第81話 魔王の星
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一方その頃、魔王城にて。
「どうしよう、みんな戻ってきてくれない……」
魔王も玉座の上で焦っていた。
薄暗い広間に揺らめく灯りは数本の篝火ばかりで、硝子の窓の外は星明りすらなくただ茫漠たる闇を映し出している。
太陽が沈めば不死鳥の加護も現れない。魔王の部屋は昼間と打って変わって魔王の座す城に似つかわしい妖しさを放っていた。
魔王の面前には弧を描くように五つの水晶が並べられている。
うち二つは鍋の上に吊るされた蛇尾族の少女を、残り三つは人の地へ向かわせた王軍の様相を前方、後方、中心に分割して映し出している。
魔王は深紅の眼でそれらを交互に見比べながら悩ましげに頬を掻いている。彼の頬がもごもご膨らんでいるのは『飴玉』を幾つも口に含んでいるからだ。
「伝令の使い魔から幾度も行軍の一時停止を命じているのですが、一向に応じる気配がありません。自軍はもう幾ばくもなく水晶に映された地点へ到達すると思われます」
玉座の前に跪いて報告するはローブを纏う魔角族の男である。
暗い紫紺の眼は他者に思考を読ませぬ謎めいた光を宿し、左目に掛けられた片眼鏡が細く長身の体躯と相まって理知的な印象を与える。髪は背に届くほどの長髪で、彼ら特有の白い角は王軍統帥のものよりわずかに短い。
「戦争なんて待ってればそのうち嫌でも始まるのに。みんなそんなに人と腕比べしたいのかな、ねぇランベル?」
「城の兵は百年近く大きな戦いがなく鬱憤が溜まっていたのもあるでしょうが、恐らくラーミナ殿の強行でしょう」
困った顔で問うてくる魔王に片眼鏡の男――ランベルは坦々と分析を述べる。
「んー、ラーミナは戦うの大好きだからなあ。うまくやる自信があるんだろうけど、失敗するくらいだったらまた今度にしたいのに」
魔王は傍らの大皿に盛られた『飴玉』を摘まんではぽーんぽーんと口に放り込んでゆく。
「沢山兵隊を送り込んだらびっくりしてすぐあの子を差し出してくれるかと思っていたんだけど。人間が魔物の子を手元に置きたがるなんて少し驚いた」
大皿の『飴玉』がまばらになってきたので、世話係は急ぎ『工房』へ赴いて自分の首を裂き滝のように流れ出た鮮血から補充を作ると、籠に入れて持ってきてばらばらと注いだ。
ずっと口の中でころころと『飴玉』を転がしながら話す魔王の仕草は穏やかそうに見えるが、これは彼の機嫌があまりよくない兆候であった。
「きみはラーミナがあの子の首を獲ってこられると思うかい?」
魔王が尋ねると、ランベルは頭を垂れながら述べた。
「方途は幾らでもありますが、人質を強奪するとなれば損失の危険を排除することはやはり困難でしょう」
「……きみもそう思うよね」
魔王は低い声で返すと、摘まんだ『飴玉』を口に放り込もうとする手を止めた。
赤い赤い鮮血の『飴玉』は魔王の掌で篝火の灯を照り返して濡れたようである。
玉座の魔王は小さな手で『飴玉』をぐっと握りしめた。
途端、閉じられた指の隙間から陽光の輝きが光の槍のように溢れ出でて薄闇を照らした。
光に磨かれた魔王の金髪は黄金の如く、輝きを映す紅の瞳は掌中をじっと見つめている。
まるで子どもに聞かせる夢物語の一場面。
絵本の挿絵で小さな男の子が見かけたら、その手の中にはきっと素晴らしい宝物が眠っているだろうと想像を膨らませるに違いない。
果たしてそれは正しかった。
今、魔王の手で握られた『飴玉』の中に闇を照らす小さな太陽が封じられた。
彼が掌を開ければ『飴玉』の表層を彩る鮮やかな紅の内には無限の凝縮を思わせる宝石の輝きが秘められて、昼の太陽を遥かに凌駕する光が煌々と広間を満たして溢れかえる。
いっそ神々しいまでのその光景もしかし刹那の出来事である。
魔王が『飴玉』をぽーんと放り投げた――ような仕草をした――その瞬間、輝く『飴玉』も、眩い光の奔流も、全てが幻のように消え失せて、仄暗い薄闇が目を覚ましたように返り咲いた。
「……? ……王?」
魔王が『飴玉』を摘まんでそれが消え失せるまでものの数秒とかかっていない。
ずっと頭を垂れて会話をしていたランベルが、異様に明るくなった絨毯を不思議に思って見上げた時には全てが終わっていた。
玉座の傍らに侍っていた世話係が蹲って身悶えている。可哀想にも突然の強く刺すような光に目をやられてしまったらしい。
叫び出したいのを健気に堪えていた。
「やっぱり、また今度にした。あの子が失われてしまったら悲しいからね」
魔王は大皿の『飴玉』を一つ口に放って微笑を浮かべると、ピクニックでも先送りにしたような気軽さで教えてくれた。
「また今度に、した? 王よ、それはどういう……」
ランベルは終わったことのように語る魔王の言葉を訝しんだが、直後にはっと顔色を変えて辺りをきょろきょろ見回しだした。
やがて知性溢れる紫紺の観察眼は灰色の高い天井の一角に小さな穴を見出した。魔王の舐める『飴玉』くらいの小さな穴は、熱で溶けたように微かに靄を上げていた。
『飴玉』は今や王城を突き抜けて夜空をのびのびと飛んでいた。
消えたように見えた『飴玉』を魔王《彼》は確かに投擲していたのである。
流れ星のような一条の光が夜の地の闇空に巨大な弧を描いて飛んでゆく。
どこまでもどこまでも飛んでゆく。
風よりも速く颯爽と飛んでゆく。
丘を越え、蛇尾族の好みそうな沼を越え、腐人蔓延る墓地を越え、広い荒野を越え、境界の森を越え、闇を抜けて、人の地の空に至り、満天の星々の一つに加わって、
橙と黄の混合する輝きをまき散らしながら、
『星』が墜ちる先は――――――




