第86話 魔物
星々の光は広い平野を濡れたように照らしている。人々はつい今しがたまで馬鹿騒ぎに興じていたのが嘘のように静まり返っていた。
深海の底へ沈められたような息苦しさの中、少年は心細げに親代わりの名を呼ぶ。
「エルシィ」
「大丈夫よ、カイ」
エプロンの袖を引く少年の肩を、エルシィは血色の悪い顔で強く抱き寄せる。
人ならざる蒼白の魔物。
妖しい輝きを放つ紫紺の眼差しに晒された途端、人間達はひんやりとした手で心臓を握られたようにぞっと戦慄した。
その身が放つ抗うこと能わぬ死の気配。ただ在るだけで後には草木も残らぬばかりの禍々しき穢れの魔力。人類に仇成す本物の「魔物」とはこういう生物を指すのだと誰もが本能に悟った。
恐るべきは魔物が従える巨獣もまた同様である。
黒い毛並みを持つ虎のように荒々しい巨体は黒竜一騎程もあり、稲妻の如し四つの鋭い瞳は主の忠実なる僕として眼前の生命を警戒なく睥睨して放さない。
逞しい四肢を飾る鎌のような爪の一振りを受ければ人間などは容易く八つ裂きにされるだろう。
図体だけ見上げればむしろこちらの方が脅威に感ぜられたが、それでいて尚白い魔物には人々の不安を煽って息もつかせぬ漠然とした不吉の兆候があった。
「な、なんだあいつ、どっから出てきた?」
「魔王軍は撤退したんじゃなかったのか!?」
「そんなことよりあいつ、どう見ても……」
元は白かったと思われる魔物の装束は黒く焼け焦げて無残な有様になっていた。彼が先の爆発に巻き込まれたのは明らかであるのに、青白い半裸の肢体は共に在る魔獣共々一片の掠り傷すらなく壮健である。
「貴殿、王の怒りに触れて尚よくもこのような行いに出られたものだ」
「……貴様にそのような言を宣う資格があるとでも?」
竜人の言葉に魔物は呆れ果てた様子で返し、文面を読み上げる如く朗々と語り出した。
「我が王はお怒りになられてなどいない! 先に示された御力こそはまさしく我らの功を必定にせんと欲する王の激励にあらせられる!! 結果我らは人間共を油断させ蛇尾族の首を手中に収める寸前まで至った! これを王の恵みと呼ばずして何としよう!!」
魔物の熱意籠る主張を聞き終えた竜人は旧知の者に送るべき親しげな笑みを浮かべた。
「いっそ清々しいまでの傲岸不遜! 貴殿は俺に負けず劣らず相変わらずのようだ。一応尋ねておくが、撤退が見せかけだったというのならこちらに到達した者は他に誰がいる?」
「無論、私一人で事足りよう」
「ものは言いようであるな。単に他の皆が悉く死んだか、動けぬか、あるいは逃げ去っただけであろうに」
絶対的なまでの自信溢れる魔物の即答に竜人はにべもなく失笑を浮かべる。
魔物はこういう男であった。
「奴らは何を話しているんだ?」
「さあな。だが、敵は奴一人のようだぞ」
彼らの会話を遠目で見守る人々には『王の怒り』が何を指しているものかてんで理解が及ばない。あまりに度を超した魔王の行いとそれを上回って気狂いじみた魔物の演説を前にしては無理からぬことである。
「……ふむ。耳障りな蝿共だ。先に片付けておくか」
魔物は悠々と巨獣の背から飛び降りると、囁く人々を一瞥して呟いた。
直後、魔物の足元から大地が生き物のように蠢きだした。
ぬかるんだ泥地のように地面がぼこぼこと柔らかく波打って、魔物の背後で縦に膨れ山の如き高さへ至り、大地の水底から巨大な怪魚が天高く跳び上った。
満天の星々を白銀の背に覆い隠しながら巨躯は大口を開けて大衆目がけて落下してくる。
地上の命を悉く押し潰さんとする圧倒的な図体に誰もが目を剥いて固まった。




