第87話 竜人 VS 魔角族
竜人は天を覆う怪魚を一瞥した後、己の纏う外套の縁を食んで少女の裸体に被せながら告げる。
「セレンよ。衝撃に見舞われる故、瞳を閉じてしかと掴まっていることだ」
少女は疑問もなくこくりと頷いて外套の下でもぞもぞと細腕に力を込め、尻尾をぎっちり彼の腰に絡めた。瑠璃色の両眼が月の光に煌びやかな睫の下に伏せられる。
茜色の飛沫を散らし、竜人は片腕に少女を抱えたまま夜空高く跳躍した。
星々輝く宙空で赤い鱗の男と銀に煌く巨躯が衝突する。
竜人は右の剛腕を引いて拳を握り固めると、すぅっと息を吸い込んだ。
深緑の瞳がくわっと見開かれる。
「ぬぅん!」
怪魚の額に向けて星の流れる勢いで岩のような正拳が打ち付けられた。
山のような巨体が轟音と共に弾き飛ばされ、魔物の後方へと落下してゆく。
「あいつ、突然出てきたあのでっかいのを殴り飛ばしたぞ!」
「た、助かった!」
人々が驚愕と安堵に叫ぶ中、白い魔物は冷めた眼差しで竜人を見据える。
竜人も反動によって後方へ弾かれ丁度璧門の真ん前に降り立つ。彼は振り返ることすらなくついでと言わんばかりに門へ向けて裏拳を打ち付けた。
街を守る分厚い石の璧門が固めた焼き菓子のように砕けて吹き飛んだ。
「な、なな、なにやってるんですかガレディアさん!?」
突然の暴挙にエルシィが血相を変えて少し離れたところから問い質してくる。
「小娘。セレンのことは頼んだ」
「え? ……もしかして今の、逃げ道を作ったつもりですか!?」
強烈に過ぎる剛力で破砕された璧門の瓦礫は遠くまで飛ばされて、璧門跡は充分に人が通れる隙間を残していた。
竜人は少女を地に降ろして諭すように語り掛けた。
「セレン、あれなるは相手にとって不足なしの強敵だ。俺も久々に憂いなく暴れたい。巻き添えを食わぬよう小娘共と隠れているのだ。よいな?」
「うん」
少女は頷いて、どうしようかと少し迷ってから体に引っ掛かる灰色の外套を纏う。
エルシィは少年を連れてぱたぱた駆けてくると少女の手を引く。
「全く、あなたは乱暴なんですから! でも、きっとご無事で!」
少女らが璧門跡の向こう側へ消えてしまうと民衆も慌てて退避していった。
残った者は竜人と魔物、それに衛兵達のみである。
魔物の後方で横たわる怪魚は未だ息絶えてはいないようであるが、びくびくと跳ねるばかりで襲ってこない。地上を移動する術がないのだろう。
この怪魚はただ超重量で人々を押し潰す為だけに呼び出された捨て駒らしい。
竜人は微動だにせずこちらを睥睨する魔物へ訝しげに尋ねる。
「して、貴殿は何故斯様に気を立てている? 凡百の弱者共を取り逃がした程度で我を失う器でもなかろう」
魔物の放つ空気が変容していた。
額に老木の如き皺を刻み、口元は憮然と歪め、赫怒を秘めて今にも弾けそうな形相は先にも増して烈々と悪鬼の如し威容を噴出している。
「貴様、その爪はどうした?」
竜人の言葉に応じることはなく。
魔物はただ一言、研ぎ澄ました氷刃のように冷たく鋭い声で問いかけた。
彼の足元は今もゆらゆらと波打って次なる獣を吐き出す予兆を示している。
竜人は一時だけ己が爪に目をやった。
彼の左の五指の先は綺麗に切り揃えられ、右の中指に至ってはそもそも爪がなく、そこだけが全身のうちで桃色の肉を露わにして痛々しいことこの上ない。
竜人種の最も優れた武器が半分以上も封じられているのだから到底本来の力を出せよう筈もない。
しかし竜人はその劣勢を毛程も気にしていない顔でただ、淡泊に答えた。
「宝物を守護する為に必要な犠牲だったから捨てた。それだけのことだ」
魔物の中で何かが弾け飛んだ。
「そのような身で立ちはだかろうとは私を愚弄するか貴様あああああああああ!!」
放たれた弓矢の勢いで大地の底から二体の魔獣が噴出した。




