしてわざわざそんな地位を目指したのか。どうして自由気ままに暮らす生活を捨てたのか。

 取り乱したイズに、友達は冷静に答えた。

 友達の父親は長年治国者を務める要の一人だった。友達の父親は、友達に幼い頃から厳しい態度で接していた。それは、いつか自分と同じ誇りある治国者とするための教育だった。

 友達はそんな父親が嫌で、子供の頃は父親の近くにいたくなかった。近くにいれば何かとうるさく言ってくるからだ。友達はイズと遊ぶのを口実に、父親と距離を取っていた。

 しかし、ある日イズのほうが先に空の飛び方を覚えられてしまった。その時、友達は今まで抱いたことのない悔しさを思い知らされた。目の前にいるお気楽な奴よりも自分が劣っていることを痛感した。

 一生の不覚、生き恥をかかされる思い…友達は自分の低能さを恨み、イズに憎しみさえ抱いた。帰宅してから父親に練習の首尾を伝えると、イズが飛べたのに友達が飛べなかったことに激昂し、飛べるようになるまで私用の外出を禁じられた。友達はそれを嫌とは思わず、むしろ自ら進んで特訓した。無事に飛行技術を身につけると、友達は今度は父親に頼み、技術面、知識面などに手を伸ばした。友達は難題にぶつかろうと決して挫けず、努力を惜しまなかった。

 すべては、イズなんかに負けたくないという、歪んだ競争心からだった。

 自分よりも先に飛べるようになったイズ。

 自分よりも先に高みに昇ったイズ。

 自分よりも先に優れていると見せつけたイズ。

 友であれ何であれ、友達は深い所から湧き上がるどす黒い感情を抑えられなかった。


 友達から真相と本音を聞いたイズは、絶句してしまった。

 友達が、仲睦まじかった友達が、イズのことを恨んでいた。

 あまっさえ、自分の言動によって大きな傷を負っていた。

 長年親友と思っていた彼がそういうことを考えていることを知り、衝撃を隠せなかった。

 イズから見ても分かるくらい、友達はすでに大人びた印象を讃えている。身につけた技術や知識は、イズには理解できないこともあるのだろう。たくさんの竜と関わり、たくさんの見聞を広めたのだろう。重要な役割を担う今、たくさんの竜から慕われているのだろう。他者から見れば偉大だと思う友達の成長は、すべてイズに対する憎悪が原因だというのか。

 イズは口の中の乾きを感じながら、友達に問いかけた。どうしてそんなこと言うのか。どうしてそんな生き方を選んだのか。どうして今までどおり共に遊ぶ仲でいられなかったのか。

 混乱した思考で問いを投げ続けるイズに、友達は一言だけ答えた。


「イズには分からないよ」


 と。


 友達はそれだけを言い置いて、僕の前から飛び去った。

 イズには友達に話したいことも訊きたいこともいっぱいあった。空白の時間を埋めたいほど、イズは友達とたくさん話をしたかった。それが、知りたくもなかった…いや、あるなんて思ってもみなかった真実を告げられて、叶わない夢へと変わった。

 その出来事以来、イズは他者と関わるのが怖くなった。自分のせいで誰かが嫌な思いをする。自分のせいで誰かを傷つける。自分のせいで誰かに恨まれる。自分のせいで誰かと憎しみ合う。自分のせいで誰かの生き方を変えてしまう。

 イズは自らの出来の悪さを呪った。どうして自分はこうなんだろうと。どうして自分はそうしてしまうのだろうと。火の吐き方や次元移動を自慢するために友達に会いに行った自分の脳天気さに虫唾が走った。

 自分のいる場所が嫌いになった。

 自分の在り方が嫌いになった。

 自分の全てが嫌いになった。


 そして、イズは誰との関わりを断ち切った。



 イズとて、何もしていないわけではなかった。その友達ができそうなことをできるように努力したこともあった。でも、どうしてか自分は失敗ばかりする。簡単なことでも簡単に失敗する。もっと上手くやりたいのに、どうしてか上手くいかなくて、いつも後悔ばかりする。上手くいかないことが積もり、いつしか失敗が怖くなって、すっかり臆病になってしまった。

 本当はもっと自信を持ちたい。

 できるようになりたい。

 言いたいことを言えるようになりたい。

 やさしくなりたい。

 イズは特別を望んでいるわけではなかった。ただ、普通のことを普通にしたかった。

 でも、上手くできない。その、できない苛立ちや悲しさを香乃に向けてしまった。関係のない香乃に、理不尽な感情を向けてしまった。そのせいで、香乃に謝らせてしまった。

 違うんだ。香乃は何も悪くないのに。

 言うべきこと。言いたかったこと。どちらももう届くことはない。

 香乃は別れ際に、焚き火のことへ礼を言っていた。

 それすらもイズにとってはつらい言葉だった。なぜならば、この焚き火はイズが作ったものではないからだ。火を吐くのは大抵の者はできるし、イズも昔はできていた。しかし、外との接点をなくした今では、火の吐き方を忘れてしまった。

 できないことはいまだできず、昔できていたことも今ではできず。

 普通の者なら簡単にできることを、イズはできない。

 こんな自分をどうにかしたかった。どうにかしたいと思っているのに、どうすればいいのか分からない。変わりたいと願うのに、その方法を知らない。そんな自分が嫌だし、怒りたくなるし、悲しくもなった。自分を蔑む感情を延々と繰り返すうちに、自分は存在していていいのかと自問する自分が生まれたことも嫌になった。


 こんなことを考えているなんて、誰が思うだろうか。

 こんな隅っこにいる僕を、気にかける者なんかいるのだろうか。

 気にかけたところで、この気持ちが分かるのだろうか。

 いや、とイズは自分で否定した。

 いるわけない。自分なんかを気にかける者なんて、いるわけがない。

 気にかけたところで、自分の気持ちなんて分かるわけがない。

 そういうことだ。誰だって自分以外の者の気持ちなんて分かるわけない。

 僕の気持ちなんて、分かりっこない…!


 イズは焚き火に淡く照らされながら、一人溜息をついた。




 溜息をついた直後、背後のほうで足音が聞こえた。音に過剰に反応したイズは、出入り口に立っている人物を見て再度驚いた。

 そこにいたのは、寒そうに体を震わせている香乃だった。

 体をぶるぶると震わせ、両腕で自分を抱きしめるようにして寒さをこらえている。髪の毛は見て分かるほど乱れており、寒さで歯はかちかちと音を鳴らしている。


「火」


 香乃が震える声で言った。


「…え?」


「だから、火!」


 どこかの重役が下っ端に煙草の着火を求めるように端的に要求するやいなや、香乃は仏頂面でずかずかと部屋の中に入り、息を荒くしたままイズに背を向ける形で焚き火の近くにしゃがみ込んだ。

 体を小さく丸めて自身の体温を逃がさないようにしつつ、焚き火からの熱で体を温めようとしている。少しでも熱を取り込もうと、手の平を焚き火に翳して熱を得ようともしていた。


 呆気に取られていたイズは、香乃に訊いた。


「…ど、どうしたの?」


「どうもこうもないよ!」


 イズのおっかなびっくりな質問に、香乃は背中を向けたまま牙を剥いたように返した。


「何あれ!他の建物は遠くにあるけど、外に出てもヘリポートみたいな足場があるだけで、道なんかどこにも無いじゃない!どうりで暗いと何も見えないはずよ!道なんて始めから無いものね!おまけに冷たい風がめちゃくちゃ吹いてるし!何よここ北海道か!それとも群馬か!かかあ天下とからっ風か!」


 寒さが抜けず震える声のまま、香乃は不平不満を吐き出した。


「それは、まあ…。僕たちは飛べるから陸上の道なんて必要ないし。あと、この辺りは建物と地形の関係でちょっとだけ風が強いんだけど…そんなにつらかった?」


「ちょっとどころじゃない!強すぎよ!壁に手を付いてないとまともに歩けなかったのよ!?」


 イズにとってはそこまで影響する風力ではないのだが、人間代表の香乃にとっては冷たさも相まって風地獄だった。

 怒りの収まらない香乃の様子に、イズは反省した。一人で外へ行くように促したのは他でもないイズだ。外の環境が香乃のような人間にとって過酷な条件だということに気を回せなかった。幸いにも怪我はないようだが、香乃の害された気分はイズの責任だと思った。


「…その………ごめんなさい。僕が行けって言ったばっかりに…」


 イズは謝った。罵られてもおかしくない。何を言われても受け止める責任がイズにはあると自負していた。

 しかし、香乃の返事はイズの予想を裏切るものだった。


「どうしてイズが謝るの?私が勝手に出ていったのに」


 いつの間にか首から上だけをイズのほうへ向けていた香乃は、先程とは打って変わって穏やかな声色で聞き返した。

 ついさっきの怒りの延長で怒られるだろうと踏んでいたイズは、用意していた覚悟をどこへしまえばいいのか戸惑いながら理由を答えた。


「…だって、最初に僕が外へ行けって言ったんだし、カノにとってそんなにつらいだなんて思わなくて…」


 イズはぼそぼそとした小さな声で答える。

 返事を聞いた香乃は、焚き火へと視線を戻して頭を振った。


「怒ったのは、イズが憎かったからじゃないよ。自分の行動と自分自身にムカついていただけなの。ただの愚痴のつもりだったんだけど、嫌な気持ちにさせたのなら私こそ悪かったよ」


 イズからは香乃を斜め後ろから見ている位置になるので、香乃の横顔しか見えない。しかし、揺れる炎を写すその瞳は今まで見たことのないような慈悲深さに満ちていた。

 思わず見取れてしまったイズは何か返事を返さなくてはと、言葉を探した。だが、返事の内容を考えては自分で破棄し、さらには焦りによって上手い言葉が思いつかなくなる。その間、イズの口からは「あの…」とか「…ぅ」とかいう言葉とも取れぬ声が漏れていた。たった一言の返事さえできない、そんな自分がイズは嫌になった。


 イズが返事の内容を熟考しているのに対し、香乃は返事を待たずに喋り始めた。


「私ね、いつもこうなんだ。自分の中で描いている理想が現実と違っちゃうと、どうしても嫌な気持ちになるの。仕事とかならなんとか割り切れるものはあるけど、私生活だとなかなか上手くいかなくて…。それで、嫌な気持ちになると、誰かに一方的に怒ったりして…」


 この世界に来てから聞いたことのない香乃の静かな声に、イズは聞き入っていた。


「実はね、この世界に来る直前に、恋人とケンカしちゃったんだ。彼は真面目だし、頭もいいし、何よりもやさしいの。私のことを一番に考えてくれているって、そう信じられた。こんな私には本当にもったいないくらい、いい人。…それでね、今日、私の誕生日なの。彼も祝う準備をしてくれててね。私は晩ご飯が待ちきれなくなって、いつもよりも早めにご飯にして。…でもね、そこで、来週から彼が仕事で出張に行くことを聞いたの。出張っていうのは、住んでいる場所より遠くに行って仕事をしに行くことね。何日か、場合によっては何ヶ月も行くの。それで、彼と離れ離れになるのが嫌だったから、私は彼に一緒に行きたいって言ったの。そしたら彼ね、『香乃まで来ることない』って言って…。今思えば、それは私に対する気遣いだったと思う。やっぱり遠くに住む場所を変えるのって環境も変わるから大変だっていうし。でもね、私、その時ね、彼の気遣いに気づかなくて、なんだか遠ざけられたような気持ちになっちゃって、『そんなに私といるのが嫌なの?』って怒って、勢いで部屋を飛び出ちゃったの」


 まだ香乃の震えは続いている。

 それが寒さのためかそれ以外かは、誰も知らない。


「私が怒った時の、彼の顔、はっきり覚えてる。すごく悲しい目をしてた。彼を信じているなら、彼の決めたことを受け入れてあげるべきだったのかもしれないね…」


 自らを抱きしめている香乃の腕に力が入る。


「本当はそんなこと言いたくなんかなかった。怒りたくなんかなかった。彼と一緒にいられればそれで良かったのに…。でも…もう…」


 そこまで話して、香乃は膝に顔を埋めた。すすり泣く声がくぐもってイズに聞こえる。


「もう彼のところには帰りたくないって思ってた。私から戻るのはきまりが悪い気もして、自分から戻ることはないって決めてた。でも、なんかこの世界に来てひどい目に遭うたびに、真っ先に彼の名前が思い浮かぶの。彼の顔が思いつくの。そしたら、なんであんなこと言ったんだろうって思って、なんで飛び出てきちゃったんだろうって、それしか思えなくて………もう…やだぁ…!」


 香乃はぼろぼろと涙をこぼした。


 こんな時、何を言えばいいのだろう。

 イズには地球人の恋愛観など分かるはずもなかった。

 それでもイズは必死で考えた。香乃に何かを言えばいいのは分かっている。でも、何を言えばいいのかが分からない。何を言えば香乃が喜ぶのかが分からない。何を言えば香乃がつらくなるのかが分からない。

 分からない。わからない。ワカラナイ。

 どんなに考えてもイズには言葉が導き出せなかった。こんなに考えているのに、こんなに香乃は悲しそうなのに、何もできずにただ見ているだけの自分が腹立たしかった。

 悲しそうな顔。こぼれる涙。あふれる声。

 そんな様子を見て、イズは一つだけ理解できた。

 香乃は今、すごく後悔しているっていうこと。

 そして、イズは思った。友達から痛烈な真実を聞いたあの日の自分は、きっとこんな姿だったのだろうと。


 香乃はずっと泣き続けている。イズもまた、いい言葉が思いつかないでいる。

 しかし、イズは少しだけ違った。

 香乃に何と言えばいいのかは分からない。気持ちだって充分に分かっているわけでもない。それでも、イズは今の香乃に“何か”をしたいと思った。あの日のイズはこの時に他者のとの関係を断ったことで、自信を持てない他者嫌いで自分嫌いのイズが出来上がってしまった。このままだと、香乃まで同じ道を歩むことになるかもしれない。

 でも、今の香乃ならまだ間に合う。イズが“何か”をすることで、イズのようになることを避けられる。

 “何か”とは何か。イズはまだ分からない。どんな言葉をかければいいのか、いまだに思いつかない。

 だが、自分にできることはそれだけではない。今の自分にできること。イズはそれに懸けることにした。


 イズはその巨体をゆっくりと動かして、香乃の傍に歩み寄った。

 一歩一歩近づくのさえ、なぜか緊張した。

 口の中がどうしても乾いてくる。

 本当は怖い。

 失敗したらどうしようって、香乃に嫌がられたらどうしようって、何度も何度も後ろ向きな予想が思いつく。

 しかしイズは近づいた。

 たった一つだけ思いついた、今のイズにできる、イズなりの“何か”をするために。


 イズは香乃の隣に行くと、その大きな手で香乃を持ち上げた。イズにとっては香乃の体は掴むのに難しくなかった。

 いきなり掴み上げられた香乃は一気に困惑した。


「ちょっ…えっ?えぇっ!?」


 慌てふためく香乃は、訳が分からないので訳を持っているはずのイズに問い詰めた。


「ちょっと、イズ!何するのよ!」


 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を隠したくても両腕ごと掴まれて身動きができない香乃は、絞り出したような声で言った。

 それに対してイズは表情を変えずに、無言のまま香乃を自分の背中に下ろした。

 あっさりと拘束が解け、ついでに今いるポジションの意味が理解不能の香乃は、やっぱりもう一度訳を聞くためにイズに訊いた。


「ねぇ、どうしたの?何か言ってよ…」


 さっきまで泣いていたせいか、香乃のいつもの勢いが続かない。イズにはそれが不安がっているように聞こえた。


「空、見に行こう」


「え?」


「今度はちゃんと僕が案内するから。カノに、もっとこの世界を見てもらいたいんだ。…気分転換も兼ねてさ」


 たぶん訳を説明された香乃は、一瞬呆気に取られてしまった。

 いきなり掴み上げるという非常識なことをされた放心感。極端に消極的なイズが自分から起こした行動。さっきまで泣いていた自分に対する、どこかそぐわないような提案。

 考えれば考えるほどおかしい点が思いつくイズの言動だが、おかしいだけではなかった。

 イズの少し強ばった声色に、彼なりの思いやりを感じた。不器用な彼なりにしてくれようとしている、香乃のためにしようとしてくれている思いやりを感じた。

 泣き崩れてしまっていた自分のために動こうとしているイズに、香乃は嬉しさと感謝の気持ちでいっぱいになった。



「あー、あのさ、私ついさっき外で凍えてきたんだけども?」


「大丈夫。この辺りの風は地形と気候のせいなんだ。これくらいだったらずっと昔からこのままだよ。もっと強い日もあるし」


「いや、そうじゃなくてね、私は寒さで凍えそうなのを心配しててね?」


「風向きには気をつけるから大丈夫。追い風に乗って飛べば、そんなに風を感じないはずだから」


「そーじゃなくてね?単なる気温について心配しているんですよね、私は」


「…大丈夫、大丈夫」


「いやー、そんなにダイジョウブを連発されたら余計に不安になるからね?あと一瞬迷ったでしょ?」


 香乃とイズは離陸前に妙なやりとりを行い、香乃が観念して事なきを得た。


「いい?しっかり掴まっててね。カノの力なら首にしがみつかれても平気だから。あと翼には触れないように。怪我しちゃうから」


「うん。じゃあ、よろしく」


 香乃は頷き、イズの肩あたりにある凹凸に上手くしがみつく。

 イズは飛び立つ前に、自分の翼を軽く動かしてほぐしている。

 イズにとって、空を飛ぶのは久し振りだった。食事は部屋にいてもかろうじて摂取できたので飛ぶ必要がなかった。そのため、上手く飛べるか、それどころか飛び立てるかどうかも不安を消しきれなかった。

 もし飛べなかったら、香乃に何と言えばいいだろう。香乃はどんな気持ちになってしまうのだろう。

 傷つくだろうか。涙を流すだろうか。

 否定的に走る思考を、イズは自ら振り払った。

 できるかどうかではない。やるんだ。昔はあんなに飛べたではないか。思い出せ。感覚を思い出せ。自力で飛べることを喜ぶあの頃の気持ちを思い出せ。友達の顔が思い浮かぶ。友達が羨望と嫉妬と優越の感情を込めて、イズを睨みつけている。イズは彼ほど出来が良くない。彼のようにはできない。何をやっても上手くいかない。だが飛ぶことはできる!これしかできなくなったけど、友達よりも先にできるようになったことを見せてやる!後ろめたい気持ちになったイズだが、挫けそうになった気持ちを立ち上がらせた。

 イズは翼を一度大きく羽ばたかせた。


「行くよ、カノ」


「いいよ、イズ」


 イズは一度体を縮ませ、両足に力を込めて真上に跳躍する。同時に空気を掴むように全力で翼を動かす。途端、体が一瞬だけ浮いたような感覚になる。力強く羽ばたいたことによって大量の空気が振り下ろされ、イズの部屋に突風が吹き荒れた。カノは振り落とされないようにしっかりイズに掴まった。イズは何度も両翼を動かし、浮力を生み出し続ける。体を温めてくれていた焚き火が小さくなっていく。


 一人の人間を乗せた一頭の天竜は、幾千もの星を持つ夜空へと翔ていった。





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