第77話 少女の宝物
少年はもう一度蔵に戻ると、少女の名前を呼ぶ。
「セレンちゃん」
少女は答えない。
彼女は体を横に倒して尻尾をくるりと巻き、その上に頭を乗せて黙っている。
沼地を離れるつもりはなさそうである。
予定通りであれば竜人が今日のうちに戻ることはない。
少年は膝を抱えて少女の傍らに座り込んだ。
「敵がきたら、きっとセレンちゃんのこと守ってあげる!」
少年は悄然とした少女に元気そうな声で言って、中途半端に刀身が抜けたままほったらかしになっていた剣の鞘をぎゅっと握りしめた。
それっきり蔵の中に静寂の時が訪れた。
少女は時折目線だけで彼の顔をちらちらと見上げた。
少年は両腕で体を抱いてさすさすしている。
霧の立ち込めるひんやりした空気の中にずっと寝間着一枚でいたものだから、肌寒くなってきたのだろう。
「本当に、街まで敵が入ってくるのかな」
少年の微かに憂いを帯びたような声を聞いて、少女は苦しかった。
昨日見たものをもっと早く誰かに伝えていたらこんなことにはならなかったかもしれない。人間達の生活まで脅かされるなんて夢にも思わなかったのだ。
敵が来ればこの蔵の中だって安全でない。それでも何故かずっと傍らにいてくれる少年を見ていると、少女はここでただじっとしているのがとてもいけないことだという気がしてくる。
少年がふいに地面を見つめてぼそっと言った。
「明日、みんなが悲しそうにしてたら、やだな」
少女は堪らなく胸が締め付けられて、尻尾の先にきゅっと力が籠った。
少女は「可愛い」とか「愛らしい」とか、そういう言葉の意味がよく分からない。
少女の生はこれらの語彙と無縁だったから。同族は絶えてしまったし、出会う者は敵ばかりであったし、彼女にとって人間が愛でるような小動物は「捕食対象」で、草花や虫は「非常食」でしかないから。
だから少女が意味を分かってその言葉を口にすることは決してないのだけれど、彼女が少年に抱いた感情は名前を付けるのであれば確かに「可愛い」とか「愛らしい」がふさわしかった。
少年は泳げないし、大した力もないし、弱いのに、好奇心旺盛で、初めて見る物にろくな警戒を抱かず、少女には子犬のように懐いてきて、何かあれば考えもなく少女を守ってやるなどと宣う。
生き物として実に愚かで、本当に危険な相手と出くわしたらきっと呆気なく殺されてしまう。
だけど少女は少年のそういう無垢なる愚かさが『可愛く』て『愛らしく』て、側にいるとなんだか癒されて、でもひどく危うくて心配で、少年が飢えたり、傷を負ったりして弱ってしまったらどうにかしてやらなくてはいけないと思った。
少年は、少女が生まれて初めて出会った可愛らしい生き物であった。
「カイ」
少女は身を起こすと、片手で少年の頬を撫でた。涙を拭ってやる時の仕草と似ていた。
少年の頬はふっくらと柔らかくて、温かかった。
「セ、セレンちゃん、どうしたの?」
少年がぽうっと顔を赤くして聞いてくる。
少女は何も言わないでただ、少年の鮮やかな碧眼をじっと見つめる。
少年も少女も、やってきた魔物に殺されてしまう。
明日は来ない。
みんなの顔ももう見られない。
そうなる見込みの方がずっと大きかった。
きっとそうなるに違いなかった。
少年は世界の残酷さをまるで分かっていない。
でも、そのままでいてほしかった。
何も知らないままで、生きていてほしかった。
ずっとずっと昔、ほんの短い間だったけれど、少女にも世界が明るく満ち足りて、どんなことがあってもきっと何とかなるって、無邪気にそう信じられた頃があった。優しい家族に愛されて、当たり前に幸せな時が続くのだと思っていた頃があった。
遠い夢のように儚くて温かな日々。
少年はきっと、そんな日々を生きている。
少年の瞳の中には、そんな世界がまだ残っている。
少年の瞳を見つめていると懐かしさがこみ上げて来て、少女の胸の中にほんの一時だけ、もう二度とは取り戻せない何かを蘇らせてくれる。
いつからか、終わってしまった優しい世界を映し出す宝石みたいな碧眼が少女のかけがえのない宝物になっていた。
安寧の時を約束する絶対の守護者はまだ戻らない。
宝物は自分の手で守らなければいけない。
どうすればいいのか、熱を帯びる胸の奥底ではとっくに気付いていた。
少女は、決断した。
「わたし、行かなきゃ」
「え?」
突然立ち上がった少女に彼は顔をあげて目をぱちくりさせた。
躊躇いもなく蔵を出てゆく少女の後ろにくっついて、少年は問いかける。
「セレンちゃん、どこ行くの?」
少女は頼りなさげに立つ少年を振り返ると、小さな手を伸ばしていつも竜人がしてくれるように、彼女より少し背の高い少年の頭にぽんと被せた。
そうして柔らかく微笑み、少年を安心させるように優しい声で伝えた。
「カイ、大丈夫」
「……セレンちゃん?」
少年は見たことのない少女の表情に不吉な予感を覚えたが、二の句を継ぐ暇もなく少女は霧の中に消えてしまう。
呼びかけても、もう返事はなかった。
少年は迷子のような心細さで一人取り残されるのだった。




