第105話 獣の一矢
空を裂く手刀は少女の白い左胸の微かな膨らみ、その真下を穿たんと矢のように降る。
少女はただ、気の遠くなりそうな恐怖と興奮の中で大きく目を瞠って迫る凶器を見つめている。
広げられた両腕は意地でも下げまいとそのままで、柔らかい身を守る自慢の尻尾は怖気に凍り付いてしまったのかぴくりとも上がらない。
少女の小さな胸に紅い風穴が開くのは残酷にして必定の運命。
ただ――――魔物は一つ忘れている。
少女は獣である。
薄弱な人の幼子ではない。
まして傷ついた己の核を庇う手負いの獣だ。
力ある狩人ほど、往々にして忘れがちである。
たとえそれが小動物であれ、時に手負いの獣より恐ろしい相手などいないということを。
獣が死の恐怖如きで生命を放棄するなどあり得ない。
にも関わらず、その少女《獣》が何の抵抗もなく運命を受け入れようとしているのなら、
それは、何らかの罠であると考えなければならない。
研ぎ澄まされた怜悧な意識の中。
見開かれた瑠璃の両眼は全神経を駆動して標的の軌道を見極める。
潰れてしまいそうに脈打つ心音を耳に、少女は待ちわびた好機を見出す。
風切り音すら伴って小さな心臓へ堕ちようとする無慈悲な手刀。
白い軌跡が彼女の鼻先を通過するその刹那――――
頑なに閉じられていた犬歯のはみ出す唇が初めて開いた。
首の骨が保つ限界速度で突き出される少女の頭。
標的は過たずして小さな口内に捉えられ、
「ぬうっ!?」
少女の顎が魔物の左手に喰らいついた。
閉じられた顎の中で鋸の如し歯《刃》が蒼白の魔手に深々と突き刺さる。
魔物は想像もしない反撃に驚愕し、強引に手を引きぬいて再び目を瞠った。
「これは……胃酸、ではない?」
少女に噛まれた左手はぬらりとした緑色の液体に塗れていた。
荒い息を吐いて魔物を見る少女の唇の端からも同じ液体がたらたらと伝っている。
「何だこれは!? 蛇尾族は毒など持たなかった筈!! ……ぐうっ!?」
途端、魔物が左腕を抑えて眉を歪めた。
青白い肌の上で肥大した血管が紫色にのたくり、這うように広がってゆく。
奇怪な異常の原点は少女の歯が突き刺さった傷痕にある。
魔物の言葉通り、蛇尾族に毒はない。
大抵の物体を溶かす胃酸で身を守ることはあっても、生き物にこのような影響を与える術は蛇尾族の肉体にない。
少女は覚えていた。
まだ街に住んで日の浅い頃、少年を殺めかけた彼女に迫られた二択。
毒薬の実験台になるか、竜と戦うか。
忘れられる筈もない恐怖の記憶だった。
でも、だからこそ彼女には選択肢があった。
少女は安全な勇者の傍らを離れて真っ直ぐここへ来たのではない。
彼女は毒薬を手に入れる為もう一度役人のところへ向かったのだ。
自分一人が駆けつけたところで無力なことを、知っているから。
ここまで戻って惨状を目の当たりにした少女は、手にした小瓶の中身を迷わず唇に流し込んで、器を棄て、飲み込まないよう肝に命じながら、魔物の前に飛び出した。
彼女は自分の弱さをよく分かっている。
無防備に身を晒せば、きっと敵は油断の内に自ら近づいてくると考えた。
これは、追い詰められた少女の最期の無謀な抵抗。
どれほど必死に足掻いたところで運命は残酷で無慈悲だということもまた、少女は嫌というほど知っている。
「貴ッッッッ様アアアアアアアああああああああああああああ! 何をしたあああああああああああああああああああああ!!」
激昂する魔物。
右腕で無造作に振るわれる白骨色の大剣。
全魂を込めた直後の少女に余力はなく。
斬られる。
彼女が悟った時には、刃が腹に触れていた。
「ぅあ」
大剣が少女の腹にずぶりと沈み込む。
竜の鱗さえ切断する刃が白く滑らかな脇腹から差し込まれて、柔らかい肉を抵抗なく綺麗に裂いて、真っ赤な果実を握りつぶしたような飛沫を散らしてゆく。
死の予兆に震える心。
小さな胸を満たす取り返しのつかない絶望。
苦しみを受け入れる恐怖で埋められてゆく瑠璃色の瞳は、縋りつくように。
かつて檻の中で泣く幼い命を奪いにきた赤い竜との出会いの記憶を映し出していた。