第130話 硝子玉のような瞳の奥
「魔王軍の一件があったとは言え、あの子は元々人々に受け入れられつつあったんだ。票数が足らなかった時の残酷な末路をあれだけ分かりやすく丁寧に説明されれば、まともな人間は恐ろしくて拒絶の票なんか入れられなくなる」
「…………」
役人は勇者の言い分を否定しなかった。
「……あの娘は、先の一件で夜の地に対する人質としての価値を証明しました。その時点で処刑することはできなくなった。とは言え、約定は定められた通りに履行されねばなりますまい」
「なるほど。……役人殿は、もしも魔王軍の侵攻がなく投票が真に平等な形で行われていたなら、あの子の運命はどちらに転んでいたと思う?」
役人はしばし思案した後、このように答えた。
「恐らく、結果は変わらなかったでしょう。私の行いは保険に過ぎませぬ。しかしその時にもし票が反対に振り切れたなら、私は成すべきことを行ったまでです」
硝子玉のような役人の瞳はまるでそうあらねば穢れてしまうとでも訴えるが如く無機質で無感情である。
「勇者殿には理解能わぬ事柄かもしれませぬが、人間は弱い。長きに渡る戦いの間、我々はただ数の差のみで夜の地と戦力を拮抗させてきた。それがどういうことか、勇者殿にはお分かりか?」
役人の言わんとする所は察したが、彼は敢えて黙して続きを促した。
「あちら側の兵にとってそれが戦と呼ぶに値するものであったとしても、我らの兵にとって戦場へ出向くことは最早生贄として捧げられるに等しい。戦いの勝利を手放しで喜べるのは上に立つ者ばかり。平凡な日常を送る民にとって、開戦はその時点で敗北を意味するのです」
語る役人の言葉は今やわずかばかりの抑えきれぬ熱を帯びていた。
「人の地は、多くの民の命を磨り潰した血と涙の果てにしか求めた戦果を得られない。故に、秩序の守護に妥協は許されないのです。たとえ、手にかけるべき夜の地の命が薄弱な幼子であったとしても」
無色の殻が外れた男の言葉はけしてその内に怒りや憎しみの類を内包しなかった。
この男と会話をする時、勇者は常々思う。
彼は世界の在り方に則って語るべき言葉と行動を選択しているだけであって、心の奥では人と魔族の差異など気にしたこともないのではないか、と。
「役人殿の考えに異論を挟むつもりはないさ。人の世が穏やかに在り続けることを望むのならそれ以上の最善策はない。ただまあ、貴方も存外に甘いね。竜を縊り殺そうとした子を『薄弱な幼子』などと評するのはどうかと思うよ」
「…………あれは、勇者殿が助力したのでは?」
「いいや、俺は何も手をくだしていないよ」
「……………………………………」
その沈黙は明らかにこの場で行われる会話の流れに似つかわしくないものだった。
役人はこの時、この街へやってきて初めてと言っていいほどの分かりやすい困惑顔を浮かべていた。
唖然としている役人の姿に思わず勇者は笑いを禁じえなかった。
「ふっ、これは愉快な笑い話だ! この場に竜人君のいない事が残念で仕方ない。彼は役人殿には随分してやられた風だったからね」
黒竜討伐を少女に命じたあの時、彼女には無謀な課題であることを役人とて当然理解していた。
ではあの時点で彼女を見殺しにするつもりだったのかというと、そういう訳でもなかった。
もし少女に生かす価値があるのなら、勇者は秘密裏に彼女を助けるだろう。
あれは十数日間蛇尾族の少女を見続けた勇者の眼を見込んでの判断だった。
無論、勇者にそんな依頼は出されていない。
誰に託されずとも救うべき者を救うからこその勇者なのであるし、それで彼が動かなかったのであればやはり魔物の娘は人の街に招くべきではない厄災だったのだと、役人はそのように考えていた。
彼は少女が自力で黒竜を討伐できる等とは予想だにしていなかった。
勇者は堪えた笑いの余韻がようやく収まると間違いを指摘するように付け加えた。
「役人殿、あの子は化け物だよ。子ども相手とはいえ人間の背骨をうっかりでへし折るような生物が化け物でない筈がないだろう? ただあの子は、本心から人に歩み寄ろうとしてくれる化け物だった。それだけの話さ」
冷徹に現実を見据えた文言を紡ぐその声はしかし実に親しみに溢れたものだった。
「それにしても、役人殿のそれほど驚く顔が見られるとは。あの子の不器用なおべっかは案外貴方にも効いていたのかもしれない」
「…………なるほど。私もまだ未熟ということか」
常と真一文字に引かれて石のように不動だった役人の口端がわずかに緩んだ。
「さて。用件も済んだことだ。俺はそろそろ失礼させてもらうよ。エルシィさん達からセレンちゃんの祝宴に招かれていてね」
外套を翻して立ち去ろうとする勇者に役人は一言。
「ああ、それならばこちらを預かってはくださいませぬか。ここで埃を被るままにさせておくよりはまだローラント殿に申し訳も立ちましょう」
振り返った勇者に差し出された物は蜂蜜色の液体が揺れる酒瓶である。
「これはありがたい! では、エルシィさん達にはアルフレート殿からの祝いの品だと伝えておこう!」
「………………それは、要らぬ誤解を招くのでは?」
懐に酒瓶を仕舞いこんだ勇者へ役人は心配気味に言葉を添えるのであった。