第70話 歪なれども愛すべき穏やかな日々が終わる時
玉座の魔王が深紅の瞳をうっすらと細めた視線の先にあるのは台に据えられた海色の水晶玉だった。丸く歪んで映し出されているのはこちら側を呆然と見つめる蛇尾族の少女。
魔王は微笑を浮かべ、旧来の友人に語り掛けるような親しみの籠った口調で独白する。
「ふふ。きみたちの瞳はやっぱり綺麗だね。手元においておきたくなるくらいに」
そんな魔王の姿を玉座の傍らで見守る世話係の少女は普段通りの沈黙を貫き、黄昏の色合いで燃える鳥達は王の歓喜に呼応する如く彼のすぐ近くを舞い踊る。
「よもや人の地に逃げ隠れているとは。道理で見つからぬ訳です」
魔王の面前に跪くラーミナは静かに所感を述べる。
「向うでこの子を見つけたら速やかに首を持ち帰ること。爪の長いきみの指でこの子の目玉に触ったりしたらだめだよ。いいね?」
「御意に」
彼は厳粛に応答し、深く頭を垂れる。
頬を薔薇色に染め、昔を懐かしむような、どこか陶酔に浸るような顔で水晶玉を撫でる魔王の指先は綺麗に切り揃えられている。
竜族にも劣らぬ優れた硬度と切れ味を合わせ持つ武器をあえて捨ててしまうのは、己の指で蛇尾族の目玉を抉り出す時にうっかり傷付けて美しさを損なわぬようだと、城の若い魔物達にはそう囁かれている。
そんなことに頓着して人類との戦いに勝利できるのか。このような疑問を抱く者は夜の地に存在しない。
それが魔王の王たる所以であった。
「王よ。今は側にいないようですが、あの愚かなる竜人めが立ちはだかった時にはいかがいたしましょう?」
「ガレディアのこと? きみの好きにしていいよ」
「よいので? 殺してしまうかもしれませぬが」
ラーミナの語調は相変わらず粛々として静けさを保っている。それでいて、俯いた紫紺の眼は燃え盛る稲妻のような殺意でぎらぎらと輝いていた。
「うん。ぼくにはよく分からないけどね、きみらみたいな戦士はいつも言うでしょう? 戦場がお墓だって。だから、戦って死ぬのなら本望だと思うんだ。彼も――――それにきみもね」
魔王は頬を緩めて無邪気そうに笑った。
「……これは手厳しいことを仰る。しかし王よ。ご心配召されるな。如何なる邪魔者に阻まれようともあなた様の御心は魔角の誇りにかけて必ずや満たして見せましょう」
ラーミナは面を上げ、王の赤い瞳を真っ直ぐに見返して宣言した。
最早己の眼に宿る狼のような獣性と戦場を望む本能を取り繕おうともしない。
「うん。きっと獲ってきてね。いってらっしゃい、ラーミナ」
魔王は遠くへ旅する友人の土産を待つような顔で王軍統帥を送り出すのだった。
*
数刻の後、王城前。
星も瞬かぬ闇空の下、荒涼とした大地に数千を超える兵が集っていた。
鋭い牙と爪で肉を穿つ獣人、圧倒的な硬さを誇る巨躯の石人に如何なる損傷をもものともせず食らいつく腐人、そして夜の地随一の膂力を誇る竜人達が地上を埋め、上空には灼熱の炎を吐いて獲物を焼き尽くす黒竜や魔力を散らす風を吹かせる白竜の騎兵隊、容易く矢を躱し骨をも砕く凶悪な脚持つ鳥人達が群れをなして滞空している。
個体数の少ないものまで含めれば彼ら以外にも数多の種族がものものしい形相で出立の時を待っていた。
先頭で指揮を執るは王軍統帥ラーミナである。
彼は黒い毛並みを持つ異形の魔獣を従えていた。
虎のような逞しい体躯は黒竜一騎程もあり、雷のように荒々しい輝きを放つ四つの鋭い瞳は獲物を狙う捕食者そのものである。そして三股に別れた長い尾の先がそれぞれ蛇のような頭をもたげて狡猾そうに背後を睨んでいた。
ラーミナは魔獣に跨って頑強なる魔物達を鼓舞する。
「蛇尾族の首を捧げよ!! これは王命である! 子ども一人の命に過ぎぬと油断してはならん! 向かう先は人の地! 人間共との衝突は避けられぬものと思え。各々全霊を尽くせ!」
戦士達は興奮に身を震わせ、久しく忘れていた衝動を呼び覚まされてゆく。
血と鉄の匂い。
生死を掛けた命懸けの殺し合い。
敵を滅ぼす快感。
酔いしれるような勝利の余韻。
生ぬるい時の中で燻っていた闘争心が油を注いだように燃え上がる。
魔物共の咆哮が大気を震わせた。
――数十日前、魔王は王軍統帥に告げた。
「ラーミナ、君に命令だ。もし次に蛇尾族の子を見つけたなら、その時はお城の兵隊みんなで仲良く一緒に行くこと」
これから始まろうとしているのは戦争。
たった一つ、王の願いを叶える為だけに行われる全てを賭けた戦争である。
「全軍、出撃せよ!」
猛々しい号令が戦に飢えた魔物共を解き放つ。
人の地が享受した平穏なる百年の日々は終焉を迎えようとしているのだった。




