第59話 幼ナーガ、一触即発の再会に戦慄する
すっかり陽のくれた夜の街道を一行は帰路につく。
人は透き通る空気が好きだけれど
わたしの心は泥のように柔らかいから
世界は黒い竜のように怖いから
優しい霧の中に隠れていたいの♪
少女は透き通るような声で自分の作った歌を口ずさんでいる。
問題の解決した直後で心が緩んでいるのか、瑠璃色の尻尾のうねりはいつもよりゆったりとしている。
「あ」
少女が言葉を止めて小さく声をあげた。
道の向こうからやってくる集団があった。
王都から来た役人だった。
六人程の護衛を連れて道の真ん中を通ってくる。
機械仕掛けの人形の如く整った姿勢で、かつ無表情に暗い道を歩くその姿は冥界の住人が地上に現れたような不気味さがあった。
少女が役人の姿を見るのは黒竜の一件以来である。
竜人とエルシィが険しく眉を歪める中、少女は何を思ったのか竜人の衣の端を引っ張ってゆくと、役人の正面に立った。
護衛の兵達が色めき立つ。
役人は群青色の瞳に感情を映すことなく足を止めた。
少女は役人を見上げると、顔面を真っ青に染めて、微かに震える声で言った。
「こ……こ……こんばんは」
役人は何も答えなかった。
少女はなおも役人の無機質な群青色の瞳を見つめ続けている。
静寂があった。
道の端で少年達と取り残されたエルシィは緊張の面持ちで二人を見守っている。
先に業を煮やしたのは役人だった。
役人はわずかに怪訝そうな顔で少女に問うた。
「何故私の前に立つ? 何か用件があるのではないのか?」
「えっ」
今度は少女が表情を崩した。
宝石のような瑠璃色の瞳をおろおろ泳がせて狼狽している。
彼女は自分を愛想よく見せたかっただけである。
役人は少女にとって思い出すのも恐ろしい人物だが、故にこそ少しでも恭順の姿勢を見せておこうというのがこの数十日で学んだ少女なりの処世術だった。
しかし思いがけず問い返されて困ってしまったようである。
「用がないのなら去るがいい」
役人が不可解そうに言ったので、少女はきまずい顔でエルシィ達の元に戻ろうとする。
少女が竜人の衣を引くと、彼は動かなかった。
衛兵達の間で辺りの空気が膨れ上がるような錯覚があった。
突然真水の中に放り込まれたような、心臓が冷たくなって息苦しくなるような感覚。
それは、長らく冷戦状態の続くこの世界で彼らが己の本分をこれ以上なく自覚させられた初めての瞬間であった。
見開かれた深緑の瞳が鋭利な刃の如き殺意を湛えて役人を睨み据えている。その眼光は獲物の一挙手一投足を漏らさず観察し狩り取らんとする捕食者そのものだ。
「俺の宝物を邪険に扱うでない。あの時は随分な難題を吹っ掛けてくれたものだ。だが、この童はこうして可憐の一片を損なう事もなくここにいる。残念であったな」
竜人の言葉は区切るように、静かに、それでいて危うく何かが破裂する寸前であるような、そんな声で発せられた。
彼は黒竜の一件があった時、役人と直接対面する機会を持たなかった。
衛兵達はだらだらと冷汗を流しながら腰の剣に手をかける。一歩間違えば当の竜人が何もせずとも心臓の鼓動を急き立てる緊迫のあまり切りかかってゆきそうだ。
一番肝を冷やしているのは他ならぬ少女だった。
エルシィ達の方へ戻ろうと囁きかけるように彼の衣を何度も指先で引っ張るのだが竜人は石像のようである。
だが、役人はむしろ元の無表情を取り戻してこのように言った。
「貴殿が何を言いたいのか理解しかねる。魔物の娘は人間を襲ったが、酌量の余地があった故に機会を与えた。そして課された命を滞りなく果たした。故に解放した。それだけのことである」
「面の皮の厚い男だ。その鉄面皮、今ここで剥ぎ取ってやってもよいのだぞ?」
竜人の全身が氷塊の割れるような怪音を響かせる。外套の隙間から人間を容易く八つ裂きにできそうな右手の爪が垣間見せられた。
一触即発の事態にエルシィが慌てて駆け寄ろうとして、勇者は静かな眼差しを竜人に据えたまま聖剣の柄に手を伸ばす。
「ガレディア、わたし、お腹空いた」
「む」
少女の唐突な言葉に場を満たす重苦しい空気が一瞬乱れる。
その言葉は、少女が別なことに竜人の気を逸らしたい時の定型句だった。
「はやく帰ろう」
彼女は竜人の右腕にぎゅっとしがみついて不安そうに彼を見上げている。
竜人は爪のない中指を少女の目から隠すように、咄嗟に右の拳を握りしめた。
「貴殿は私を手にかけ尚その娘と共にこの地から逃げおおせる自信があるらしいな。しかしその娘はそれを望んでいないようだが?」
「ぬぅ」
竜人は苦々しく唸りながら役人をねめつける。
目前の男を殺せば街にはいられなくなる。
ここまで準備を進め市長をどうにか説得して実現に漕ぎつけた公演の予定も泡と消える。
今や少女にとっては歌と踊りの公演も、人間に親しもうとする努力も、単なる生存戦略でなくなっていることを竜人も分かっている。
きっとそこには少女なりの希望があった。
竜人の握りしめられた両拳の鱗が砕け散り、束ねた硝子を丸ごと割ったような音が薄闇に響き渡った。
「……見ているがよい。この童は必ず生き残る」
竜人は憎々し気に宣言すると身を翻した。
少女も安堵して後に続こうとしたら、役人が思い出したように呼びかけてきた。
「魔物の娘よ」
少女はびくっと振り返る。
「この街で芸を披露するそうだな。精々市民を落胆させぬことだ」
少女がぽかんとしていると、役人は衛兵を引き連れて歩き去った。
陽は落ち切ってすっかり夜になっていた。
少女らは足早に帰途へ戻った。
公演までの日数はあとわずか。
投票日まで残すところは三十余日ほどである。




