第136話 人の地の業
あの時から半年も経っていないけれど、何だかもう懐かしいことのように彼女は語る。
「壁の上からたまたまあなた達を見つけたって話す私を、ガレディアさんは随分と胡散臭そうな目で見ていましたね。でもこの街で暮らして一度ここに立って景色を見たなら、あなたにも分かるでしょう? ここ、街では結構人気なんです」
シルトの街には背の高い建築があまり多くない。これだけ見晴らしの良い眺めを見られるのは街でもこの壁の上だけだ。
「だからって、観光地みたいに沢山の人をぞろぞろ登らせてくれるような場所でもないんですけど、私は、子ども達のお世話がありますから」
高所が苦手な子もいないことはないが、街で一番高い建物と聞けば登ってみたくなるのが子ども心というものだろう。
付き添いさえ伴えば好きな時にここへ来ていいというのが、孤児院に暮らす親のいない子どもに一つだけ与えられた特別な権利だった。
「ここで子ども達と一緒に景色を眺めるのは、私にとっては日課のようなものだったのです。あなた達を見つけられたのも、ある意味必然だったという訳です」
エルシィは胸を反らして満足げに言った。
竜人は黙して聞いていたが、ふいに彼女の名を呼んだ。
「なあ、エルシィよ」
「なんですか? いやに改まって」
彼女が不思議そうに聞き返すと、竜人は深海色の瞳と目を合わせて言う。
「よい折だから尋ねるが、其方は何故、あの子の為にそこまで尽くしてくれたのだ?」
問われた彼女は森の中で初めて出会った時と同じように笑った。
「……言ったでしょう? 私は子どもが好きなのです。セレンちゃんの幸せを願うのに、それ以上の理由なんかいりません」
答えを受けた竜人は彼女の言葉を肯定するでも否定するでもなく、ただ不可解なものを見るような目で語った。
「其方はそのように言うが、俺には解せぬ。
あの日、其方はただ一人我らの前に現れたが、我らの目的が人間共の危惧した通りであったならどうするつもりだったのだ? その身は八つ裂きにされて終いであったかも知れぬのだぞ?
セレンが小僧を殺しかけた時のこともだ。あれは流石に恨みを買ったと覚悟したものだ。俺とてそれくらいの思慮深さはある。だが実際、其方は俺やセレンに文句の一つも垂れなかった。
何故だ?
セレンの前で問うたことはないが、この地で最も我が心の好奇を惹く不可思議は其方という人間であった」
静かに、しかし淀みなく紡がれた竜人の言葉。
彼がこれほど饒舌に多くを喋るのは蛇尾族の娘と出会った時以来かもしれない。
エルシィは始め戸惑うような顔をしたが、やがて瞳の奥に強い光を宿して、睨んでいるみたいに真っ直ぐ彼の深緑色の瞳を見つめた。
「何度聞かれても、私の答えは同じです。私は、子ども達が大好きなのです。子ども達を愛しているのです。全ての子ども達が愛されて健やかに生きられたらいいと、ずっと願っているのです。でも――――――」
彼女はそう付け加えて、瞳の中に悲しげな色を浮かべた。
「でも、きっかけを問われたなら。始めにあなた達に声をかけた理由を聞かれたなら。私には、あの日壁上から子どもを連れたあなたの姿を見た時、すぐにぴんときたのです。きっと、どこかから逃げて来たのだろう、と」
訝しげな目をする竜人に彼女は語る。
「……あなた達が思っているほど、人の土地は平和なんかではないのです。この国は単一民族です。私みたいな、金の髪と青い瞳の人達が人口の大部分を占めています。だけどカイの瞳は綺麗な緑色でしょう? あの子は、この国の孤児ではないから。孤児院の子は、この国の民とは異なる髪や瞳の色をした子どもたちばかりです。そんな孤児院が、この国には沢山あるのです。夜の地と境を接するこの国に沢山あるのです。おかしいと思いませんか?」
切実に、訴えるように投げかけてくる言葉の先を、竜人はただ待った。
「百年間、人と魔族の間に大きな戦争がありませんでした。その平穏は人類にとって良くも悪くも長すぎた。この地よりもっと南の、夜の地から離れた大国の幾つかは、今、戦争の只中にあります。近くにある沢山の小国も安全とは言えません。でも、この国に戦火が及ぶことはあり得ない。このソルダート王国は魔族の領域のすぐ近くに位置する防衛の要だから。絶対に侵攻してはならないと、条約で定められているから」
エルシィは恥じ入るような、悔しがるような響きすら伴って一つの事実を告げた。
「十数日前、魔王軍の侵攻があったあの日まで。この国は、人の地で最も安全な土地だとされてきたのです」