剣の相手は剣か盾か兵士か
まだ腑に落ち切れていない香乃だったが、これ以上難しい話をされては発狂じゃ済まないような気がしたので、言葉の通りに鵜呑みにすることにした。
自分が招待された理由。
それは、何かしらの特別な理由を持つ人物という厳選ではなく、単に手身近な所にいた人物といういい加減な理由だった。
香乃は呆れながら、腰掛けたまま上半身だけ背伸びする。体を弓状に反らせる。背骨とか腕とか肋骨とかのどこかからぽきぽきという音が聞こえた。重心が後ろに傾くが、香乃は構わずそのまま仰向けに倒れ込む。寄りかかられたイズは、やはり居心地の悪そうな顔をするが、断ることもできない上に理由も思いつかないので、結局そのまま動かなかった。
体の筋肉を一時的に緊張させ、そして弛緩させる。一連の簡易リラックス法を済ませた香乃は、落ち着いた気分で一息ついた。
「まさか、そんなテキトーな理由だったなんて思わなかったな…」
「…そう」
イズが素っ気ない相槌を打つ。
香乃は独り言のつもりでいったので主語が抜けていたが、イズはそこも理解しているのだろうか。
イズに確認しようとして、やっぱりやめた。考えれば、間違ってても構わないようなことだ。それよりも、イズがちゃんと返事をしてくれることを喜ぶべきと思った。
イズは面倒なやりとりをするのが嫌なようで、こちらから求めない限り愛想のない返事しか返してこない。どこか変だという印象はまだ抜けないけれど、少なくとも悪い人(?)ではないと香乃は自信を持って印象づけることができた。
小さな風が部屋の中に流れてきた。部屋の天井はないので、外で風が吹けば時々入り込んでくる。風を受けて、香乃は小さく震えた。イズと密着している所は温まっているが、吹きさらしの所はいまだ焚き火の熱だけで温めている。充分に温まっているつもりだったのだが、風が予想よりも冷たいせいか体が敏感に反応してしまう。
焚き火も風を受け、香乃に見つめられながらゆらゆらと揺れる。常に形を変え続け、火の粉を撒き、パチパチと心地の良い音を立てる炎に、香乃は見取れていた。
炎が揺れては消える。激しく、淡く。
火の粉が飛んでは消え、飛んでは消え。
発生と消失を繰り返す赤の光景は、どうして彼を連れてくるのだろう。
火の明かりで仄かに照らされている、はにかんだ彼の顔。
部屋で私に言われた直後の、悲しそうな彼の顔。
思い出したくなくても、ちょっとしたきっかけで思い出してしまう。思い出さないようにしたいのに、そう意識することもつらかった。
いつか、忘れることができるのだろうか。
思い出しても疼くことがない日は来るのだろうか。
どんなきっかけをもってしても蘇らずに済む時が来るのだろうか。
焦点の合っていない香乃の瞳から一滴がこぼれていたのを、焚き火だけが見ていた。
「………帰りたく、ないな…」
香乃が不意に呟いた。
「ずっと、ここにいたい………」
元の世界に帰ったところで、彼と会うかもしれない。今まで嬉しかったことが、今はつらいと、できれば避けたいことに変わっている。会うことが嫌だし、そう思うようになってしまった自分も嫌だった。
でも、こっちの世界にいれば違う。彼と会うことはないし、さっきまで他のことに夢中で忘れることができた。こっちの世界にいることが自分にとっての救いだと、香乃は思い始めていた。
「それ、無理。カノは絶対に帰される」
…傷心に浸っている女の子に、なんて血も涙もないことを言ってくれるかなこのドラゴンは。
冷徹なイズの返事にセンチメンタルさが吹っ飛んでしまった香乃は、いつの間にか流れていた涙を化粧が崩れるのも構わず乱暴に拭い、いつの間にか鼻の中に溜まっていた鼻水もこれまた力任せにすすってクリーンにし、イズに詰めかかった。
「あのね!ちょっとは私の気持ちも察してよ!なんでそんなこと言えるわけ?」
香乃は悲しさが怒りに変換されたように猛々しく言った。それに対して、イズはどこまでも暗かった。
「気持ちなんて知らないよ、そんなの。察しろ、なんて勝手なこと言わないでよ」
イズは呆れたように溜息をつく。
その様子に、香乃はむかっ腹を抑えることができなかった。イズの暗い態度が気に入らないのではない。理解してもらえない悲しさでもない。
少しずつ信頼することができてきた自分の気持ちを軽く突き放せるイズの言い方が気に入らなかったのだ。
「分からなくても、言い方ってもんがあるでしょ!?そりゃ、勝手だったかもしれないけど!」
感情を剥き出しにして抗議する香乃の様子に、イズはさぞ面倒臭そうな顔をする。それが香乃の怒りを助長した。
「いいわよね、イズは!私みたいな悩みがなくて!どうせ呆れてるんでしょ!面倒臭い女だって思ってるんでしょ!でもね!私にとっては大事なことなのよ!つらくて堪らないの!イズなんかに分かるわけない!」
起こり続けるうちに、香乃は泣いていた。悲しい。嫌だ。どうしてこんな。そればかりの感情ばかりが湧き上がってくる。
香乃の思いつくままに発せられた怒りをぶつけられたイズは、暗い表情をさらに沈ませる。
そして、そっぽを向いてしまった。
「…そうだよ、分からないよ。どうせ僕は駄目だから」
イズはそっぽの方向に溜息を漏らした。表情が見えないのに、どれだけ沈んだかが分かるほど暗い雰囲気になった。
香乃はイズの変化を目の当たりにして、「しまった」という気持ちに駆られた。感情的になっていたとはいえ、少し言い過ぎたかもしれない。
反省しながら、香乃はイズに話しかけた。
「あの…イズ?」
「…もう、僕のことは放っといて」
イズが明確に拒絶した。
「…まだ何かあるんだったら、もういい加減に向こうへ行ったほうがいい。それじゃ」
低く押し殺した声と共に、イズは短い別れの言葉を告げた。
香乃はいっそう悲しくなった。傷つけるつもりはなかった。怒りたくて怒ったのでもなかった。
ただ、聞いてほしかっただけなのに。
「―――」
言いたかった言葉を、香乃は飲み込んだ。伸ばしそうになった手を、静かに下ろした。
違うのに。
自分が言いたかったことは、こんなことじゃないのに。
伝えたい言葉を言うべきなのに、イズの悲しい背中を見ていると、何を言っても届かないような気がしてしまった。
どうして、こうなってしまったんだろう。
自分が望む理想に反して、現実は上手くいかないばかり。
相手にしてほしかったこと。自分に対して気にかけてほしかったこと。
求めたばっかりに、相手が傷ついていく。
どうして、私はこうなんだろう…。
香乃は立ち上がり、イズから離れた。これ以上、イズに触れているのが申し訳なく思えた。自分と離れているのが彼のためだとも思えてきた。
一方、イズは自分に腰掛けていた香乃が離れたことに、煩わしい存在はいなくなった安堵と、温められていた体の一部が冷めていく感覚に知らない感情を覚えていた。
その感情が寂しさだと、イズは知らなかった。
もうここにいてはいけないのかもしれない。
香乃はイズを傷つけた。図る図らずを問わず、イズに嫌な思いをさせた。そういえば、香乃がイズと会ってから笑った顔や声を聞いたことがない。イズはいつも悲しそうな様子でいて、自分と話すたびに嫌な顔をしていた。
自分といると相手は傷ついてしまう。
香乃は自分の存在がそう思えてしまった。
錯覚なのかもしれない。嫌なことが連続して起きてしまったための思い込みなのかもしれない。でも、目の前で起こした事実だけが香乃に突き刺さり、否定することができなかった。
香乃は通路に続くとイズが言っていた出入り口へ向かった。出入り口の向こうの通路は暗くてよく見えない。でも、行くしかなかった。それが香乃の取るべき選択なのだから。
出入り口をくぐる直前に、香乃はイズへ振り向いた。イズは微動だにせずそっぽを向いて、ずっと暗い様子でいた。そんなくらい様子にした原因は自分なのだと香乃は自覚し、胸が痛んだ。
「ひどいこと言ってごめんね。そんなつもりじゃなかったの。焚き火、あったかかったよ。ありがとう。…じゃあね」
手遅れなのを分かった上で、香乃は別れにねぎらいを込めた。イズに聞こえてはいるだろうが、彼は振り向きもせず、ずっと向こうを向いていた。最後くらいはちゃんと顔を合わせてお礼を言いたかったのだが、それも叶わないようだった。
香乃はありったけの後悔に胸を痛めながら、暗い通路へと姿を消した。
再び部屋に吹き込んできた小さな風が、イズの体をそっと撫でた。
前章について評価・感想を出していただいた方、ありがとうございます。
その方から、読点が「、」が「,」になっていることを指摘していただきました。横書きで読むことを前提に考えていたので「,」のほうが自然かと思ったのですが、それは私の勘違いだったようです。この章からは「、」で統一させていただきました。
読んだ人にとって良い娯楽になれるよう、これからも練習していきます。感想がありましたら、どうぞ遠慮なく書いていただければと思います。




