第135話 俯瞰
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遡ること少し。少年が少女の住む沼地へ足を踏み入れた頃――――
澄み渡るような青空の下、気持ちのいい涼風が吹いていた。
街を守る高い壁の上から見る景色は実に広々として清々しい。
手前にある広大な草原の向こうにはどこまでも広がる妖しげな森が続き、先日の戦いの折草原の真ん中にぽっかりと開いた大穴は魔角の力の名残か急成長した木々のお化けでもすっぽりはまって動けなくなってしまったみたいにこんもりと丸く盛り上がっている。
市民が境界の森に接する草原へと出てゆくことはそうないのだが、最近は大穴の存在を知った街の子どもが見に行きたがって親達を悩ませている様子である。
「どうですか、ガレディアさん。ここから見る眺めは、中々のものでしょう?」
たなびく金の髪を抑えながら、いつものエプロン姿でエルシィが隣に立つ赤い巨躯の竜人に問いかけた。
「ふむ。確かにこれは壮観であるな。このような高所より大地を見下ろすのは城にいた時分以来であるかもしれぬ」
腕を組みながら答える彼の言葉にエルシィは表情を綻ばせた。
「本当は、もっと早くにここへ連れてきてあげたかったんです。あなた達は夜の地の民ですから、たまには故郷へと続く空が見たくなる時もあるんじゃないかって」
今まで彼らをここへ案内しなかったのは、まだ正式な市民として認められていなかったからである。戦時には防衛の要衝となるこの場所へ軽々しく部外者、それも敵対する魔族を近づけることは許されていなかった。
「そうだな。セレンにもこの光景を見せてやりたいものだ。あやつが喜ぶか怖がるかは分からぬが、どちらにせよ愛い姿であるには変わりない」
「もう、ガレディアさん! セレンちゃんをいじめるようなこと言わないでください!」
エルシィは口を尖らせて竜人を窘める。
壁の上で共に広い世界を見渡しているのは竜人とエルシィ二人だけである。
彼が街へ出てきたのは石運び人達の仕事の手伝いがあったからだ。
「わざわざセレンを置いてまで街へ来たというのに、今日に限って陽も上がり切らぬうちにすることが無くなってしまうとは。歯ごたえもない」
「良いじゃありませんか。ガレディアさんのお陰で仕事が早く終わるって、皆さん喜んでましたよ?」
「親方は若い者共が楽をするのは為にならんと嘆いていたがな」
ぼやく竜人にエルシィが言うと、彼は皮肉げに苦笑した。
そんな彼の姿を視界に収めつつ、エルシィはちらりと街の広がる背後を気にする。
竜人がここに立っているのは手伝いが終わり暇になったところでエルシィに声をかけられたからなのだが、実は彼女には別の目的があった。
朝のこと。
竜人が一人で街へ出て来たという話を聞いた時からなんだか少年がそわそわと落ち着かない風で、きっと少女のところへ行くつもりなのだろうと彼女は察した。
本当は一人で霧深い沼へ行かせるのは心配なのだけれど、今日くらいは華を持たせてやろうという気持ちで彼女は何も言わないことにした。
それで竜人の方の様子を見にくればもう沼へ帰ってしまいそうだったから時間稼ぎに彼をここへ招待したのである。竜人にかけた言葉は全部本心だけれど、いつもなら始めから少女も一緒にと持ちかけているところだ。
竜人は間を取り持つ為だけに話題を探すような男ではない。
もう少し、ここに彼を留めておくのに丁度よい話はないかと考えていて、エルシィは思い出した。
「……そう言えば、人の地にやってきたあなたたちを最初に見かけたのも、ここからの景色でした」