淀み
接吻した。
「東京だって。」
電話が鳴ってそれが異動の話で。
その先はよく覚えてない。
涙は出なかったけど口が乾いた。
愛美も泣いてなかった。笑ってた。
数日後、僕は彼女のホックを外していた。
火薬
____あと一年。来年の同じ数字が並ぶ日にはここにいるのだろうか。
どうして別れたかも覚えてない。
どうして泣いてたかも。
田んぼが広がり夏夜には蛙や喘ぎが響く。
23歳の春。生きるのに必死だから今日もアルバイトながら労働を自分に課さないといけない。
同級生と呼んで良いかわからないが歳の同じ友人達は社会という闇に揉まれに行き頼り先も行方が眩んでる。
駅まで歩く。それは晴れて風が少し抓ってくる。
言葉では表しにくいがどうもこの季節の風は透き通ってなくて真に受けると花粉と共に顔の表面が覆われてる気がしてならない。何も考えないと桜が散るおかげで相殺される。なんとも綺麗という言葉は便利で困る。
駅もそうだ。昨日までは色褪せてたように見える駅舎も4月を迎えた途端色鮮やかに見えてくる。なんとも節目という意識的文化は多様で困る。
入学式の装いの女の子、母親だろうか、見下ろすくらい背が伸びたであろう男の子、そして俺。普段社会という闇に揉まれてる、わけではないがほぼ等しいだろう。毎朝10時から働き、22時に店を出る。大学は通信になってしまったし家賃に水光熱費、食費やらなんやら生きるのに金は付き物であり、来月の自分のために必死になっている。
卒業の見込みはだんだんと立たなくなりつつある。
それでも尚生きないといけないのだ。
世に出るまで母親一人で育て上げてくれたことに誇りを持ち感謝をしていた。だが実際どうであっただろう。二度の離婚や不倫、不倫相手との間に子どもができ12歳下の弟が出来たこと。その事実を加味しても尚母親には感謝をしていた。
珍しいパターンだろう。世に出て自分の母は毒親だったのだと思ったのは。自分の笑いのネタにするようにいやあ俺の親が毒親でさあ、という下りはよく聞くがあんなにも自慢できる母親だと思っていたのにも関わらず周りの親御さんの話を耳にする度にああ毒親だったんだって辛かったのを誤魔化してきてたんだって感じるあの劣等感に似た感情は今でもしぶとく残っている。
母に追い出される形で一人暮らしをはじめた。貯金はなかった。借金もした。お金を借りることに引け目を感じたが死ぬよりはよっぽどマシだと思い借入を繰り返してた。
そんなだから母親から仕送りなんぞ一切もらっていない。送る気もないだろう。学業はどん詰まり、朝から晩まで眠い目をこすりながら肉のつかない腹を空かせながら働いた。
正直もう限界は近かった。歳の同じ輩は卒業をし、祝われ社会にせーので同じ1歩目を踏み出す。そんな背中を祝いながら見ていたらどうだろうか。無論自、死すのみと思う。
このような生活をして1年半になるが、友人たちの門出を祝うとなると情緒的に来るものもあった。
___普通が欲しい。
人それぞれ普通が違うだなんて当たり前は床に置き、全て自論だ。普通に学校に通い、普通に適度にバイトをし、普通に望んでないことの8割は経験せずに終える学生生活を送りたかったただそれだけである。一人暮らしを羨ましがられることが多々あるが以ての外だ。今すぐこの生活に終止符を打ちたくて堪らない。
そんな回想をしていれば小綺麗なフロアに広い厨房を兼ね備えたファストフード店が目に入ってくる。気づいたら電車に乗って1回の乗り換えを経て勤務先に着いてしまったようだ。
「キッチン・ぐれいぷ」
テスト投稿。続きは書きたい。