第65話 幼ナーガの胸の中
「よせクリストフ!」
青年は仲間の静止も聞かず突如として舞台へ駆け出した。少女の公演が終わり気の抜けた人々を強引に掻き分け、力尽くで舞台上に這い上がり少女の目前に立つ。
彼は不思議そうな顔で見上げてくる無防備な少女に勢いよく殴りかかった。
「「セレンちゃん!」」
少年とエルシィが控室から血相を変えて叫び、周囲の者達が慌てて止めようとするがもう間に合わない。
青年の拳は空気を裂く音と共に少女の柔らかい腹に触れ、そして――
ぴたりと動きを止めた。
「なんで……なんでだ?」
焦燥の顔で問いかけたのは少女に殴りかかった青年の方だった。
「お前が幼い娘のようにか弱いなら、なぜ俺に怯えない? お前が竜をも殺す化け物だというなら、なせやり返さない?」
本当は、今更青年に少女を傷つける意思はなかった。彼がまだ少女を恐ろしい怪物だと信じているのであれば、そもそもこんな凶行に走る勇気はない。
彼に残っているのは、このままでは引き下がれないという青い意地だけだった。
青年の疑問に少女は可愛らしい顔を曇らせることもなく無邪気に返した。
「あなたは、仲良くなれそうだと思ったから」
少女は青年が彼女を脅かしてみたいだけだと分かっていた。
狙われてばかりの生を送ってきた少女は敵意に敏感だ。
不安多く幼い心は小さなきっかけで殻の中に閉じこもってしまいがちだけれど、一度冷静に観察してみれば相手が危険な生き物であるか否かは本能が教えてくれる。
彼の行動は、少女にとって野に生きる獣が縄張りに入ってきた見慣れぬ動物の反応を確かめたくて甘噛みしてみるような微笑ましいじゃれ合いに過ぎなかった。
「仲良くなれそう? 俺はお前を襲おうとしたんだぞ? それだけじゃない。お前らを疎み、邪魔をし、散々罵倒した。魔物なんか拷問にかけられて死ねばいいと思っていたんだ。お前は、そんな奴を許せるっていうのか?」
「うん」
少女がなんでもないことのように頷くと、青年は遂に瞳を見開いて何も言えなくなった。
貴婦人の話で自分が人々に怖がられていることを初めて知った時、少女が抱いた気持ちは悲しみでもなければ怒りでもなかった。
安堵だった。
彼女は初めて、ずっと得体の知れなかった人間という生き物を身近に感じた。
彼らは自分とそんなに変わらない、と。そう思えた。
仲間を見つけたような喜びすらあった。
何故なら彼女にとって恐怖とは最も身近で、尊重されるべき情動だから。
食べなければお腹が空くこと。動き続ければ眠くなること。よく分からないものを過度に恐れて拒絶したくなること。それらは皆等しく仕方のないことで、なんら非難される謂れのない衝動である。
人に語るだけの知恵はなくとも、少女はそう考えている。
臆病であることは、少女にとって好ましい性質だった。
少女は彼らに親しみを覚えた。彼らに近づきたいと思った。
少女はその為にこそ彼らの前で歌い、踊り、笑って見せた。
歌を歌えば言葉を届けられると、踊って見せれば気持ちが和むと、笑って見せれば敵意のないのが伝わると、少女はそう思った。
少女の歌は彼らのような人々へ送る為にこそあった。
だから、彼女は心からの親しみを込めて青年に微笑んだ。
「歌、聞いてくれてありがとう」
暗青色の瞳に映し出される少女の姿が悠揚としてどこまでも広がる海原に重なって見えたのは、きっと少女の衣装のせいばかりではなかった。
青年はどこか吹っ切れたように、諦めたようにふっと笑った。
「嬢ちゃん、君の勝ちだ」
青年は少女の柔らかい腹にふにゃりとくっついて水滴に濡れた拳をいつまでも離さなかった。
やがて勇者の仲間達に無理やり引き剥がされていった。
後日、青年は少女の親衛隊に加わったのだった。




