第37話 幼ナーガ、決戦の時
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深い霧の中、少女は泥の上を音もなくするすると這いずる。
少年の待つ沼から十分に離れた所までやってきた。
彼女はぐっと力を込めて尾っぽの先を高々振り上げると、目一杯地面に叩きつけた。ぬめぬめ重たい音と共に泥飛沫が跳ねる。
遠くの方にぼんやり見える黒い点が急速に膨れてゆく。
竜の咆哮が大気を震わせる。
少女は瞳を閉じて感覚を研ぎ澄ませる。
素肌を撫でる霧の流れに意識を集中する。
鎌のようなかぎ爪が薄靄のヴェールを突き破って襲い掛かった。
三本のかぎ爪は雲をたなびくようにして少女の体を引き裂かんとする。
瞬間、瑠璃色の瞳が見開く。
少女は即座に尾っぽを縮めて横に飛び退る。
恐ろしい凶刃が霧の中を空ぶる。
透き通るような水色の髪が数本宙を舞う。
鋭い爪が一度でも掠れば少女の柔らかい肉は綺麗に裂けてしまう。
しかし黒竜は少女を傷つけられない。
怒れる竜が鞭の如くしなる尾を叩きつけ、巨大な大顎で迫り、三本のかぎ爪を振り回しても、少女はろくに辺りの窺えない霧の中で相手の全貌が見えているかのようにぴょこぴょこ躱し続ける。
少女は霧の流れを読むことができる。
彼女のきめ細かく繊細な肌は辺りを漂う霧の流れの変ずるのを敏感に察知し、周囲に存する生き物の動向を把握する。
相手が視力を頼りに情報を得ている限り少女は向こうの動きを先読みするが如く振る舞うことができる。
衣類や防具は素肌を外気から遠ざけてしまうので邪魔になる。
黒竜は宝の簒奪者を捉えられぬ事に苛立ってきたらしく、ばっさばっさと翼で鬱陶しい霧を払い除けようとする。
巨体の周囲が晴れ渡ってゆく。
少女はすかさず離れて深い霧の中に身を隠す。
王軍の騎兵隊のように大群で来られたならともかく、一匹の黒竜が巻き起こす突風程度で沼地全体の霧をどうこうすることはできない。
その程度では少女の脅威にならない。
靄の向こうに薄ぼんやりと紫の光が生じた。
紫炎を吐くつもりらしい。
少女が急いで炎の軌道上から逃れると、すぐ側を眩い光と肌を焦がすような熱気が通り抜ける。
少女はこの隙にと黒竜から遠ざかる。
体を前傾にして尾っぽを力強くうねらせ、柔らかい泥の上を気配もなく滑るように疾走する。
胸に煌く首飾りがちゃらんちゃらんと揺れる。少々気が散るけれども竜の注意を引く要素が多いに越したことはない。
黒竜は猛烈な勢いで追いかけて来るが、今の彼女には余裕がある。
水の中に長時間もぐっていられるだけの肺活量を持つ蛇尾族は本来、陸上でも激しい運動を長く続けられる体力がある。
街では温度と湿度が適さない為にすぐへばってしまうが、この沼地であればその能力を十全に発揮することができる。視界の悪い霧の中で縦横無尽に這いずり回れば向こうを煙に巻くのはそう難しいことではない。
少女は時折姿を見せて焦らしながら少しずつ竜を疲弊させてゆく。
計略が功を奏したらしい。巨体の動きが鈍ってきた。
彼女は遠く離れて息を整えると、次で最後とばかりに尾っぽを振り下ろして位置を知らせ、向かってくる黒竜と対峙する。
地獄の炎熱を封じたようにぎらぎら赤い竜の目玉と視線が合った。
「あ」
少女は一瞬だけ恐ろしさに身が竦んでしまった。
きらりと光る三条の線が軌跡を描く。
「うあっ!」
彼女は竜のかぎ爪に勢いよく弾き飛ばされて柔らかい泥の上をごろごろ転がった。
少女の意識がほんの一時明滅する。
咄嗟に尾っぽを持ち上げて身を庇ったお陰で大事はなさそうだ。
少女の鱗は蛇尾族を狙う魔物が防具の材料として欲しがる程の硬度がある。強かに打たれてずきずきするがこれしきのことで砕けたりはしない。
己の体が五体満足な事に安堵したのも束の間、横たわる少女の柔肌に竜の大顎が迫る。
「わっ」
彼女は慌てて尾っぽを地面に向けて伸ばし、体を押し出すようにして大顎から遠ざかる。
伸びきった尻尾を大急ぎで引っ込めた直後、すぐ先の地面が巨大な歯型に抉り取られる。危うく尾先を噛み千切られるところだった。
少女は心臓が止まりそうな心地で身を起こすと、あと少しの辛抱だと己の胸に言い聞かせながら、尾っぽをのたくらせて脇目も振らずに逃げる。
広大な沼面が見えてくる。
少女は冷たい泥水の中に勢いよく飛び込んだ。




