第八章 本能寺の変⑫
少しの間、二人に沈黙が続いた。天守閣に入ってくる涼やかな夜風が二人の間を通過していった。何度考えても、信長の言った言葉の意味が飲み込めずに、忠繁は信長の顔を見上げた。信長は相変わらず安土城下を見下ろしていたが、淡々と話し始めた。
「最初は八歳の時じゃったな。尾張の川で泳いでいた時に深みにはまっておぼれて死んだ。それが一回目じゃ。気が付くと、余は生まれ変わって乳母に抱かれていた。二度目は一三歳の時、元服してすぐ吉良大浜に初陣したが、焼き働きをしている時に今川兵と鉢合ってな、囲まれて槍で突かれて死んだ。三度目は二十歳の時じゃ、清州の織田達勝(おだたつかつ。大和守、当時の尾張守護代)との戦に負けて首を討たれた。」
何の話かと意味を飲み込めなかった忠繁だったが、信長の話を聞くうちに、信長自身が何度も死んで、そのたびに転生して人生をやり直してきたのだということを知った。四度目は稲生の戦いで弟の信行に負けて討たれた。
「それから八回じゃ。八回続けて今川義元に殺されたのじゃ。籠城もした。討って出ることもした。一度は降伏したこともあった。だが、最後には必ず義元に殺されたのじゃ。」
信長は、悔しそうにこぶしを握り締めた。
「信長様は、何度もご自身の人生をやり直し続けてこられた。」
「そうじゃ。今回も、義元に殺されるのであろうと思った時じゃ。忠繁、お主が現れた。必勝の策で、わしを義元に勝たせてくれた。そして、おまえは織田家に仕えるようになり、領地を栄えさせ、戦ではそのたぐいまれな戦略で織田家を勝利に導いてきた。」
握ったこぶしを突き上げるように伸ばすと、
「余の人生はおまえが切り開いてくれたのじゃ!」
そう言って忠繁を指差した。その時、忠繁はかつて桶狭間の前、信長が消極的で大人しい性格であったと帰蝶が話していたことを思い出した。八回も殺され続け、諦観の境地にいたのかもしれなかった。
この時の信長の顔は、とてもすがすがしい笑顔だった。何か吹っ切れたような、覚悟を決めた眼をしていた。
「だからこそ、余は本能寺へ行く。そして、見事光秀に討たれてみせようぞ。」
「お待ちください。今なら、私の知る歴史を変えることができます。上様の天下を作ることができます。」
「・・・そうかもしれぬ。しかし、よいのじゃ。」
信長は立ち上がると、天守閣の棚に置いてあった扇子を取り出した。そして、おもむろにその扇子を開くと、信長はにこやかな表情で舞い始めた。
思へばこの世は常の住み家にあらず。
草葉に置く白露、水に宿る月よりなおあやし。
金谷に花を詠じ、栄花は先立つて、無常の風に誘わるる。
南楼の月を弄ぶ輩も、月に先立つて有為の雲に隠れり。
人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ。
【訳】
思えばこの世は無常である。
草葉に付いた水滴や、水に映る月よりも儚いものだ。
晋で栄華を極めた金谷園(きんこくえん。中国の富豪)も風に散り、
四川・南楼の月に興じる者も、変わりゆく雲に覆われ姿を消していった。
人間界の五〇年など、
下天(仏教の世界の一つ)での時の流れと比べれば、夢や幻も同然。
ひとたび生まれたからには、滅びないものなどあるはずがない。
これを悟りの境地と考えないのは、まったくなんと情けないことだろう。
信長が好んでよく舞ったと言われる幸若舞『敦盛』だ。思えば、この時代に来て、信長が敦盛を舞うのを忠繁は初めて見た。それは、儚げでありながら力強く、そして、信長の人生観そのもののように思えた。
「三〇〇年じゃ、何度も死と生を繰り返すこと一三度。足掻いても、足掻いても殺され続けた余が、一度くらいは自分の望む時と場所で死にたいのじゃ。本能寺でわしが死ぬことで、忠繁、そなたの生まれたような戦のない世に繋がっていくのなら、余は喜んで光秀に討たれようぞ。」
そう言って笑う信長を見て、ようやく忠繁は信長の気持ちがわかった。信長が目指したのは、他国に侵略されない強い日本を作ること。日本が世界の列強各国に通用する国にすることだ。令和の日本は、忠繁のいた日本は、まさしく他国に侵略をさせない国になっている。信長の性格からすれば、たとえ自分が達成しなくとも、自分の目指した世界に繋がればそれでいいと考えるはずだった。
「上様、それならば、この忠繁も・・・。」
「おまえは安土に残れ。」
「上様!」
「できれば元の時代に返してやりたいが、その方法はわからぬ。しかし、この後の歴史を知っておるおぬしであれば、秀吉の時代になろうと、家康の時代になろうと生きていけるであろう。余がおまえに課す最後の命じゃ、生きて時代を駆け抜けよ。」
それ以上は、信長も忠繁も何も言葉が出なかった。信長は棚から酒を取り出すと
「思えば、忠繁と二人で飲むことは少なかったな。付き合え。」
そう言って盃を渡すと注いでくれた。それからも、信長は未来の話を聞きたがり、携帯電話で二人並んで写メを撮ったり、保存されていた令和の音楽を聴いたり、忠繁の家族や友人達の写真を見ては、それが何なのか聞いてきた。一つ、また一つと未来の真実を聞くたびに、信長は嬉しそうに笑い、自分の目で見てみたいと願った。
翌朝。気が付くと、忠繁は天守閣に一人残されていた。風邪を引かないようにと信長がかけてくれたのか、小袖がかけてあった。
「・・・上様は?」
辺りを見回したが、外から暖かな日差しが差し込んでくる以外は、誰の姿もなかった。忠繁は飛び起きると天守から外を見た。だいぶ日が高い、昼前にはなっていようかという高さだった。
忠繁は天守閣を飛び出すと、外への階段を駆け下りた。途中、留守居の蒲生賢秀を見かけたため、信長の所在を確認した。
「賢秀殿。上様はどちらに?」
「上様でしたら、今朝方早くに京へ向かわれましたが。」
それを聞くと、忠繁は礼を言って再び駆け出した。馬舎から十六夜を曳き出すと、城を飛び出して京を目指そうとした。その時になって、忠繁は自分の懐に何か差し込まれていることに気が付いた。
街道で馬を止めると、懐に入っていた紙を取り出した。そして、それを広げると、信長の残したその言葉に忠繁は肩を落とした。
死のうは一定、
忍び草には何しよぞ、
一定語り遺すよの。
【訳】
この世に生まれしものは死にゆくのが定め、
それならば自分の生きた証を遺すには何をしようか、
遺せば後世の人が自分の生き様を語ってくれるだろう。
それは、信長が『敦盛』と並んで好んでよく歌った小唄の一節だ。どちらも人の一生は短い物だから、悔いの残らない生き方をしよう。というものだった。それは、信長の遺書ともとれる内容であった。信長は、忠繁のいた時代に繋がるために自ら本能寺での運命を受け入れたということだ。また、自分の生き様を忠繁が語っていくだろう。とも受け取れた。
忠繁はその手紙を懐にしまうと、肩を落としたまま屋敷に引き上げた。奥から心配そうに風花が駆け寄ってきた。
「忠繁様、信長様は?」
「本能寺へ、行かれてしまった。私は、結局何も変えることができなかった。」
土間に腰かけ、肩を落とす忠繁を、そっと風花は抱きしめた。
「忠繁様は頑張りました。信長様のために、これまで懸命に生きてこられたではないですか。見ず知らずのこの時代で、懸命に頑張ったではないですか。」
「風花。それでも私は、信長様に生きていってほしかった。たとえ歴史が変わっても、それで私が歴史というなにかに消される運命になったとしても、信長様に生きていってほしかった。」
涙は、出なかった。ただ、形容しがたい虚脱感と、焦燥感、頭の中は真っ白で、今、自分が何をするべきか何も浮かんでこなかった。
そんな忠繁に、
「まだ、できることはあるのではないですか?」
風花はそう言って笑って見せた。
「まだ、本能寺の変は起きていません。最後まで、足掻いて足搔いて、それでもダメなら、その時に最善と思える行動をすればいいのです。」
忠繁が振り返ると、風花は目に涙を浮かべて笑っていた。
「何度でも申し上げます。・・・あなた様は、信長様の軍師でございましょう。」
そう言った風花の頬を、一筋の涙が零れ落ちていった。風花は武家の妻として、最後まで忠節を尽くすように言っているのだ。その結果、夫が帰ってこなくなったとしても、武士の一分を立たせることが妻の役目であると考えているのだ。
「私は武家の妻、繁法師は武士の子です。」
心配するなという風花の言葉。
「繁法師はどうしている。」
「まだ、眠っています。あなた様が帰った時に見つけてもらいたいと、忠繁様のお部屋で休んでいます。」
忠繁は自室に行き、眠っている繁法師の髪を撫でた。また、少し身長が伸びたようだ。顔つきも男らしくなってきている。少し家を離れただけでも、男の子はどんどん成長していく。立派な大人になっていってくれるだろう。
「風花、これを。」
忠繁は腰から時霞を取り外すと、風花に渡した。
「繁法師に、持たせてやってほしい。信長様から賜った刀だ。霞北家の字を使って、信長様が『時霞』と名付けられた。」
「わかりました。」
忠繁はもう一度、繁法師の髪に触れ、そしてその頬にキスをした。そして、別れを済ませて外に出ると、繋いであった十六夜に乗馬した。
「風花、行ってくる。」
「はい。どうかご武運を。」
その言葉にうなずくと、思い出したように忠繁は口を開いた。
「・・・信繁。」
「え?」
「繁法師が元服したら、信繫と名付けてくれ。信長様の信と忠繁の繁だ。」
「信繁・・・。よい名にございます。」
風花の笑顔を見届けると、忠繁は十六夜の腹を蹴った。そして、あっという間に屋敷を出て、街道を駆け抜けていった。
風花は忠繁の姿が見えなくなるまで見送ると、繁法師の元に戻り、その寝顔を愛でながら涙を流した。繁法師を起こさないよう、声を押し殺して泣いた。
「忠繁様。本当は、風花はずっとずっと、一緒にいとうございました。女にとって主は誰でもいいのです。あなた様だけいてくれれば、風花は・・・。でも、仕方ありませんものね。あなたはすっかり織田家の武士、信長様の軍師なのですから。」
風花の涙は、堪えても堪えても溢れ続け、止まることはなかった。
「・・・母上?」
繁法師が目を覚まし、泣いている風花に驚いた。
「母上、どうなさったのですか? どこか痛いのですか?」
「繁法師。」
「私がついております。泣かないでくださいませ。」
そう言って風花を抱きしめ、髪を撫でてくれる繁法師に、風花は涙を止めることができなかった。
続く。
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信長の甦りの告白。
武家の妻としての風花の決意と涙。
忠繁の家族との別れ。
いろいろ詰まった今回でした。
次回は忠繁が決意を固めて動きます。
では、次回もよろしくお願いいたします。
水野忠




