第38話 沼底の死闘
荒ぶる黒竜は憤激に身を任せて沼面へ突進する。
辺りにざばあっと黒い飛沫が降り注ぐ。
泥水の中はひどく淀んでおり、濃い霧の中ですら生易しい程何も見えない。
少女は視界を塗りつぶすような茶色く濁った景色の中を深く深く潜ってゆく。
やがて幼蛇尾族と黒竜は一切の光を閉ざす闇の底へ到達した。
少女は暗い水底で心の手綱をもう一度引き締める。
彼女が柔らかい髪を揺らめかせて傍を泳ぐと、黒竜は水の流れに勘付いて爪を振り回してくる。しかし狙いが大雑把だから白い体をわずかにくねらせるだけで簡単に避けられる。
胸元の首飾りが水の煽りを受けてゆらゆら浮く。
少女にとってこの暗闇は青空の下にも等しい。
蛇尾族は本来、超感度の触覚で辺りを漂う流体の流れから情報を探る方が視覚を使うよりも得意な種族だ。霧も水も流体には相違ない。
視覚の効かないこの場では黒竜も同じ方法に頼らざるを得ないが、彼我の精度には天と地ほどの開きがある。
黒竜の大顎が喉奥で紫炎を輝かせた。
少女は矢の如く勢いで竜の近くから退避するが、吐き出された炎は水に阻まれて瞬く間に鎮火する。辺りを照らし水温をわずかに上昇させただけで終わった。
少女の敵は今や盲目に晒され火を吐けず、大空を滑空する機動力の優位も失った。
この沼底で少女を仕留める術はない。
少女が泥水を好む理由。
それは、何人の視界も阻む泥水の中だけが心置きなく一人になれる空間だからである。
他の場所ではいくら一人になりたい時でも不安に苛まれて竜人の側を離れられない。
ではなぜ泥水の中は平気なのか?
泥水の中であれば、一人でも己の身を守ることができるという絶対の自信があるからだ。
幼蛇尾族は今こそ反撃に転じる。
うねる尾っぽで力一杯に水を叩いて巨大な黒竜に迫る。
周囲を自在に泳ぎ回って黒い巨体を翻弄し徐々に距離を狭めてゆく。
横なぎに振るわれた重厚な尾の猛威を回避した後、少女はごてごてした黒い頭の隣で誘うようにゆらっと尾っぽのうねりを緩めた。大顎がすかさず食らいつく。
瞬間、彼女は唇をきゅっと引き締め腹と尾っぽに目一杯の力を込めて水を叩いた。
身をよじる白い体が勢いよく竜の咢へと押し出される。
小さな体は恐ろしい牙の真横を紙一重ですり抜け黒竜の頭の後ろ側に回る。
咢が閉じて金属をぶつけるような高音が響くと同時、
瑠璃色の尾っぽが背後から素早く黒竜の首に絡みついた。
黒く荒々しい鱗に覆われた首は丸太を束ねたように太く、少女の尾っぽはぐるりと一周するのがせいぜいである。少女はそれを渾身の力でぎちぎちと絞め上げる。
獲物は堪らずに頭を振り乱してもがく。
相手がいくら暴れても少女の尻尾はきつく巻き付いて離れない。
黒竜が大きな頭を少女諸共沼底にぶつけてみても柔らかい泥が堆積しているばかりだから、小さな襲撃者はちっとも傷つかない。
少女はこのまま巨体の竜を縊り殺してしまうつもりである。
さすがに首をへし折ってしまう力はなくとも、用意周到にお膳立てしたこの環境下であれば窒息させるくらいのことはできる。
黒竜はあまりの苦しさに翼をばたばたさせて泥水を掻く。陸地へ這い上がろうと必死になっているらしい。だが地上までは大分距離があり、沼へ潜る前にひたすら少女を追いかけまわして消耗しているから、そう簡単には辿り着けない。
黒竜は酸欠で徐々に弱ってゆく。
しかしわずかずつではあるが水面へ向けてしぶとく浮上を続ける。
やがて黒い巨体が白くて小さな体を乗せて水上へ浮き出た。
黒竜はほとんど瀕死である。巨体が水上を泳いでいるのに沼面のさざめきは緩やかだ。
だが地上は近く、陸へ上がるのを許したら空に逃げられてしまうかもしれない。
「んん!」
少女はどうにかしてここで仕留めてしまおうと、腹の底から低い唸り声を上げて力んでいる。唇を噛んで顔面を歪め、全身をぷるぷると震わせる。白い肌の上を泥水の雫が滴り落ちる。
黒竜が唐突に動きを止めた。
少女が尾っぽを緩めそうになった次の瞬間、耳の変になりそうな雄叫びが響き渡った。




