常識という名の壁
イズとコミュニケーションが取れたことで少し気持ちが落ち着いた香乃は,再び彼の尻尾に腰掛けさせてもらい,改めて今いる場所を見回してみた。
イズが部屋と呼んでいるこの場所は,学校の教室二つ分くらいの広さがある。明かりは部屋の中央で燃える焚き火のみなので一番奥まではっきりとは見えない。
部屋自体は鉄とも煉瓦とも取れない奇妙な材質でできている。堅固さはあるが,触れても不思議な温かみがある。
見上げれば屋根はなく,綺麗な星空とそこに浮かぶ雲が見えた。あれが食料なのだと,普段とは違う視点で夜空を見ていた。
空を見上げまくると体勢的にイズに寄りかかる形になった。特に意識していなかったが,イズの体は温かい。体は細かい鱗で覆われているのか,背中や手の甲のような外側は固めで,逆に腹や手の平のような内側は若干柔らかかった。しかし,全体的に固いと呼べるほどの固さではないが,柔らかさに強い反発力がついたような絶妙な肌触りだ。
要するに,なんだか寝心地がすごくよかった。
「そういえばさ,今さらなんだけど」
香乃は寝てしまいそうになる煩悩を振り払って,イズに話しかけた。
「どうして私が呼ばれたの? なんかさっき心当たりがあるような感じだったよね?」
優先すべき事項が他にできてしまったので,肝心なことを確認しそびれていた。
問われたイズは,分かりやすいくらい億劫そうに首を向けた。
「…訊いてくればいいじゃん」
とりあえず,面倒くさがらずに相手をしてほしいという願いは届かないのだろうか。
さっきから思うのだが,やっぱりこのドラゴンどこかおかしい。なんていうか,こう…根が暗いという印象だ。
元からこんな性格だと言われればそれまでだが,せめて邪険に遠ざけようとするのはやめてほしいものだと香乃は思った。
「そうできればいいんだけど,私そこまで社交性がいいほうじゃなくてさ。君が一番話しやすい相手だから,君に訊いてるの。知らなかったらそう言ってくれればいいし」
遠ざけるような態度の相手の場合,まずは接点を作ることが大事だとかのは身に付いていた。なかでも頼み事をするのが好適だが,“その相手じゃないといけない”のような人選のニュアンスを込めて伝えると効果が上がる。あと,あまり無理強いしないのもポイントだ。
本当は香乃のほうがフォローされたい立場なのだが,この場合は仕方がないと割り切った。
「…僕が知ってるのは,今日が記念日だってことだよ」
イズはぽつりと答えた。
「年に一度,天竜族を集めて記念祭をするんだ。その年の和平を感謝したり,これから先の豊穣を祈ったりして。だけど,いつからか天竜族だけで祝うんじゃなくて,他の種族の人にもこの裕福を分け与えたいって考えが生まれて,別の世界の人を招待することになったんだ。…さっき身の安全は守られるって言ったのは,それが理由だよ」
少し長い説明を終えたイズは,息継ぎを上手くしていなかったのか深呼吸をした。
「…記念祭はだいたい一日で終わる。招待した異界の人も,その日が終われば元の世界に送り届ける。この世界に振り回されるのも今だけだから大丈夫」
細かいところで口下手なイズの様子に注意を逸らされそうになった香乃だが,さらりと流されそうになった箇所について訊いた。
「別の世界の人を招待…って,そんなのどうやるの?」
どうやら異次元に住む人を勝手に連れて来るみたいだが,そんなことどうやるのだろうか。
「普通に。ここから異界に行って,誰かテキトーに攫って,行きみたいに帰ってくるだけ」
「それを説明しろって言ってるの!ちょっとそこのコンビニまでみたいなノリで言われても分かんないよ!」
香乃は思わず強めに突っ込んでしまったが,当の本人は理解できていない表情をしていた。コンビニもローカルネタになるなんて,なんて話しにくい。
香乃がぎゃんぎゃん騒いでいると,イズは当てのない方角へ視線を向け,小さく唸った。
「…香乃は、意識しなくてもできることはある? 呼吸とか歩行とかじゃなくて,例えば何かを使った技術的なもので」
妙な疑問を投げかけられた香乃は返答に困った。
自慢ではないが,香乃は特技といえるものは何も持っていない。計算も記憶力も人並みで,芸術面の技能に至っても無難な平均値を発揮している。
「私,技術なんて何も…」
「高度なものじゃなくても,香乃の世界じゃ常識に入るようなものでもいいよ。文字書きとか移動方法とか」
困惑する香乃に,イズがフォローを入れた。
そういうことならなんとなく思いつく。
「文字書きなら習うよ。国によって習う言葉は違うけどね。あと,自転車っていう乗り物も大抵の人は乗り方を覚えるよ」
常識的なもの,誰もが教わるもの。
自分にとっては当たり前すぎて思いつかなかったものは,イズにとっては…いや,他の世界の住民からすれば立派な技術と呼べるのだと香乃は思った。
当たり前すぎて,イズに持ち上げてもらわなかったら全然気づかなかった。
香乃が暗い顔から明るい顔になって答えるのを見たイズは,ようやくと言いたげに小さな溜息をついた。
「感覚ではそれと同じ。どうやるも何も,僕たち天竜族にとっては当然のようにできる技術なんだ。練習は必要だけど,できるようになればそんなに難しいことじゃないよ」
イズの淡々とした説明に,香乃はやっぱり理解できなかった。次元移動が自転車の運転と同じ感覚っていうのがまずワケが分からない。
あれか?自転車のハンドルを握ってペダルを漕ぐことは異世界に行く時も必要なことなのか?それとも自転車に乗れれば異世界に渡れるのか?そもそも天竜族が自転車に乗るのか?
香乃は翼を使わずに自転車に乗るドラゴンというシュールな妄想を脳内で広げた。
もっとワケが分からなくなった。我ながらバカだと香乃は悔いた。
なんだかもう頭がついていけそうもない香乃は,先程思いついた,今の話題に関連した話題を振った。
「じゃあ,今回みたいに,私の前にも地球人が招待されたことがあるのね?」
それが日本語に精通している理由だと香乃は思った。
しかし,イズは首を横に振る。
「ううん。地球っていう世界から来たのはあなたが最初」
「えっ? じゃあ,なんでこの日本語を喋れるの?」
「最初に言ったけど,同じ言葉を使う異界種族が以前来たことがあるから。話もしたし。ニホンゴっていう名前じゃなくて『カヌジ・ラウ』っていう言語らしいけど,発音も単語もほとんど同じだった」
これがパラレルワールドというやつだろうか。発音も単語も文法も,ほとんど違わない言語が別の世界で使われているという。
香乃はそこまでファンタジーに詳しいほうでものめり込んでいるほうでもないが,自分の国と似たような言語をもつ世界が別の次元にも存在するという事実に感慨深い気持ちになった。
だが,これもどう考えてもおかしい。
「待って。異界の人は今日一日しかいないんでしょ? だったらなんでそんなにすらすらとこの言葉が話せるの?」
香乃は率直に疑問をぶつけた。
言葉は発音を規則的に連ねたものだ。用いられる規則はその言語によって異なることが多い。イズが最初に喋った言葉は少なくとも香乃にとっては聞いたことのない言葉だったから,きっと日本語と似た『なんとかラウ』とかいう言語も発音や文法が異なるものだと考えられる。
発音も文法も異なる言葉を,たった一日で,しかも会話しただけで覚えられるなんてことがあるだろうか。
常識的に考えてありえない香乃の疑問を,イズは常識をもって返答した。
「その人と話したから。会話のやりとりを繰り返せば覚えられるんだ」
香乃は目が点になった。
…なんだろう,この会話になっているようでどこかズレている会話は。
香乃は少しの間口を閉ざして黙考することにした。
イズは,「話せば覚えられる」と言った。つまり,その言葉を使う人と話していれば,単語や発音,文法に至るまで理解が可能で,会話できるレベルにまで習得できると,そういうことだろうか。
…なんだその,英語が苦手でテストに毎回苦しんでいる日本学生に喧嘩を売られそうな道理は。
香乃は痛んできた顳顬に手を当てながら,イズに見せつけるように手の平を向けた。いわゆる“ストップ”のジェスチャーだ。
「イズさんや,ちょっといいかい」
「…なに?」
「話していればその言葉を覚えられるって,本当に?」
「本当」
「そっかそっか,ほんとうかー。………って」
香乃は我慢できなくなった。
「そんな理由で納得できるかーーーーー!!」
香乃の気合いの入った雄叫びに,イズが仰天した。
「なにそのパターン?聞けば覚えるってどんな理屈よ?君の頭ってどうなってるのよ?理屈って何よ?君達って一体何なのよ?」
「カノ,ちょっと落ち着いて…?」
一番手身近にある竜の体をばしばしと狂ったように叩き始めた香乃を,イズは戸惑いながら制止させる。
「説明を要求する!私は納得のいく説明を切望する!」
「分かった,説明するから。もう…」
イズは至極面倒だと思っていた。極端な環境にも早い段階で順応する心の強い女性だと思っていた。少し考えれば,最初こそ叫んだものの,そのあとはよく落ち着いていられたように思える。だが,わざとらしくも見える狂い方をされると誰でもいいから助けてほしいと思えてくる。そんなことは起こらないのに。
イズは香乃をなだめようと,翼を少しだけ広げ,器用に翼膜の柔らかいところで香乃を包むように覆った。そのあと,手の甲で彼女の体を撫でた。イズの手には爪があるので,それで怪我をさせないように気をつけた。
「あ…ご,ごめん………」
冷静さを取り戻した香乃は,気遣ってくれたイズに礼を言った。
思えば,ここに来てからイズには世話になりっぱなしだった。混乱する自分を何度も落ち着かせようとしてくれている。
勝手に連れてこられたんだから良い待遇をされるのは当然だと思っていた自分が情けない。もっとしっかりしなければと改心した。
イズは香乃の様子を見て,改めて説明した。
「さっきの技術の話と似るけど,カノにとって当たり前のようにできることがあると思う。さっきの…ジテンシャだっけ?そういう“最初はできなかったけど練習したらできたこと”じゃなくて,いつの間にかできるようになっていたことがさ。例えば,カノの場合,両足を使って地面を歩けるよね?それと同じように,僕たち天竜族にも,いつの間にかできるようになっていたことがあるんだ。その一つが情報分析力ってこと。外部から手に入れた情報を無意識の領域で解析できるんだ。それを応用して,結果として言葉を覚えられるわけ。分かった?」
香乃は答えた。
「全然分かんない」
「えー…まだ?」
イズは顰蹙した。
「だって,言葉を使うにはそれなりの記憶力も必要でしょ?でもイズの説明だとそこまで記憶力が高くはないみたいだし。それに,無意識に分析できるっていうのもなんだかさっぱりだもん」
確かにそれも一理あると,イズは思った。
しかし,それは香乃にとっての常識に従って考えた場合だ。そろそろ世界と共に常識も違うことを受け入れることができればもう少し苦労はしないだろう。
イズは香乃が持っている情報をなんとか利用して説明した。
「カノも,そのニホンゴっていう言葉を無意識に使っているでしょ?最初はきちんと練習したかもしれないけど,今じゃ言葉を使おうとする時に無意識に思いつく言葉だと思うんだ。確か,カノの世界だと他にも言語があるんだよね?いろんな言語があるなかで,カノは自動的に思い出せるのがそのニホンゴなんだと思う。一番慣れた言葉だと,使うのに最低限の記憶力しか必要としないんだ。僕たちは言葉を聞いて理解してしまうから,その言葉を使うのに必要最低限の記憶力しかなくていいわけ」
カノの反応が芳しくないが,イズは構わず続けることにした。
「あとは…無意識の補足だけど,カノはジテンシャっていう乗り物をいつでも乗れる自信はある?」
「そりゃあ,まあ…」
「それはどうして?」
「どうして…って,一度覚えたら忘れるようなものじゃないからよ。なんかこう,体が覚えてるっていうのかな」
「じゃあ,“カノは無意識に自転車に乗ることができる”って言えるんじゃないかな」
「まあ…そうね」
飲み込めてきたカノの様子にイズは若干安堵して,説明の仕上げに入った。
「それとおんなじだよ。カノは無意識の領域で自転車に乗れるように,僕たちは無意識の領域で言葉を理解して使えるようになるんだ。分野は違うけど,お互いにできることとできないことが根本的に違うだけで,そういうふうにできてるだけ。分かった?」
イズは確認の意思を求めてきた。
理屈は相変わらずむちゃくちゃだとは思う。だが,それは香乃の常識で考えた場合だ。イズも言っていたように,ここは違う世界で,ものの在り方も根本的に違う。自分の常識や先入観にいつまでも囚われていてはいけないのだと香乃は思った。
「…なんとなくだけど,なんとか」
香乃の納得の意志を聞いたイズは,今度こそ安堵した。
同時に,もうこんな長い説明をするのは嫌だと心底思った。




