第80話 魔王軍襲来
――――――数刻後。
「おい、いつまでその子をそんな恥ずかしい恰好で放っておくつもりだ!」
「そうよ! セレンちゃん、ずっと怯えてるじゃない」
璧門前に集った民衆達は長らく吊るされたままでいる少女が不憫になってきたようで、再びざわめき始めていた。
「静かにせよ! もうじき斥候が戻る。敵軍撤退の報を受けるまで魔物の娘を解放することはできん!」
彼らが口論を繰り広げている間にも少女の尻尾は着々とずり落ちて、尾先から縄まであと握り拳四つ分である。
尻尾は先へいくほど細くなるから縄があまり先端へ近づくと一気に抜けてしまう。見た目ほど余裕はない。
これだけ人がいれば誰かが少女の危機に気付きそうなものだが、夜の暗さのせいで尻尾の先の方が朧げであるし、茜の光に浮かび上がって色めく少女の白い裸体をまじまじと見られないでいるというのもある。
やがて遠くの闇の中にぽつりと小さな灯りが見えて、しばらくのうちに偵察へ向かった勇者の仲間だと分かった。騎乗する馬の両脇にカンテラを括りつけている。
少女は宙吊りで頭に血が昇ってくらくらするのを堪えながら報告に耳を澄ます。
勇者の仲間は衛兵達に告げた。
「敵軍! 止まることなく! 猛烈な勢いで進軍を続けています!」
皆が落胆の色を顕わにする中、衛兵隊長は大声で張り上げた。
「使い魔に不具合があるのかもしれん! どちらにしろ敵軍はもうじき境界の森を抜けて目視可能な域に到達する! 引き続き作戦を続行せよ!」
少女の尻尾が握り拳もう一つ分程縄を抜ける頃、平野の向こうに黒々と聳える境界の森がぶわりと広がって蠢きだした。
遅れて地鳴りのような音が轟々と響き、微かに大地が震え始める。
夜の地の兵は夜目が効くから灯りを持たず、その影は星明りの下に真っ黒い。
巨大な怪物の如く森の輪郭を超えて膨張する闇の正体は疑うべくもない。
いよいよ敵の大軍勢が境界を抜けて人の地の平野に到達したのだ。
「あ、あんなのが街に入り込んで来たらお終いだ」
人々は迫る脅威をその瞳に映し出して肌を粟立たせる。
地平線に沿って広がる影は刻一刻と大きさを増し、大地を叩く進軍の響きが穏やかな現を侵食する悪夢の如く近づいてくる。
衛兵隊長は黙して彼方の闇を睨んでいる。
じきに向こうからも目視で少女の姿が確認できるようになるだろう。
もし使い魔に向けた勧告が敵軍に伝わっていなかったのであれば、一旦進軍を中止して偵察隊を送り込んでくる筈だ。隊長はその時を待っている。
そして少女はというと限界が近かった。ふとした拍子に抜けてしまいそうなほど縄が緩くなって、尾先を鉤状にくいっと曲げて落ちないよう懸命に踏ん張っている。
「見てエルシィ! 飛んでるのがいっぱいいる!」
少年が平野の先で翼をはためかせる無数の影を指差した。
「森の木より大きいのもいるわ!」
巨大な影を見つけて叫ぶのは少女の知り合いの貴婦人だ。
「……なぁ、こっちからももう敵の姿が朧げに分かるんだ。あいつらは既にセレンちゃんのことがはっきり見えているんじゃないか?」
誰かが言った。
その通りだった。
暗闇に慣れた夜の地の民が、鉄鍋の輝きを照り返して橙がかった瑠璃色に煌く少女の美しい尻尾を視認できぬ筈はなかった。
「どうするんだよ!?」
「もう奴らはすぐそこだ!」
「ああ、どうせ死ぬんならあの子の尻尾で絞め殺されたかった!」
人々の一部が恐慌に陥ってにわかに騒々しくなる。
「ど、どうして……」
少女は憔悴に掠れた声で虚空に問いかける。
このまま敵が攻めて来れば少女は何の意味もなく無駄死にして、彼女を心配してくれた民衆も、彼女が助けてやりたかった少年も殺されてしまうかもしれない。
とっくに冷え切った少女の腹の底は更なる怖気に凍り付きそうであった。
「隊長!! 敵の進軍が止まりません!」
「たわけ! 見れば分かるわドミニク!」
これまで動じることなく部下に指令を飛ばしていた衛兵隊長も遂に焦燥の色を見せ始めた。眉を歪めて苦渋を露わにする。
「くそ! 奴らの王は魔物の娘を欲しがっているのではなかったのか!? 何故止まらない? 娘がどうなってもいいというのか!?」
隊長は遂に最後の手段を視野に入れたようだ。
月明かりに煌く銀の剣を抜くと、少女を吊るす縄に刀身が届くよう一歩前に出た。




