第129話 勇者の問い
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灯りのない執務室に月光が射している。
百と数日前、王都より遣わされこの街へ来た役人は窓辺に立って星々を見上げていた。
片手に掲げられたグラスの中では蜂蜜色の液体が星の光に透き通っている。
魔王軍襲来の折には防衛設備として機能する市庁舎にて仮の執務室を置いていたが、役人が平時駐留する監察舎二階に位置するこの部屋は息苦しくなるようなあの執務室に比べればずっと広々として開放的だった。
蛇尾族の娘に纏わる一件がひとまず落着したため、彼は此度の任を解かれ王都へ戻る運びとなった。
執務机に置かれた酒瓶は街を離れるにあたって市長より贈られた餞別である。
彼は無感動な瞳でしばし美酒を見つめた後、月夜に掲げるグラスを傾けた。
そこへ、石の扉の開く音があった。
「おっと、これは失礼。役人殿も一息ついておられるところだったかな?」
広くはない執務室に足を踏み入れた男は勇者だった。
彼は王都の役人相手にも飄々として態度を変えず、常の笑顔を絶やさない。
「しかし貴方も変わった趣味をお持ちらしい。折角の上等酒を大地の肥やしにしてしまうなんて、うちの酒豪が聞いたら目を剥いて嘆くに違いない」
役人は、グラスに口を付けていなかった。
透き通るグラスの中身は空になっていた。
「これは、見苦しい所を見られてしまったらしい……ローラント殿には申し訳ないが、酒類に溺れた時がこの身の引き際だと心得ております」
役人は勇者の言葉を気にした風もなくそのように告白した。
「相変わらず真面目一辺倒なお人だ。一杯くらい引っ掛けたって罰は当たらないだろうに。それはそれとして、このタイミングで俺が呼ばれたということは、あの二人はこの街に残れると決まった――――そう解釈していいのかな?」
「左様にございます。勇者殿はこの先もシルトに駐留していただきたい。娘が健在である限り竜の男がこちらに牙を剝くことはないとの判断ですが、万が一の場合に備えた抑止力を欠かすことはできませぬ」
「俺としても断る理由はないさ。この街での生活は気に入っていた所だからね」
元よりこの投票で決まるのは少女の市民権であって竜人には関わりのないことだった。
即ち、彼は結果の如何に関わらず投票が終わってしまえば街を出る筈だった。
それが覆ったのは竜人が魔王軍の将を撃退した功績を認められた故のことになる。
「あの子は何も知らないからね。竜人君には俺の方からうまく伝えておくとしよう」
律儀にそんなことを報告した勇者は、ところで、と付け加えて話題を変えた。
「実のところ、今回の票決は茶番だったんじゃないかい?」
役人の眉がわずかに動いた。
「それは――――何を根拠に?」