第106話 出会い
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頑強な地下牢の中で、泥塗れの幼い少女が母の亡骸に縋りついて泣いていた。
土気色の遺体は、髪を毟られ頭皮を剥き出し、目玉が刳り貫かれ眼窩に虚ろな闇を湛えている。
どす黒い血の跡を残す十本の指先は痛々しく、生気のない肌を腰より下れば不気味な色合いの肉が蛇の尾のように伸びている。
子を愛する母の面影はなく、裸の輪郭に辛うじて女性らしさの残骸を残すのみだった。
少女はまだ平凡な日々に在ればどこへ行くにも親の後をついて離れぬ年頃である。
狭い牢内の空気はじめじめとして、暗く、薄闇の中には腐臭が漂う。
そこに幽鬼の如く血に塗れた一人の男が現われた。
全身に鎧のような鱗を纏う巨漢の竜人である。
赤い剛腕が苦もなく鉄の檻を捻じ曲げ金属の鈍い悲鳴に少女はばっと顔を上げる。
「だれ!?」
檻の中へ踏み込む逞しい脚が少女の視界に映った。
「……やめて、まって! 剥がさないで‼ いやあぁ!」
少女は尾っぽをのたくらせて石の壁に背中を押し付けて、あどけない顔を必死の形相に歪めて叫んだ。
男は彼女の懇願など耳に届かぬ顔で裸の少女をじっと眺める。
涙に濡れて輝く宝石のような瞳。氷を編んだような長く透き通る髪。竜の鱗にも劣らない光沢を放つ流麗な尻尾。泥に汚れた裸身の合間から覗く白い肌は、雪のように柔い繊細さを伴っている。
男は、ほぅと一つ息を吐いた。
「……美しい。これが、王の求める宝か」
少女の顔立ちは整っていたし、汚れた姿でも尚いずれ世に稀有な麗しい娘に育つ素養がはっきり見て取れたが、深緑色の眼差しはけして幼い裸体に男を誘惑する色香の類を見出したのではない。
少女に向けられる男の目が湛える感動は、たとえるなら箱の中に収められた美麗なる宝石を見つけた時と寸分違わぬものであった。
男は泥が敷き詰められた檻の床を踏みしめ、怯える少女に一切躊躇うことなく、小さく華奢な肢体に触れ得る至近まで歩を進めた。
少女はこの男を知らない。
牢の中に囚われた永い日々の中で初めて見る顔だった。
それでも、彼女は男を敵以外の何者かだとは考えない。
少女の警戒は正しかった。
鋭い瞳が少女を見下ろし、運命を宣告した。
「最後の蛇尾族よ、俺は王命によってここへ遣わされた。王は其方の目玉を刳り貫いて指輪を作りたいそうだ」
男の長く鋭い爪に視線を釘付けながら少女は身を震わせた。
「徒に苦しめはせぬ。首だけ持ち帰ればよいとの仰せだ」
その一言が、一体少女に何を思わせたのか。
怯えていた筈の少女は徐に立ち上がると男を見上げた。
幼い少女の肢体は赤い巨躯の腰にも及ばない。
少女は男に問いかける。
希望と呼ぶには、あまりに昏く切ない期待を美しい瞳に灯して。
希うように。
「すぐ、終わる?」
「無論だ」
淡泊な男の返答。
少女は諦観と終焉の安寧に愛らしい顔を弛緩させながら、ただ一言。
「……なら、もう、いい」
上向けられた少女の首は、男がいつでも手にかけられるよう差し出されていた。
生きていたって、未来に待ち受けるは苦痛ばかり。
この地獄から逃れられるのなら終わってしまってもいいと、彼女は思った。
だというのに。
「潔い娘だ。では疾く楽に――――――」
男は感心の言葉と共に片腕を上げかけ、そのまま静止した。
もの凄い剣幕でかっと目を瞠って少女の瞳を見つめたまま微動だにせず、言葉さえ発さない。
余人が聞けば、あまりにも捻りのない与太話と蔑むだろう。
城から遣わされた王の腹心が斯様に易く鞍替えしてなるものかと一笑されるに違いない。
しかしこの時こそが男と少女の運命の分岐点。
遥か昔に交わされたとある少年の約束が別なる無垢の未来を孕んだ瞬間だった。
「………………?」
少女が微かに眉を動かした時、彼は唐突に天をも突く大音声で宣言した。
「気が変わった‼ その命、ここで散らしてしまうのはあまりに惜しい! 蛇尾族の子よ! 俺が其方の竜となろう!!」