第84話 悲痛なる少女の叫び
少年は頭を抱えて慌てふためくが、彼がようやっと危機に気付いてくれたというだけでも少女は心強かった。
「セ、セレンちゃん、あと少しだけ頑張って! 僕、すぐ戻ってくるから!」
少女がかろうじてしがみつく縄を引っ張るのはあまりに危険過ぎる。そう悟ったらしく、少年は転げ落ちるような勢いで舞台を降りて少女を引っ張り上げるのに役立ちそうな物を探しに行った。
何も知らない民衆達はそれを他所に相変わらず魔王軍の動向に気を揉んでいる。
「皆、あれを見ろ!」
『光』の墜ちた方を指差してクリストフが呼びかけた。
空を飛ぶ影の大群が粉塵の中から舞い上がり街から遠ざかってゆく光景が見えた。大量の翼のはためきによって巻き起こされた気流が土煙を吹き飛ばしてゆるやかに視界を晴らしてゆく。
まず暗灰色の靄から漏れてきたのは焼け溶けたような赤い輝きである。
どうやら大地は半球状に抉れて、底の方は極度の熱で煮え滾る溶岩の湖と成り果てているらしい。灼熱の地表では細長く真っ黒い塊がごろごろ夥しく転がっている。魔王軍の焼死体であるようだ。
ようやくぼんやりと粉塵の反対側が見えてくると、後方で生き残った敵軍の影が脱兎の如し勢いで境界の森へ戻っていくのが分かった。
見渡す限りこちらに向かい来る軍勢はない。
「うおおおおおおおおおお! 魔王軍が、魔王軍が……撤退していくぞおおおおおおおおおおおおお!」
遂に誰かが歓声を上げた。
「生き残った……俺達は生き残ったんだ!」
「ああ、これであの子ももう危険な役目を負わなくていいのね!」
「ざまあみやがれ! セレンちゃんに手を出そうとしたからきっと天罰が降ったんだ!」
「そうだ! 俺達を救ったのはセレンちゃんに違いない! セレンちゃん万歳!」
「神はセレンちゃんにあり!」
人々の口から弾けたように言葉が溢れ、親衛隊の男達は何やら異様な熱に浮かされて少女を崇め奉っている。
今まさに鍋の中へ落ちてしまいそうな少女にしてみればぞっとするくらい滑稽な有様である。
少女の視界に彼らの脇を走り抜けて戻って来る少年の姿が映った。
彼は長縄を抱えている。少女を吊るすのに使われたものの予備を発見してきたのだろう。
これを舞台の上から投げて少女に掴ませてやるつもりのようだ。
「セレンちゃん、もう大丈夫だよ! 今度こそおろ……わっ!」
せかせかと駆けていた少年が明るく言いかけたところで、彼は引き摺っていた長縄の端を踏んづけてすっころんだ。
「いたた……あ! 急がなきゃ!」
少年はぺたんと地べたについた尻を慌てて持ち上げて走り出す。
少女は土壇場でも恰好付かない少年のそんな様子が可笑しくて、でもなんだか安心した。
思わず少女の胸は緩ん
ずるっ
「あ」
その安らぎが命取りだった。
少女の尻尾が縄をすっぽ抜けた。
白い体が鉄鍋に吸い込まれてゆく。
灼けるような輝きがみるみる近付いて、温度を増して鋭敏な肌に絡みつく熱気は灼熱に溺れて溶かされる苦痛をこれでもかと五感に囁きかけてくる。
最中、少女の視界に映り込んだ。
「セレンちゃん!」
少女目がけて飛び込んでくる少年の姿が。
「カイだめ!!」
少女の喉から悲鳴のような叫びが迸ったけれど、もう遅かった。
あどけない顔が針でも刺されたように悲痛そうに歪む。
そして――――――茜色の輝きが盛大に飛沫を散らした。
外套を纏う赤い鱗の巨躯が飛び込んだ衝撃によって。
刹那の後、少女の華奢な体は荒々しくも逞しい緋色の剛腕によりしかと抱き留められ、少年の体は大岩のような手に首根っこを掴まれぎりぎりの高さでぷらぷら浮いていた。
「全く、童というのは無茶をするものだ。だが小僧、己を顧みずセレンを救おうとしたその献身は見事だったぞ?」
銀に煌く刃の爪。天を突くような六本の角。太く強靭な尾。
大の男の二倍近くを誇る巨躯は灼熱をものともしない緋色の鱗に覆われて、猛炎の如き溶液に膝上まで浸かりながら少女らを抱えて堂々と立つその威容はただそこに在るだけで凄絶の極みだった。
鋭くも悠々たる深緑の瞳を見上げて少女の全身からふっと強張りが抜けてゆく。
彼女は喜びに頬を染めながらすっかり脱力しきった瑠璃色の眼でその名を呼んだ。
「ガレディア……、お帰り」
「うむ! 俺は戻った」
少女にとって絶対の守護者である竜人が帰ってきたのだった。




