第43話 魔王の至福
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「よろしかったのですか? ラーミナ様は大変狼狽えておられましたが」
広間に残っているのは魔王と世話係の二人だった。
「うん。きみは不満? アイン」
「め、滅相もございません! 私はただの世話係にございます! 王の御心に私見を挟むなどあってはなりませぬ」
世話係が焦燥も露わに早口でまくし立てたら、彼は楽しそうに頬を緩ませた。
「大げさな言い方するね。兵隊のことはラーミナ、他のことはいつもランベルが決めてる。ぼくはいつもここで座ってるだけ。きみの方がよっぽどよく働いていると思うけど」
「そんなことを言ってはなりません! あなた様が玉座におられることが何よりも大事なのです! 私の命などは王が一日ここでこうしておられるだけの価値にも及びませぬ」
「ランベルみたいなことを言うんだね」
魔王が床に届かない足をぱたぱた揺らして呟くと、世話係はしゅんと表情を曇らせた。
「王はいつもランベル様のことをつまらないと仰ります」
「うん。でもきみはランベルと違って目の色をころころと変えるからね、楽しい」
魔王が玉座の隣の世話係に伝えると、彼女は喜色を浮かべて微笑んだ。
「ありがたきお言葉にございます」
世話係はふと陽の差し込む窓に目を向け、表情を華やがせながら魔王に言葉をかけた。
「王よ。そろそろ日課のお時間でございます」
「あ、そうだね」
彼はぱっと顔色を輝かせて椅子から飛び降りた。
「お散歩の道順はいかがなされますか?」
世話係もどこか弾んだ口振りである。
「アインに任せる」
「承知いたしました。城を出る前に喉を潤してゆかれますか?」
「うん」
「少しお待ちくださいませ」
世話係は魔王の面前に跪くと、頭を垂れ、片手を回して首にかかった艶のある黒髪を垂らした。白く滑らかな項が露わになる。
「どうぞ」
魔王は世話係の項に噛みついた。細く鋭い犬歯が白い肌に突き立ってぷっくりと赤い血の雫が膨れる。
魔王が一日に摂取する水分と『飴玉』の原料は全て世話係の生き血から賄われる。元より青白い世話係の顔面がますます血の気を失ってゆく。彼女は眉を歪めて表情を強張らせ、唇を噛み、ドレスの裾を摘まむ指は小さく震えていた。
やがて魔王が世話係の細い首から唇を離すと、彼女は俯いたままわずかの間動かなかった。魔王が何度か瞬きをする間に世話係の顔色は元の青白さを取り戻し、項の刺し傷は塞がってゆく。
それが済むのを待ってから、彼女は跪いた姿勢で魔王を見上げ、うっすらと口の端を持ち上げて問いかけた。
「王よ。満足なされましたか?」
「うん。美味しかった」
魔王は世話係の血を一滴、口の端から垂らしながら褒めるのだった。
魔王の居城は暗く小高い丘の上にあった。城の背後はしばらくゆくと断崖絶壁になり、丘は荒涼として、くねくねと歪に捻じ曲がった樹木がまばらに生えているばかりである。
いかにも邪なる者達の潜んでいそうな景観であるが、夜の地は元来昼夜を問わず薄暗く、空気はどんよりと湿って、ろくに草木の繁茂しない土地である。王城付近の光景は別段珍しくもない。
ただ、この丘にはどう考えても闇を統べる魔族の王にふさわしくない場所がぽっかりと一つだけあった。
妖しく不気味な雰囲気を放つ丘の上、王城の南側、城から見て日光の射す窓があった方角だ。そこに、夜の地のどこにも――そして人の地にすら――およそ存在しないであろう神秘が広がっていた。
その一帯だけがまるで別世界のように光で溢れていた。
白く輝く雲の合間から黄金の陽光が差し込み、地上は美しい湖と緑で鮮やかに映え、花々や小動物、虫達が穏やかに生を謳歌している。そこに住まう生物はこの世の誰しもが未だかつて見たこともないものばかりだった。
白い翼の生えた栗鼠たちがふわふわと草の上を舞い、体の後ろ半身に魚の尾ひれを生やした馬が湖を泳ぎ回り、天空を舞う白い竜の群れは時折地上に降りて芳醇な果実を捥いでは美しく飛翔しながら空へと帰ってゆく。
城の者達はここを『光の園』と呼んでいる。
「王様。私を置いてあまり早く陽射しの中に入られては灰が風に飛ばされてしまいます」
灰色の石を積み上げて作られた荘厳な王城を出ると、世話係が困った顔で先を歩く魔王に呼びかける。彼女の両腕には人間の頭一つ分程の容量がある硝子瓶が抱えられている。
魔王は喜色の相貌で振り返った。
「ぼくの灰が散らばっちゃったら集めさせられるのはきみだもんね。だけど魔角族、よくこんなの作ったね」
「ええ。王の御心を楽しませる為ですから」
魔王は隣まで追いついてきた世話係に目を向けてどこか残念そうに眉を寄せる。
「でももったいないな。きみらは頭がよくて色んなことができるのに、自分達だけの為にこんな場所を作ろうとは思わないんだろうね」
「私達は、あまり陽射しを好みませんから」
世話係はそう言って苦笑いを浮かべた。
「そうだった。いつも太陽の下を歩かせてごめんね」
「よいのです。私は、毎日あなたと共に歩く一時が好きですよ。もう、我慢なさらなくて大丈夫です」
「うん」
魔王は気持ちよさそうに両腕を広げて瞳を閉じ、一歩踏み出して陽射しの中に身を曝け出した。小さな体がざらりとほどけて灰になり、靴と服だけを残して崩れてゆく。
世話係の左中指に嵌る指輪の石座で銀の石が輝き、微風が灰を運ぶ。
灰は彼女の腕に抱えられていた瓶の中に衣類と靴もろとも吸い込まれて、すっかり収まってしまうと世話係は黄金の蓋で瓶を閉じた。
世話係は爽やかな風の吹き渡る草原に一歩踏み込むと、目一杯の陽射を注ぐ太陽へと瓶を捧げ仰いだ。
彼女は愛しそうに瓶の中の灰を見つめ、歌うような声で朗々と讃える。
「王よ。我らの王よ。絶対不変なる夜の地の支配者にしてこの地上で無二の輝きよ。それでは、参りましょう」
――――――魔王は今日も日課の日光浴に出かけてゆく。
さて、殺伐としたお話が続きましたが次回からしばらくは癒し回となります。
というわけで、『第三章 歌って踊る幼ナーガ』に続く!!




