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突き落とされた日常

作者: 鈴音あき

母親がいきなりいなくなったら子供は何を考える?と想像して

なんとなく、こんな話が書けないか?と思った。


幼かった彼の『幸せ』とは、なんと儚く、脆いものだったのだろう。




昨日まで仲の良かった両親が、朝には険悪な雰囲気で、父は出勤の支度を、母は彼と妹の朝食の準備をしていた。


起きて歯を磨いている内に、父は無言で出掛けてしまい、母はそんな父に行ってらっしゃいの言葉もなかった。


非日常だ、ということはまだ小学三年生の彼と、年長組の妹にも解る程に、両親の態度は昨日とは変わっていた。


昨夜、彼がベッドに入るまで、二人は笑っていたのだ。


一晩で父と母の間に何があったのかは、幼い彼等には知る術もなく。


イライラとした母の背中から、作られた朝食も機嫌の悪さにシンクロしている。


形の崩れた目玉焼き。


焦げの多いウインナーソーセージ。


ブロッコリーは堅かったし、レタスはとても大きく千切られていた。


いつもは焼いてくれているけど、今朝はの食パンは乱暴に塗りたくられたマーガリンのせいで、とても不味そう。


そして、グラスに牛乳を入れられ、目の前にトンッ!と置かれた…。


兄妹は黙って食べた。


食べ終わってから母に聞いてみた。


「お父さん、もう会社に行っちゃったの?」


「そうよ」


「いつもちゃんと行ってきますって言ってるのに?」


「そうよ」


「ねぼう?」


「そうよ」


「お母さんも行ってらっしゃいって言わなかったね」


「そうよ」


「けんかしたの?」


「そうよ」


「仲直りしてないの?」


「そうよ」


「……けんかしたら早く仲直りしましょうって、お母さん言うのに?」


「そうよ」


「先生も直ぐに仲直りしようねって言ってるよ?」


「そうよ。でもね、許せることと、許せないことがあるの」


「そうなの?」


「そうよ。それより早く支度して学校行きなさい」


「はァい」


妹の保育園の用意で忙しい母は、彼の話に半分を聞き流し、返事も冷たく、彼に登校の準備を急がせた。


忘れ物はないか、ランドセルの中を確認して玄関に向かう彼を母は呼び止めた。


「なァに?」


「お母さんね、帰ってくるの遅くなるから、鍵を渡しておくわね。失くしたらダメよ? お家に入れなくなると困るからね」


母は、まだ小さな彼の手に玄関の鍵を握らせた。


「うん。わかった」


「ちいちゃんはお母さんが途中でお迎えに行くから心配しないでね」


「うん。…何時に帰ってくる?」


「わからないわ。ごめんね」


母は、彼の頭を撫でた。


優しい手。


彼の大好きな手。


「あれ? このカギお母さんのだよ。僕は予備のカギでいい」


鍵には小さなストラップがついている。


父と母が新婚旅行のお土産に、二人でお揃いのご当地キャラのロゴが入った鈴が気に入って買ったものだ、というのは彼も何度も聞かされている。


「予備の鍵だったら落としても気づかないかもしれないでしょ? 念のために持っておきなさい。 落ちても鈴の音が教えてくれるわ」


「そっかぁ。でも僕は落とさないよ」


母は、彼に微笑んで登校を促した。


「行ってきまぁす」


「行ってらっしゃい」


「あ! お母さん! 早くお父さんと仲直りできるといいね!」


彼の言葉に、母はゆっくりと頷いた。


彼は母に笑顔で手を振ってから、学校へ向かった。




そして、彼が学校から帰宅して、最初にしたのはキッチンの戸棚のなかを覗く事だった。


いつもおやつが入っている右下の棚。


「うわー! 今日はいっぱい入ってる!」


彼は嬉々としてお菓子を引っ張り出し、居間の座卓に広げてテレビとDVDレコーダーをつけた。


「何から見ようかなー」


おやつを食べながらアニメ映画を見て、まるで映画館のような優雅な時間を楽しんだ。


おやつを食べ終わり、DVDも終わり、ぼんやりとした空気が流れた。


次第に日が傾き、沈んでいく。


暗くなっていく部屋に電気をつけた。


「お母さん、いつ帰ってくるんだろう…」


微かに夕焼けの朱が残る、夜の入り口で彼の胸に小さな不安が混じった。


母は妹と一緒にどこで何をしているのだろう?


寂しさと不安をかき消す為に、彼は家中の部屋の電気をつけていく。


トイレも洗面所も風呂も、全部。


だが、少しも意味がない。


彼は居間に戻った。


「あ、宿題しとこ…」


小さな不安がどんどん大きくなっていく怖さから逃れるように、彼はわざと独り言を言ってひっくり返ったままのランドセルの中から、算数ドリルとノートを出して宿題を始めた。


あと三問で終わる、その時に玄関のドアが開く音がした。


「あ! 帰ってきた! お母さんとちぃだ!」


彼はやりかけの計算を放り出して廊下に飛び出した。


しかし、玄関で靴を脱いでいたのは彼の父だった。


「あ、お父さんだったのか。お帰り!」


暗くなるまで独りで留守番をした経験がなかった彼は、家に誰かが返ってきてくれた安心感でホッとして、父を笑顔で迎え入れた。


「ただいま」


父は短く返事をしたが、仕事で疲れていたのか元気がない。


無言のまま居間に入っていく父の後に続く彼は、母と妹がまだ帰宅していないことを告げた。


「なんだと?」


滅多に見ることのない父の怒気を帯びた冷たい声に、彼は一瞬怯んだ。


「それで? 何処に行ったか聞いてないのか?」


息子を怯えさせてしまったことに気づいて、深呼吸で平静を取り戻して彼に聞く。


「……きいてない」


「いつ、帰ってくるのかは?」


「ううん…」


「何故…」


「聞いたんだけど、お母さんわからないって」


父は黙り込んだ。


「ちあきは…? いるのか? まだ迎えに行ってない?」


父は慌てて部屋を出ようとした。


「ちぃはお母さんがちゃんと迎えに行くから大丈夫って言ってたよ」


「えっ? ちあきの迎えには行った? それじゃ、今までお前が一人で留守番してたのか?」


父は驚いていた。


「僕、一人で留守番したよ。お母さんから学校行く前にカギを預かってたんだ。ほら」


彼はテーブルに置いたままにしていた鍵を手に取り、父に見えるようにストラップを摘んでぶら下げた。


それを見て、父は無表情になり、彼から乱暴に奪い取って考え込み、ごみ箱の中にたたきつけるようにして投げ捨てた。


「あっ! お母さんのッ…!」


彼は慌ててごみ袋の中から拾い上げた。


しかし、父は、冷たい現実を彼に突き付けた。


「あいつはもう帰ってこない」



母は妹を連れて出て行った、と。


父が何を言っているのか解からなかった。


でも、朝の母の態度と、美味しくなかった朝ごはんを思い出す。


母がこの家にもう帰ってこないことは、母が使っていた鍵がここにあることで、覚悟を決めて出て行ったと物語っているようだ。


彼はただ、母が使っていた鍵を握りしめて現実を受け止められずに立ち尽くした。



そして彼は、何故母が妹を連れて出ていったのか、父に聞けずにいる。


あの、帰宅した時の父の怒りを目撃している彼は、とても恐ろしくて、まるでゲームに出てくる魔王のように見えてしまい、聞く事が出来なくなってしまっていた。


もし「お母さん何でいなくなったの?」と聞いてしまうと、またあの顔を見ることになるかもしれない…。


小学生の彼は、父をそんな魔王の顔にさせたくなかったし、見たくないし、何よりも怖すぎた。


自分には母親はいつの間にかいなくなってしまった人だと思うことにした。


それくらい、父の無表情は怖かったし、怒りの感情が込められたままごみ箱に鍵を投げ捨てるときの父は、彼に見せたことのない父の裏側を見せられた、大人の怖さがそうさせたのだろう。


あれは子供がみても良いものではなかった。


何をそこまで怒ることがあるのか、彼にはまだ分からない。


恐らく彼が大人になっても分からないことだろう。


子供のケンカは直ぐに仲直りが出来るような可愛いものなのだろうか?


子供にだって許せる事と許せない事があるのだ。


にも拘らず親や先生は大したことでもないと簡単に判断されて「許してあげなさい」と命令してきて、それに逆らうと今度はこちらが非難されるのだ。


だから許したくもないのに「イイヨー」を言わされるのが常なのだ。


本当は、今でもおもちゃを壊された時の妹は腹が立つし、大事にしていた絵本を破られた時のケイ君は許したくなかったし、お気に入りの服を汚された時のあきら君にはちゃんと謝ってほしかったし。


子供だからって簡単に仲直りできるから、直ぐに許されているなんて思われたくないんだ。


そんな事を彼は考えながら、あ、大人も許してあげられないからなかなか仲直りができなくて大変なのか? とも思いつく。


だからといって大人のようにズケズケと子供に聞くように「ケンカの原因はなに?」なんて聞けないのだ。


何かとんでもない大事件が起きてしまったと想像するしかない。


小学生の彼に母が妹を連れて出て行くほどの大ゲンカの原因…。


父は、家に母がいると思って帰ってきたが、母は父の顔も見たくない程に許せない何かがあった?


父と母の気持ちに温度差が開きすぎる?


…彼は、両親のケンカを拙い想像力で補い、今はもういない母よりも出ていかれて感情を消してしまって、なにを考えているのか分からない父を見守ることしか出来ることはないようだ。




男同士で、決して器用ではないが、不器用でもない父と彼の二人での生活が始まった。


今までやったことのない家事も、二人でやる。


母が何気なくやっていた事を自分がやってみるととても難しい事が分かった。


母の存在がとても大きかったことがよく分かったが、もう母はいないのだ。


頑張って家事を覚えようと決めた。


洗濯物も物干しから衣類を外すまでしかやっておらず、畳んだことがなかった。


掃除は掃除機のおもちゃを妹が持っているのを遊びで使った程度。


彼は、何もかもが役立たずな子供だった。


唯一、彼の特技が整理整頓。


誰かが置きっぱなしにしたものは、彼が元の場所に戻していた。


全てのものが何処に片付いていたのかを覚えている。


家電の使い方を父に教えてもらうことから彼の家事仕事が始まった。


自動で勝手に動いてくれる掃除機に買い換えた。


洗濯物は乾燥までしてくれる洗濯機に丸投げで、操作の仕方を父と一緒に覚えた。


極力家事に時間をかけないようにしてくれた。


買い物は父が仕事帰りや休みの日に、料理は総菜を買ったり父が簡単に作れるものを、そして彼が包丁を使えるように使い方を教えてもらった。


彼にとって一番大変だと思ったのは食事…、料理だ。


ゆっくりと慎重に丁寧に材料を切っていく。


少しでも気を抜いてしまうと怪我をしてしまうと、まず父に言われた。


母が手際よくご飯の用意をしていたのを見ていたので、自分にも直ぐにできると勘違いしてしまっていた。


彼にできる料理といえば『卵を割る』『混ぜる』『箸を並べる』『食べた後の食器を流し台に持っていく』と、限られていたのだから仕方のないことだった。


彼に任された家事もあった。


ゴミ捨てだ。


家の中のごみ箱からゴミを集めて集積場まで持っていく。


二人で生活すると量はあまり出ないようだ。


ただ、総菜で出てくるプラスチック容器が多いので嵩張るくらいで、見た目ほど重くないから小学生の彼にも持つことができた。


「お父さん、プラごみの中に燃えるゴミが入ってた…」


「えっ! 悪い。間違えて入れたか?」


「うん」


「気を付けてたけど、またやってしまったか…」


「いいよ。僕がちゃんと確認してから持って行くから」


そんな会話がたまにある。


「完璧にやらなくても大丈夫」


と、父は彼に最初に言ったのだ。


「家のことは自分が出来る事をすればいい。多少の失敗はしても大丈夫だから。それで死ぬことはない。手を抜きながら生きればいい」


失敗してもできるだけ失敗しないように気を付けて生活するようになった。


そうやって、男二人での生活は沢山の失敗をしながらも、日々を過ごしていくのだ。


母と妹からは何も連絡がないまま、これが彼らの日常になっていく。

彼のお母さん、何があった?

どちらかに不貞があったのか、お父さんの何かが我慢できないことがあったのか

それは読者様が其々で妄想してくださるとありがたい。


何せ夫婦でしか分からないことなので。

しかも彼はお父さんに聞くのが怖いと、諦めたので。


既婚者、未婚者、離婚経験者いろんな読者様の視点があるかと思うので、一つの原因だけで確定して書くよりも良いのかもしれない。

家出の理由を書かない不親切なのも面白いと思って下されば嬉しいなと、私は思う。



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