第100話 始まる逃走劇
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薄暗い路地の中。
男達は覚悟を決めた形相で武器を携えていた。
「俺は戦うぞ。まだ見下ろすような丈の坊主でさえセレンちゃんの為に命張って鍋に飛び込もうとしたんだ。セレンちゃんの親衛隊として負けてられねえ」
「俺も」
「僕もだ」
「俺だって」
まるで死地に向かうような悲壮さを伴う決意の言葉。
エルシィや少年、他の皆も彼らの後方に負けじとくっついている。
一団の中心で少女はクリストフに背負われおっかなびっくり辺りを見回している。
もう、他に選択肢はなかった。
破裂する間際まで張り詰めたような緊迫の空気が、路地の向こうに現れた月光色の視線に突き刺されて弾け飛んだ。
「「突っ込めええええええええええええええええええええええ!!」」
男達の号令と共に一団は駆け出す。
武の鍛錬など行ったこともない男達がただ勢いと数だけを頼りに魔獣共に突撃してゆく。
路地を覗いた一匹は数の暴力に蹂躙され果てたが、暗く細い道を出てしまえば立場は逆転する。
せいぜいが数十人程度の一団を遥かに上回る数百の獣共が寄り集まって来る。その獣共さえ簡単に喰らい裂きそうな四ツ目の黒獣が姿を現わす。
勝てる訳がない。
生き残れる訳がない。
肉を裂かれ、骨を砕かれ、後に残るは血だまりに沈む数十の遺骸のみ。
それ以外の末路などあり得よう筈もないのに人々は血を流しながら抗い続ける。
斧を振り、棍棒を叩きつけ、剣を薙ぐ。
大の大人を優に越す黒獣には数人がかりで突進して少女の元へ爪牙が届くのを抑え込む。流れる血は彼らのものばかりで、巨体には傷の一つもつかない。
それでも、ただこの一瞬を繋ぎ止める為だけに散っても構わないと言わんばかりの威勢で立ちはだかり続ける。
「セレンちゃんの為に流す血なら俺達は本望だ!」
「今こそセレンちゃんに我が愛を示す時!」
疲弊し、傷つき、息を荒げ、血に塗れゆく男達。
ろくに獣を殺したこともないのに少女の為に戦ってくれる男達。
血雫が宙を舞うごとにクリストフの背中で少女は眉根を寄せて悲しそうである。
こんなことを続けていたら親衛隊の男達だってきっともうじき滑稽な戯言を宣う余力すらなくなる。
少女とクリストフの傍らで最後の砦として黒塗りの短刀を振るう黒衣の二人も前線で戦う男達を守る程の余力はない。
その時、彼らの頭上に淡い緑色の光が注いだ。
果敢に戦っていた男共が一斉に仰ぐ。
闇色の夜空に大きな水の球体が浮いていた。
中心では翡翠色の鉱石が輝いており、やってきた方角は整列する狼共が守る水路の側だ。
「皆さん! 遅くなってしまってごめんなさい!」
男共と魔獣共の争乱繰り広げられるすぐ傍にある家屋の二階。
その窓から小さく顔を出したエルシィが呼びかけた。隣では金髪の少年が水球の輝きと同じ色彩の鉱石が据えられた杖を振っている。
水の中で少女を捕えることは至難の業。
水路が使えないのなら水場を作ってしまえばいい。
それが、少女を逃がす為に彼らが見出した唯一の選択肢である。
無謀にも魔獣共に突撃していった男達の役割は、以前に少女の公演で使われた魔術具を用いてエルシィ達が水球を生成するまでの時間を稼ぐことだった。
水球の中心にある水霊石と呼ばれる魔術具には水と風の精が封じられており、水中へ投げ込み杖の石へ念じれば水を集めて浮遊する水球が生成される。
ただし、巨大な水球の生成と移動は緩慢だ。
故に彼らは完成まで少女を守護する盾となる必要があった。
宙を揺蕩いながら少女の元へ舞い降りてゆく輝きの水球。
獣共にこれを阻むこと能わず、ならばと少女を狩らんとする爪牙に気迫が込もるが、彼女の壁となる男共とてこの大一番で押される程に軟弱ではない。
彼らは鬨の声と共に得物を振り回し、この一時、勇猛な戦士の如く獣共の行く手を阻む。
「行け! セレン!」
少女を背から降ろしたクリストフが叫ぶ。
「うん!」
はらりとぼろ布を脱ぎ去った白い体が勢いよく跳ねる。
柔らかい水の球面が突き破られ飛沫が散った。