第31話 少年に担がれる幼ナーガ
少女はもう振り返らなかった。
少年が足を浮かせた途端に駆け出した。尾っぽを力一杯うねらせて少年から遠ざかろうとする。
「待って! 待ってよ! 僕、本当に――――――」
少年は尚も追い縋った。長剣の先が土を削ってがりがり響く。
人の地で蛇尾族の少女が人間に走力勝負を挑むのは無謀である。少女がばててしまう間もなく少年はすぐそこまで迫って、必死で走る少女の手に片腕を伸ばした。
瑠璃色に輝く爪の先に少年の指が触れた。
瞬間、少女の脳裏に過る光景があった。
狭い檻の中。肉の腐ったような悪臭。
少女の腕を押さえつける太くてごわごわした腕。
それから、きらきらした少女の爪を挟む平べったくて、硬くて、冷たい、鉄の鋏。
「やあっ!」
少女は甲高く叫びながら思い切り腕を振り払う。
彼女は少年に触れられた手を押さえながら今にも泣いてしまいそうだった。
少年が気勢を削がれて呆然と立ち尽くしていると、少女はずるずる這いずって近くの岩陰に隠れてしまった。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。骨、折って、ごめんなさい。だから、もうやめて」
「セレンちゃん」
震える声で訴えられた少年は眉を歪めて困った顔をする。
少年が何か言おうとして口を開きかけた時、頭上からゴオォっと殴りつけるような強風が吹いた。
二人は思わず片腕で頭を庇う。
ばさばさと空気を叩く音が響く。
いつの間にか辺りが薄暗い。
「あ」
岩陰に蹲っていた少女が見上げると、すぐ真上で巨大な竜がこちらを睨みつけていた。
その体躯は市中に見られる二階建ての家屋程もあり、全身は刃をも弾く漆黒の鱗に覆われている。
両手に並ぶ三本のかぎ爪は鈍い輝きを放ち、瞳孔の細長く赤い瞳には視線のみで獲物を燃やし尽くすような威圧がある。
山の頂上に住み着く黒竜である。
陽射しを遮っていたのは黒竜の大きくて広い翼だった。
黒竜は麓の森まで響く雄叫びを上げると、少女らに向けてばっくりと大口を開ける。剣山のような牙の羅列が露わになった。
瑠璃色の綺麗な瞳に黒竜の喉奥で眩い輝きを放つ紫炎が映し出される。
少女は歪に固まった形相で死を覚悟した。
「危ない!」
「わっ」
真横に回っていた少年が思い切り少女をどつくと同時、黒竜が灼熱の紫炎を吐きだした。
二人は硬い地面の上をごろごろ転がる。
勢いを失って彼らの体が止まるとすぐ隣で妖しい紫の炎がごうごうと燃え盛っている。
少年がぞっと肝を冷やしながら少女に目を向ければ大事はなさそうである。
「セレンちゃん! 大丈――――――げほっ! げほっ!」
わずかな安堵も束の間、今度は炎の熱気に喉を焼かれそうになってむせ返る。
黒竜は再び大口を開けて次こそは逃すまいと狙いを定めている。
「セレンちゃん! 逃げなきゃ!」
少女は突然の襲撃に横たわったまま動けないでいる。
少年が慌てて引っ張り起こそうとすると彼女はさっと両手を背中の下に引っ込めてしまう。
仕方ないから背と尾っぽに腕を回して横抱きにすると、彼女は「うあっ」と声を上げびっくりして尾っぽをびちびち暴れさせたが宥めている余裕はない。
黒竜の側を走り抜けようとした時、頭上から重い風切り音が聞こえて少年は咄嗟に横へ跳ぶ。
ごしゃっと大地が砕けて土塊が飛んでくる。
「うわあ!」
振り下ろされたのは鉄の鞭みたいに長く強靭な黒竜の尾だった。
少年は一目散に駆けた。
時折少女の尾っぽが頬にぶつかると張り手を食らったように痛かったが、ひりひりするのを堪えてひたすら麓を目指した。




