途中でやめた積み木
自分がどれだけ小さな存在か知ることができた。
今回の外出で、それが分かった。それだけ分かれば、もう充分だった。それ以上なんて分かりたくもない。
香乃はシルゼーロマに案内されて、集落の中でも一際大きい住家に来ていた。
中の空間は広かった。できるだけ多くの天竜族が入れるようにと考えた結果なのだろうが、だいたい公立体育館八つ分は下らない広さを持っている。
その建物は組織が集まるために利用しているものなんだそうだが、場合によっては天竜族全体の集会場としても使うらしいと説明された。
案内された理由は、これから異世界人である香乃を交えて祭を催すそうだ。忘れていたが、香乃はそれに強制参加させられるためにこの世界に来ているのだ。
今は集会場の奥間に案内されている。天井は相変わらずぽっかり開いていて、時折風が吹き込んでくる。壁も同じく石や土に似たようで異なる材質をしている。床にはタンブルウィードのような枯れ草が敷き詰められており、座っても温かかった。
「俺らは地べたに腰を下ろすのが普通なんだけど、カノさんみたいに何かに腰掛けたり肌が固くない種族もいるからね。少しでも苦痛が和らぐように、こうさせてもらっているワケさ」
というのがスラスタハルから聞いた理由だ。
標高の高い山にこういった植物が育つものかと疑問に思って訊いてみたが、この世界では普段から繁殖しているとのことだった。
香乃の世界で高山といえば、冬季の積雪と平均気温の低さ、一日の最高気温と最低気温の温度差が大きいこと、風が強いこと、貧弱な養分の土壌、陽射しが強く特に紫外線が多いこと、など多くの点で植物の生育には厳しいことが多い。
様々な要因があるために、高山植物といえば草本が思いつきやすい。樹木は育たないことはないが、地面に沿ってクッション状に育つことが多い。
しかし、スラスタハルから聞いた話ではそれらの特徴が一つも当てはまらない。つくづく地球の常識が通用しない世界だと思った。
スラスタハルは香乃の目の前でお尻を付いて座っている。他の天竜族も同じようにしている。彼等の体格の関係からそれが一番簡単で楽な座り方なのだろうと思った。
陸猩族との追走戦から無事に戻った香乃達は、ひとまず休憩を取らせてもらうことになった。そして、気分が落ち着いたら祭を開催しよう、と提案してくれた。
正直なところ、香乃の疲労はとても溜まっていた。前触れもなく異世界に連れて来られた上に、その世界のいがみ合いに巻き込まれ、命の危険にも晒されたのだから。
久しぶりに訪れた安寧に、香乃は遠慮する気持ちを二の次にしてくつろいだ。
体が休憩できているぶん、意識は思考に集まっていく。
そういえば、と香乃は気になったことを尋ねたくなった。
「あの、スラ……スラ?スハ?」
「ス・ラ・ス・タ・ハ・ル。覚えにくくて悪ぃね」
「い、いえ、私こそ覚えが悪くてごめんなさい!」
出だしに失敗した香乃は改めて質問する。
「スラスタハルさん、先程よりも身長が縮んでいる気がするんですけれど、私の目が悪かっただけでしょうか?」
香乃の他人行儀な話し方にスラスタハルは指摘を入れる。
「俺のことも呼び捨てでいいぞ。……カノさんは正しいよ。今の身長が元々で、さっきはでっかくなっていたんだ」
「でっかく、って天竜族ってそんな能力まであるんですか?」
天竜族は一対の翼で飛ぶことができ、灼熱の火を吐き出すことができる。
また、他文化の言語でも一度聞いただけで理解し、駆使することができるほどの知的能力まで兼ね備えている卑怯くさい性能持ちだ。
その上で、体の大きさを自由に変えられる能力まで持っているのだろうか。もしそうなら、この世の造物主とやらを即座に正座させてお腹が減るまで説教したい。
香乃がこの世の理に三白眼を向けていると、
「ないない。さっきのはこれを使ったんだ」
そう言って、スラスタハルは手元から何かを取り出した。
自分さえいなければ、こんなことにはならなかっただろう。
香乃を元気づけてあげたい。そんな一時の衝動で行動してしまった結果がこれだ。
せめて香乃に被害がこないようにと願ったけれど、それは叶わなかった。怪我をさせ、怖い目にも遭わせてしまった。
彼女が掴まった時、自分は必死で助けようとした。助けるために、自分はどんなことをしてしまったのだろう。
たくさんの陸猩族を傷つけ、たくさんの住居を燃やしてしまった。彼らの暮らしを脅かしてしまった。
そんなつもりはないと弁解したくても通じはしない。暴れたのは紛れもない自分自身なのだから。
途中でシルゼーロマが止めに来てくれたけれど、自分は邪魔する者を退かせようと彼女までも傷つけようとした。大切な親友でさえ、傷つけようとした。
あの時の自分は頭に血が上っていて、彼女の考えが分からなかった。たったそれだけの理由で、自分は手を出したのだ。
なんて浅はかなのだろう。
なんでこんなにも馬鹿なのだろう。
そんな自分をシルゼーロマは見捨てず、一緒に抱えて陸猩族から逃げてくれた。
攻撃もされたし、何度も危険な目にも遭ったし、最終的には怪我もした。
これだけ迷惑をかけて、彼女は怒っているに決まっている。怒らない理由があるなら教えてほしい。
自分がその時だけの気まぐれで行動したから、これだけの惨事になってしまった。
たくさんの同胞に迷惑をかけた。父親にも親友にも心配をかけた。これだけのことをしておいて、自分は一体何をした?
誰かのために尽くせたのか。香乃のため?それは自分の本心なのか?
誰かのためにしたいと思っていても、結果は危険に晒しただけだったではないか。
誰かのために何かをしたいと思うことは、所詮自分の感情を満たすだけの勝手な衝動だ。
そうであることを今回痛感させられた。
実力が伴わなければ、やろうとすることは全て間違いなのだ。誰かのためだからといって、何かをしたいと願うことも許されない。
それを今回思い知らされた。
何かを望んではならない。
何かを満たすことも許されない。
それが、自分のような存在の在り方なのだ。
スラスタハルが取り出したのはガラス玉のような小さな物だった。透明に透けるそれは宝石のような光り方をしており、部屋の篝火の明かりを受けると中で複雑に乱反射して虹色を見せる。
プリズムのような視覚効果を見せるそれを、スラスタハルは手の平の上でころころと転がす。
「こいつは『幻現』っていう、一種の鎧なんだとよ」
香乃の手でも収まるほどの小さなそれが、戦闘で使われる鎧だという。今ひとつ飲み込めなかった。
「これを身にまとって、なりたい姿を思い浮かべる。するととこの鎧が感知して、思った通りの姿になれるんだ。体を大きくすることもできるし、別の誰かの外見になることもできる」
香乃が釈然としないでいると、「まあ、見たほうが早いだろうな」スラスタハルはおもむろに幻現という名の鎧をつつく。
すると、ガラス玉ほどの大きさからサッカーボールほどの大きさまで膨れ上がった。
球を形作るそれの表面から極薄の膜が何枚も開いていく。
透けるような膜が幾重にも重なってガラス玉になっているようだ。
薄い膜は不規則に見える規則的な順序でスラスタハルの体を包んでいく。
香乃が見取れている間に、幻現はスラスタハルの体を隙間なく包んでしまった。
「あとは、どんな姿になりたいか念じるんだ。幻現はそれを読み取って、想像した姿を現実にしちまうんだよ」
説明するや否や、スラスタハルの体が大きくなっていく。香乃が自分の目を疑っている間に、スラスタハルは巨大化していた。
香乃が見上げるほどの大きさになりながら、スラスタハルは両腕を広げ、手を閉じたり広げたりしている。
「幻現の凄いところは、かりそめの姿になっても感覚が反映されていることだな。物を掴むこともできるし、温度も分かる。俺達はたくさんの世界の文化に触れてきたけど、間違いなく高水準の技術じゃねえかな」
幻現を発明した世界を褒めながら、スラスタハルは元の姿に戻った。瞬きしている間に起きた一瞬の変化だった。
香乃の生きる時間の中にはたくさんの異世界があり、それぞれが異なる文化や文明を持っている。天竜族のいるこの世界に来たときにも思ったことだが、香乃は文字通り世界の広さを知った。
「ただ救援に来られるだけでしたら、わざわざ巨大化しなくとも良かったのでは?」
シルゼーロマが腑に落ちない様子で意見する。
それに対してスラスタハルは自信の笑みを浮かべて答える。
「ふっふっふ、分かってねえなシルゼーロマ。相手を圧倒させるのには見た目から出る威圧感ってのも大事なんだぜ?」
「外見の問題でしたら、数で圧倒するだけで充分だったかと」
「そうじゃないんだよ。要はアレだ、ロマンだよ。男なら誰しもが夢見る浪漫砲だよ」
「言葉の意味が解り兼ねます」
「知らねえのかよ。しょうがねえ、俺が直々に教えてやるよ。いいか、ロマンってのはな、男が許される夢の中にあってだな、静かに、そして煮え滾るほどの情熱を注ぎ込む価値のある、正義も邪悪も兼ね備えた伝説の、」
「すみません、カノさん。お耳が腐る前に黙らせますので」
「いえ、お構いなく。どの世界でも男って同じなんですね」
「おいおい、二人揃ってそりゃないんじゃねえの」
スラスタハルは豪快に笑う。それに釣られて、集会の場には笑い声があふれた。
香乃もくすっと笑ってしまった。
しかし、笑いたい気持ちは一瞬で消え去った。
ずっと気になっていたことがあり、それのことを思うととても笑う気分にはなれなかった。
「……あ、あの」
香乃の笑いのない一言に、スラスタハルたちの笑い声が止まった。
その場を悪くしたとは思う。でも、今は何よりも優先したいことがあるのだ。
「あの、イズの様子は、どうなんですか……?」
たった一言は、その場を沈下させる。
現在最も触れにくい話題だった。
しかし、香乃は踏み切った。どう考えても無視できない話だからだ。
全員が何も喋り出しにくそうとしている中から、スラスタハルが代表として話し出す。
「俺の倅のことは気にしなくていいぜ。普段からあんな感じだしな」
「そんなこと言われても気になります。イズはこの世界に来てからずっと一緒にいてくれた恩人ですから、無視なんてできません」
「そう言われてもなあ……」
スラスタハルは困った様子で頭のてっぺんを中指でぽりぽりと掻く。
「確かに私はまだこの世界に来て間もない、事情の知らない他人です。でも、どうしようもない事情こそ、私には知らないことです。目の前にある問題を見逃すことなんてできません」
「しかしだな……」
「イズはちゃんと話せます。ちょっと臆病だったり、すぐに落ち込むことはあるけど、それは彼なりに考えた結果が見えているだけです。……私は、さっきイズに拒まれてびっくりしました。それはひどいことを言われた悲しさのせいじゃありません。自分のやさしいところを言葉に出せないだけの彼が、私を絶対に傷つけると分かりきっている言葉を使ったんです。どうしてそういう気持ちになったのか、彼なりの理由があるはずです。……なのに、どうしてイズを決めつけるんですか?」
香乃の剣幕に、スラスタハルは黙っていた。
「たとえ今のイズが昔から変わらないのであっても、今のイズの様子に問題がないだなんてどうして思えるんですか?あんなにつらそうな顔をしているのに、おかしいと思わないんですか!」
「思ってるさ。こんなでも親だからな」
スラスタハルは落ち着いた声で答えた。だが、その表情は今まで見たことのない、悲しい表情をしていた。
「あいつが閉じこもり始めた頃から、ずっと気になってたんだ。けど、育児は女房に任せっきりで、今まで仕事一筋でやってきたから、どう接すりゃいいのかわかんなくなっちったんだよ。まして、閉じこもっている奴に対して、なんて声をかけりゃいいのかなんて……」
「だからって、ずっとイズを独りにしてきたんですか?」
「そんなつもりだったわけじゃねえよ。俺が直接言いに行こうとしたことも何度かあったさ。でも、あいつは耳を貸そうともしなかった。つらい気持ちがあるなら、ある程度時間をかける必要があると思って、気長に構えることにした。いつかあいつから動き出してくれるって期待も込めてな。……好きなように生きてほしいと願ってはいたけど、諦めた生き方をしてほしいと思ったことはねえよ」
スラスタハルは自分の不甲斐なさとどこにぶつければいいのかわからない怒りを込めて、苦渋の表情を浮かべた。
スラスタハルの弁解を聞いて、なんて不器用なんだろうと香乃は思った。
本当は伝えたい気持ちがあるのに、肝心の相手が聞く耳を持ってくれない。それはイズだけでなくスラスタハルだってつらいことだ。
では、そんなにまで心を閉ざした理由とはいったい何なのだろうか。
香乃はイズに何か理由があるのだと思っていた。彼をそうまで変えた理由が。
誰もが黙りきってしまった場に、一人が沈黙を破った。
「……少し、お話をさせていただいてもよろしいですか?」
シルゼーロマだった。
「カノさん、私とイズのこと、聞いてもらえますか?」
唐突の降り出しに、香乃は何度か瞬きをした。
「あなたと、イズの?」
昔話のようだが、言われて香乃は思い出した。
香乃はイズの過去を知らない。
何も知らず、イズも話そうとしなかった。
いや、話そうとしていたことがあったかもしれない。ただ、まだ気持ちが充分でなかったり、予期せぬ邪魔が入ったりして、なんとなく機会を逃していた。
「もし、カノさんが宜しければ、の話なのですが……」
イズとシルゼーロマの過去。
今の自分がもっとも知らなければいけない話だ。
本当は本人の口から聞きたかったが、些細なことだろう。この先イズから話してくれるとも限らない。
ならば、開示してくれる瞬間を大切にしなければと思う。
香乃は気持ちを整える。
「是非聞かせてください。イズのこと、少しでも分かってあげたいんです」
ただ単に好奇心に従っているのではない。時折イズが見せる、悲しげな横顔の理由が知りたいからだ。
シルゼーロマから聞かされる話がそれに絡んでいるかどうかは分からない。もしかしたら的外れな昔話かもしれない。
でも、たとえどんな話でも、イズの過去であることには変わりはない。どんな過去でも、今のイズの理由の一つだ。そう信じたい。
香乃の意志を聞き、シルゼーロマは一瞬の躊躇を覚えずにはいられなかった。
なぜなら、今から話す内容は誰にも話したことがないからだ。
自分の両親にもイズの両親にも話したことはない。第三者に話すことで、なんらかの経緯をたどってイズの耳に届くことを恐れていた。
自分とイズしか知らない出来事。
自ら蟠りへと変えた秘密。
可能なら墓まで持っていこうと決めていた話を、今自分曝け出そうとしている。
誠に恥でしかないが、この者には私情で隠しておくわけにはいかないと思った。
香乃なら、必死でイズの味方になってくれた香乃なら、話すべきだと思ったのだ。
「……私とイズトリカムがまだ子供だった頃、私たちは同い年の幼なじみとしてよく遊んでいました」
一言一言に気をつけながら、シルゼーロマは話し始める。嘘も脚色もないように、できるだけありのままを話す。縛り付けていた縄を解いていくように、少しずつ外へと出していく。
「よく遊ぶ仲でしたので、ものによっては時々競争になることもありました。早く来たほうが勝ち、早く食べたほうが勝ち、牙が長いほうが勝ち、背の高いほうが勝ち……。思いついたことなら何でも競争にしていました」
事務的な内容なら饒舌に話せるのに、シルゼーロマの口調はたどたどしかった。自分のことを話すことがこんなにも緊張するものだと改めて知った。
「ある時、イズトリカムは空を飛べるようになっていました。天竜にとって飛行は成人の第一歩だと思っていましたので、子供は自然と憧れるのです。その成人の証に、イズトリカムは私より早く近づきました」
「天竜族は成人に近づくにつれて自然と飛べるようになるのですが、私は、身も心も子供だった私は、彼に嫉妬しました。自分よりも上にいる彼を羨ましく思い、同時に嫉みました。勝負事をすれば勝敗は五分五分であったのに、彼が飛べるようになった事実は当時の私を深い敗北感に陥れました。自分よりも優れた彼を、憎くさえ思いました」
「彼に負けて悔しくなった私は、その日を境に彼と遊ばなくなりました。彼と会うと自分がいかに劣っているか感じてしまうと思って、彼から距離を取りたくなったのです。その代わり、私は自分の能力を高めようと訓練に取り組みました。両親に頼んで、飛び方はもちろん、社会学や心理学など難しい勉強に励みました。イズトリカムに負けたくない、その一心で頑張りました」
「五年ほど経ったある日、彼と久し振りに会う機会がありました。私は様々な訓練をして、いろいろな勉強をして、彼がどのように成長していようとも負けることはないだろうと思っていました。成長した自分を見てほしい、ここまでできるようになった自分を見てほしい、本当にそれだけでした。私の心は子供のままだったのです」
「久し振りに会った彼は年相応に大人びていました。子供の頃の純粋さはそのままで、落ち着きも出ていました。私を見て、ひどく驚いていました。あとで振り返って気づいたのですが、私の体には訓練でできた傷がたくさん付いていましたし、目つきも厳しいものに変わってしまいました。昔と変わった私に、彼はびっくりしてしまったのでしょう」
「彼は私を責めました。どうしてそんなふうになってしまったのかと。彼としては、子供の頃を共有できるような私を期待していたのかもしれません。変わってしまった私を見て衝撃だったんだと思います。私も、彼にそんなことを言われるとは思っていなかったので、同じように衝撃でした。その時もまた、子供の頃と同じように、どちらかが勝ち、一方が悔しがることになるだろうと思っていました。……でも実際は違いました。彼は、イズトリカムは、私と距離を置いてからは勝負や競争なんてしていなかったのです」
「彼に本音に気づいた私は、自分が恥ずかしくなりました。今までしてきた努力が無意味になってしまった。彼に見せるためにしてきた時間が無駄になってしまった。否定されてしまった。独りよがりの気持ちで費やした月日が意味をなくしてしまって、私はやるせなくなりました」
「彼の責める言葉は私をさらに無意味なものにしていきました。自分を否定された気持ち、勝負に固執していた気持ち、それを表に出しても良かったのですが、その時に私の口から何を言っても彼を傷つけるだけだと思いました。だから、自分を否定し尽くさないように、一言だけ言ったのです。“おまえには分からないよ”と」
「その日以来、イズトリカムを外で見かけなくなりました。私は自分のしてきた努力が無駄にならないように、組織へ加入しました。会えない日が続き、そして今日に至ります」
シルゼーロマは長い昔話を終え、一息ついた。
「……私はずっと後悔しています。あの時、イズトリカムにあのようなことを言ったから、彼は心を閉ざしてしまったのではないか。もっと別の言葉をかけてやれば、彼は変わらずに生活できたのではないか。イズトリカムを変えて閉まったのは自分ではないのか。ずっと、ずっと考えているのです」
皮肉な話だと思った。
シルゼーロマはイズに認めてもらいたかったから離れたのに、離れたためにイズの競争心を削いでしまった。
簡単な話なのに、相手は自分が考えていたほど子供のままではなかった。
自分の知らないうちに、少しずつ大人になり、自分とは違う考え方を持ち、それでいて自分のことを案じてくれていた。
シルゼーロマの心境に、香乃は思い当たる節があった。
異世界に連れて来られる直前、香乃は恋人に言った言葉がある。
恋人の転勤が決まったが、彼は香乃が一緒について行くことに反対した。
それに対し、私は彼に言い放った。
私と一緒なのがそんなに嫌なの、と。
住む場所が変わることは、本当は大変なことだ。向こうの地理を覚えなければいけないし、特別な習慣や風習があるかもしれない。
そんな現実が待っているから、彼はただ自分を心配してくれていたのだ。
それなのに、香乃はよく考えもせず、自分の勝手な解釈で不満をぶつけてしまった。
今思えばあの言葉はとても酷いものだった。絶対に彼を傷つけていた。
自分の感情をぶつけてしまったせいで、相手を傷つけてしまった。
同じだ。
香乃とシルゼーロマは今同じ立場にいた。種族の違いこそあるが、同じ感情を持っていた。
ただ、彼と同じところにいたい。壁があっても、競い合う仲でも、それらを一緒に経験して、同じものを眺め、聞き、感じていたい。それだけだった。
ちっぽけな願いかもしれない。しかし、香乃にとってもシルゼーロマにとっても、どんなものよりも優先したいものだと思った。
共感できることが嬉しくもあり、同時に切なくもある。
「……」
こんなにまっすぐな気持ちを抱いているのに、昔からそうだからと言って歩み寄らないのだろうか。
いつか変わることを願うだけで、変える努力はしないのだろうか。
香乃は大きく息を吸い、そして深く吐き出した。
「……すみません、お願いがあります」
もうここには来ないだろう。
もう誰にも会わないだろう。
本当は、誰かに別れの挨拶をしたかったけど、誰かにあったらきっと維持でも止められるだろうからしないでおこう。
自分の部屋を見回して、今までの自分自身を振り返った。
何もなかった。
何もしなかった。
ただ、だらだらと時間を浪費しただけだった。
今日の答えを出すのに、どれだけの時間を使ってしまったのだろう。
簡単なことなのだから、もっと早くに気づくべきだった。それだけが後悔だ。
こんな言葉を自分が言うのは変だと思うけど、心の中で伝えたい言葉がある。
家族と親友へ。
ありがとう。こんな自分の面倒を見てくれて。
そして、今日会ったばかりの人間の女性へ。
ありがとう。こんな自分を放っておかないでくれて。
他者への感謝と自分への後悔を胸に、僕は出入り口へと向かった。
まずはここから出て、それから……
「どこへ行くの?イズ」
今感謝したばかりの人間の女性が、出入り口を塞いでいた。