第八章 本能寺の変⑯
姫路城。秀吉はすべての金銀を均等に配布すると、裸一貫で京へ駆け上った。そこで、忠繁の手紙にあった通り山崎に陣を構えた。この戦いでは、織田家家臣の丹羽長秀、池田恒興をはじめ、光秀の与力であった中川清秀や高山右近までも秀吉の味方に付き、山崎に布陣する時には二五〇〇〇もの大軍になった。それに対する光秀は一三〇〇〇。秀吉の戻りがあまりに早かったために、禁裏は天下人であると発表した後に光秀が敗れると公家の存在が危うくなるため、発表を中止し、酷い話で、正親町天皇も禁裏の中において、光秀を援護するような声明は一切出さなかった。
光秀が援軍を求めていた親友、細川藤孝も忠興に命じて、光秀の娘で正室の玉を幽閉すると、信長を弔って剃髪して細川幽斎を名乗り、忠興に家督を譲ると、そのまま動こうとはしなかった。また、当初は味方をすると表明していた筒井順慶も、秀吉の進軍を聞きつけると態度を硬化した。
「はは、誰も、来ぬか・・・。」
光秀はそう呟くと寂しそうに笑った。目の前に迫った秀吉の大軍を前に、呆然とするしかなかった。光秀の計算では、正式に正親町天皇から光秀が天下人であることを公表し、官位を与えられ、それを持って近隣諸国を従えさせる算段だった。しかし、秀吉の早すぎる大返しにすべての計算が狂ったのだ。
「殿、しっかりなさいませ。山崎口なら大軍は通れません。そこで迎え討ちましょう、天王山を取れば、上から羽柴勢に攻撃が可能です。」
「・・・そうじゃな。よし、天王山へ兵を進めよ。」
「はっ。」
光秀達が考えたように、秀吉も忠繁の手紙に基づいて山崎に布陣したが、天王山がカギを握るとして攻め上った。両軍我先にと頂上を目指したが、一足先に官兵衛と秀長が山頂に到達すると、まだ登りきっていない明智勢に向けて鉄砲や弓矢、手持ちのない者は手当たり次第に石を投げ、これを攻撃した。
そして、秀吉の別動隊が側面から光秀本陣を攻め始めると、とうとう明智勢は天王山を諦めて本陣の救援に戻った。これにより大勢は一気に決し、光秀はあっけなく敗走する。後に『天下分け目の天王山』の語源となった戦いである。
光秀は、一度は勝龍寺城での防戦を考えたが、自軍が入るには小城であったため、ここでの防衛を諦め、居城である坂本城を目指していた。光秀は、配下の藤田行政と馬を並べて、また、その傍らには、溝尾庄兵衛茂朝が槍を杖代わりに突きながら歩いていた。本能寺を囲んだ時には総勢一三〇〇〇の大軍勢だったが、この時には兵士達の士気は下がり、脱落者や逃亡者が相次いだ。今、光秀に従っているのは七〇〇名あまりの兵士に過ぎない。
「殿、坂本はもうすぐです。気をしっかり持ってくだされ。」
「・・・。」
行政はそう言って励ましたが、光秀は言葉も出せないほど憔悴しきっていた。それにしても予想外の秀吉の大返しだった。あまりにも早すぎたのだ。ここまでの光秀の経験など何も発揮できず、気が付けば勝敗が決していた。
「わしは、なぜ信長様を討ってしまったんだろうな。」
光秀はそう言いながらふと周囲を見渡した。
「伝五(行政のこと)、ここはどのあたりじゃ。」
「京の南東、小栗栖辺りにございます。」
行政の言葉に光秀ははっと思いだした。忠繁は『小栗栖に気を付けろ。』と言っていた。
「伝五、周囲に気を付けよ。」
そう指示をした時、竹林の中からぞろぞろと農民達が現れた。その手には、鍬や鋤と言った農工具だけでなく、刀や竹槍を持った者もいた。茂朝は光秀の前に歩み出て、農民達を一喝した。
「貴様ら、明智光秀様と知っての狼藉か。光秀様の仁政に世話になった者はおらぬのか!!」
「黙れ! いくら仁政を施したからと言って、謀反をするような反逆者に情けはかけられねぇ!」
茂朝の言葉に、農民達が切り返してきた。
「殿、お逃げくだされ! 坂本へ!!」
そう叫び、茂朝は農民達に斬りかかっていった。光秀は群がってくる農民達に馬上から刀を振るって斬り倒していった。その様子を見ていた行政は、
「やぁ! 茂朝、行政。両名とも大儀である。農民ども、わしが明智日向守光秀じゃ。貴様ら共にくれてやる首などはない。覚悟いたせ!!」
光秀の替え玉として名を名乗った行政は、刀を抜いて農民に斬りかかった。そして振り返ると、
「行け! 坂本へ!!」
光秀にそう言うと下馬し、農民達の群れへ突っ込んでいった。光秀は他の兵士達に連れられてその場を離れようとしたが、
「うぐっ!」
まさに馬で駈け出そうとした瞬間、腰元に激痛が走った。光秀が振り返ると、農民の竹やりが腰を捕らえていた。光秀はその農民を斬り伏せると、馬から滑るように落馬した。
「無念じゃ。煕子、笑って迎えておくれよ・・・。」
光秀の視界を闇が包み、やがて飲み込まれていった。こうして本能寺においての決起は失敗に終わり、本能寺の変からわずか一三日後に、明智光秀は天下を失うことになる。秀吉の大返しが早すぎたのか、決起の前に周辺の有力者達に協力を求めなかったからか、あまりに短い光秀の天下は、後に『三日天下』という不名誉な言葉として残っていく。
そして時は流れた・・・。
本能寺の変、山崎の合戦が終わった後、秀吉は忠繁の手紙の通り、清須会議で三法師を織田家の後継者に決め、その後見人となって実権を握った。対立していた柴田勝家を越前北ノ庄城に破ると、天正一三年(一五八五年)に関白宣下を受け、翌年には正親町天皇より豊臣姓を賜り太政大臣に就任する。それからも各地を奮戦し、とうとう天正一九年(一五九一年)に天下統一を成し遂げた。秀吉は忠繁からの指示を良く守り、度重なる重圧にも負けずに短気を押さえ、各国を殲滅することなく寛容に従えさせ、多くの大名を助命した。
秀吉の死後、その後継を誰が務めていくかで対立が深まり、二人の後継者が旗を上げた。豊臣派の石田治部少輔三成と大納言徳川家康である。統一された日本を東西に真っ二つに分け、慶長五年(一六〇〇年)九月、関ヶ原にて両者は雌雄を決し、これに勝利した家康は慶長八年(一六〇三年)に征夷大将軍に任じられると江戸幕府を開き、事実上秀吉の築いた天下太平を引き継ぐ。その後、慶長一九年(一六一四年)の大坂冬の陣、翌年の夏の陣で豊臣一族を滅ぼし、ここに二五〇年続く徳川政権を確立したのである。
信長と忠繁の目指した天下太平が、ようやく実現したのである。
慶長二〇年(一六一五年)初冬の駿府城。徳川家康は城の天守から駿河の街並みを眺めていた。今日はよく晴れ、遠くまで見えて富士山がきれいだった。家康は火鉢をかきまぜ、火を強めた。
「大御所様。何か嬉しそうですな。」
法衣を着た老僧が声をかけてきた。南光坊天海(なんこうぼうてんかい)、家康の参謀役であり、全幅の信頼を置いていた。この頃の家康は、征夷大将軍を嫡男である秀忠(とくがわひでただ)に譲り二代将軍とし、徳川政権を盤石のものとしていた。
「かつて、武田家を滅ぼした信長公がこの地へやってきた時にな、共に富士を眺めて茶会を開いた。お互いに、信玄公には散々苦しめられたからのぅ。」
「そうでしたか。」
「そうそう、あの時は信長公の軍師殿も一緒じゃった。お主も知っておろう、霞北忠繁殿じゃ。」
家康はそう言うと、茶を飲み、菓子を口にした。
「忠繁殿、懐かしゅうございますな。」
「そうじゃのう。三方ヶ原で惨敗したわしを、あの男は叩いて元気付けてくれた。忘れもせぬ。そなたのことも、まさか本当に来るとは思わなんだ。」
家康はそう言うと、棚の木箱から一枚の書状を取り出した。その書状は古いものなのか色は褪せていて、ところどころ穴が開いていた。
「おやおや。しまいっぱなしにしておったら、虫に喰われてしまったか。」
家康はそう言ってほほ笑むと、再び火鉢の前に腰を下ろし、書状を眺めた。
『先日は安土にお立ち寄りいただきありがとうございました。
今回は、私が家康様に送る最後のお手紙となりそうです。
ここに書く内容は、信じられないかもしれないですが、すべて事実です。
それを踏まえて、よくお考えいただき、
これからご尽力いただきたくお願い申し上げます。
六月二日早朝、京・本能寺において、
信長様と信忠様は明智日向守様の謀反に遭い、亡くなられます。
私は最後まで信長様の軍師としてご一緒いたします。
この手紙を家康様がご覧になる時には、
すでにすべてが終わり、私も生きてはいないでしょう。
この後、織田家は羽柴筑前守様が実権を握り、やがて天下を統一されます。
しかし、筑前守様亡き後、天下の実権を取るのは家康様です。
家康様は忍耐のお方ですので、
秀吉様政権下でもじっくり腰を据えて短慮はなさらず、
秀吉様が亡くなられた後に天下をお取りください。
そして、信長様が目指した戦のない世をお作りください。
私から家康様にいくつかお話しておきたいことがございます。
どうか、お聞き届けいただきますようお願い申し上げます。
いつか、家康様の元にある人物がうかがうかもしれません。
その御仁は織田家でも最上位の立場にいた方です。
生真面目すぎるがゆえに、正親町天皇の勅命を断れず、
謀反人の汚名を着せられた方ですが、この方の政治手腕は天下一です。
必ず重用し、太平の国造りに加えていただきますよう、
重ねてお願い申し上げます。
もう一つは、安土に残した我が妻子のことです。
筑前守様へも書状を出しておりますが、
筑前守様亡き後、我が妻子の面倒を見ていただければ幸いです。
誠にぶしつけなお願いながら、
お聞き届けいただきますようお願い申し上げます。
最後に、三方ヶ原の折、
他家の私を信用いただき誠にありがとうございました。
そして、浜松城でいただいた味噌握り、大変美味しゅうございました。
あの味が、
家康様の治世と太平の世でも伝わっていくように願っております。
追伸 この手紙は、後世に残らぬように焼却してくださいますよう、
お願い申し上げます。
天正一〇年六月一日
右近衛少将 霞北忠繁
親愛なる徳川三河守家康様』
家康は懐かしそうにその手紙を読んだ。
「この手紙を読んだ時は、何のことだかさっぱりわからなかったが、本能寺で信長公が討たれ、秀吉殿が天下を取られた時に、ああ、これは忠繁殿が予言をされたんじゃなと気が付いた。そして、時は流れて御坊が来られた。」
「小栗栖を脱した拙僧は、坂本城下のはずれの家で目を覚ましました。落ちぶれた医者の家で、私を懸命に看護してくれましたな。それから名を変え、各地を放浪し、僧となって大御所様の所へ参りました。」
天海はそう言うと腰のあたりをさすった。
「驚きましたぞ。山崎で敗れ、小栗栖で討たれたと聞いていた光秀殿が来たのじゃからな。」
「大御所、その名前はもう捨てたものです。」
「ははは、そうじゃったそうじゃった。」
家康は楽しそうに笑った。小栗栖で落馬した後、光秀は農民達を退けた茂朝によって運ばれた。回復した光秀は、匿ってくれた医者に頼んで髪を剃り、修行僧として各地を放浪した。いつしか天海と名乗るようになり、秀吉が天下統一後、信長の果たせなかった夢を描いて明へ渡ることを聞き、北へ北へと逃れていったのだ。
そして、秀吉が死に、関ヶ原の戦いが終わって天下が家康の手中に収まると、再び南へ進路を取り、江戸幕府を開いた家康の元を訪ねたのだ。家康は忠繁の手紙の通りに光秀が現れたため、旧交を重んじて快く受け入れた。当然、光秀の名は出せないので天海として。
「さて、忠繁殿の言うとおりになって、わしは天下を治めた。最後に指示通り、この書状を焼くとしようかの。」
家康はそう言うと、火鉢に手紙を突っ込んだ。火鉢の熱はすぐに燃え移り、あっという間に手紙は灰になって消えた。
「御坊、一つ疑問に思っていたことがあるのじゃが。本能寺の前に連歌の会で詠んだ句、あれはやはり決起を詠ったものじゃったか?」
灰になった手紙を見届けると、天海は静かに首を振った。
「いいえ。時は今、天が下しる、五月かな。紹巴殿は、土岐家は天下を取るため今まさに立つ。と詠んだようですが、そうではございません。土岐は今、勅命によって涙を流しながら信長様を討つ、涙を流すのは信長様も同じか。という意味にございました。」
「おお、そうかそうか。なるほどのぅ。」
時は土岐家、光秀ゆかりの家であり、天が下しるは天皇からの下命と流す涙を意味し、五月は瓜のできる時期、織田家の家紋、織田木瓜(おだもっこう)にかけたのだ。勅命が下された以上、本能寺の変は致し方のないことで、光秀も信長も泣くしかなかったという意味だった。
「霞北忠繁。あの者はなんじゃったのかのう。」
「ええ、不思議な御仁でございましたな。」
その時、駿府の天守を一吹きの突風が突き抜けていった。それは、火鉢の灰を巻き上げ、太平の空高く舞い上がっていった。その先には、あの日、信長と忠繁が見たのと同じように、天高く富士がそびえ立っていた。信長、光秀、秀吉、家康。そして忠繁。多くの者が戦国を駆け抜けたが、それにどんな意味があったのであろうか、富士は黙して語らなかった。
続く。
ここまでお読みいただきありがとうございます\(^o^)/
「面白い!」「続き読んでもいいぞ!」という方は、
ぜひ高評価お願いいたします!
ここまでお読みいただきありがとうございました。
信長の想いは秀吉、そして家康に引き継がれ、
太平の世へ繋がっていきました。
光秀も、家康の下で一役買っていたことでしょう。
第八章はここで終わりますが、物語はもう少しだけ続きます。
次回、終章「時空を戻して」
どうぞ最後までお付き合いください。
水野忠




