第八章 本能寺の変②
本願寺鷺森別院。紀伊国(現在の和歌山県)の紀ノ川の近くに建てられ、現在でも和歌山市駅の目の前に残されている。
「ほぅ。顕如様が呼び付けたとおっしゃっておったが、本当に来るとはな。」
出迎えたのは本願寺の軍事司令官ともいえる下間頼廉であった。頼廉は石山本願寺にいた時は、その軍才を活かして散々織田勢を苦しめた。頭こそ坊主にしているものの、その身体付きや強面の顔付きは、およそ僧には似つかわしくないものだ。
「顕如様のご指名により参上いたしました。面会よろしいですか?」
「いいだろう。入れ。」
三人は頼廉に案内され、鷺森別院の敷地内に入った。敷地自体は広いものであったが、難攻不落だった石山本願寺に比べれば小規模で、川に近い以外は平地のために守りには向いていない。それは、これ以上本願寺が織田家と本格的に戦うことはできないであろうことを物語っていた。
本堂の隣、離れになっている建物に顕如はいた。障子が開け放たれ、中は丸見えだ。忠繁は周囲に目を配った。これだけ見通しが良ければ、雑賀の鉄砲衆が狙撃しようと待ち構えていてもおかしくない。しかし、そんな忠繁の心を見透かしたかのように、
「鉄砲隊などいませんよ。安心してお上がりなさい。」
顕如はそう言って微笑を浮かべた。顕如は僧にしては整った顔立ちをしている。忠繁は現代人がゆえにどうしても令和のファッションなどで考えてしまうが、今風の髪形にしてしゃれたジャケットでも着れば、IT企業の若き経営者のような風貌になるだろうと思った。今年三八歳になったはずだが、見た目も肌も若い。一〇は若く見えるだろう。しかし、講和の調停式の時よりは少しやつれたようにも見える。
「弥助、君は外で待っていてください。」
「ハイ、是非もなし。」
使い方が違うと苦笑いが出かかったが、ここは敵地、笑いを堪えた。
「失礼します。」
と、忠繁は宗久と二人で離れに上がった。
「面会をお許しいただきありがとうございます。」
「まさか、本当に来るとは思いませんでした。あなたは、思ったよりも馬鹿なのですか?」
「いえ。講和も成立し、顕如様はこの鷺森別院に移られました。本日は、双方に不正がないように今井宗久殿にもご同席いただいております。それに・・・。」
忠繁はそこまで言って弥助を見た。少し緊張しているようだったが、しっかり周囲の警戒はしている。信長の傍に仕えるようになって、少しは鍛えられてきたのだろう。
「私を害すれば、信長様が黙っておりません。石山本願寺と違って、ここでは大軍が攻め寄せればひとたまりもありませんでしょう。聡明な顕如様が、そのような愚行を犯すとは考えにくいと思います。」
忠繁のその言葉は的を射ていた。この平地の鷺森別院では、信長が本気で攻めてくれば、顕如はじめ、一人残らず討ち取られることだろう。
「ふふ。確かに、その通りですね。ここは戦いには向きませんよ。」
顕如はそう言うと、さっそく本題に入ってきた。
「織田殿の軍師ともあろう方が、講和が成立したとはいえ、ついこの間まで敵対していたこの本願寺に何用ですかな?」
「私がここへ来た理由は二つです。一つは、髭を蓄えた足の悪い老人について心当たりがないかどうか。もう一つは、本願寺家の家宝と言われた名茶器、影月はどうなさったのかということです。」
忠繁が切り出した途端、先程までの和やかな表情が崩れ、顕如は目を細め冷たい表情に変わった。お前がなぜそれを知っているのか、と、訝しるような眼だ。
顕如は静かに呼吸を整えると、一度手を顎に当て、何か言葉を選んでいるように見えた。忠繁がなぜそれを聞きに来たのか考えているようだ。それがわかったので、忠繁も先手を打つことにした。
「髭を蓄えた足の悪い老人。髭の老人、としましょうか。この者が何者かは不明ですが、少なくとも、この老人のおかげで、徳川信康殿は謀反を企み切腹し、荒木村重様は同じく有岡城で謀反を起こし、結果、家族を犠牲にして一人逃亡。佐久間信盛様は本願寺との内通を疑われ追放となりました。この髭の老人の企みを阻止せねば、信長公の天下統一は遠のいていくばかりです。」
その説明を受け、冷たい表情のまま顕如は尋ねた。
「その髭の老人とやらと、我が家宝の影月がどう関係するのか。」
「顕如様の影月は、当織田家の元にあります。」
「な、なんだと?」
「堺納屋衆を語った髭の老人が、慰労の品と称して信盛様に献上したそうです。本願寺家との講和が成立し、対石山本願寺総大将の任が終了した信盛様は、自宅にて茶会を催しました。その時に影月を使用し、それが顕如様の物とわかって内通を疑われたのです。」
顕如はようやく合点がいったのか、何度も頷きながら顎を撫でた。顎を撫でる仕草はどうやら考え事をするときの癖のようだ。
「しばし、思案の時をいただいてもよろしいか。」
「ええ、かまいません。ゆっくりお考えください。」
明らかに顕如は何かを知っている。ここで何かがつかめるはずだと、根拠はなかったが、忠繁には確信があった。あとは、顕如が何を考えているかであったが、しばらくの思案の後、顕如の口から出た言葉は意外な取引だった。
「一つはお答えしましょう。影月は確かに我が家宝。しかし今、私の手元にはないのです。昨年の夏頃、何者かに盗まれてしまいました。」
「盗まれた?」
「そうです。石山本願寺には公家の方もよくいらっしゃいました。おもてなしする茶室があったのですが、その茶室に隣接した倉の中に保管していたのが、いつの間にか盗まれていたのです。」
顕如の話では、蔵の鍵はかかったままだったと言うが、影月だけが忽然となくなったというのだ。
「付け加えるとすれば、佐久間信盛に影月が渡るように手配したのは私ではありません。」
顕如の話が本当だとすると、わざわざ石山本願寺に忍び込んで、何者かが蔵から影月を盗み、そして、納屋衆を語って信盛に渡したことになる。一見、バカバカしくも思えたが、事実、信盛追放の引き金になったことを考えれば、あながちこの怪盗の真似事も無駄とは言えない。
「髭の老人については?」
「それを答えるのには条件があります。その条件が飲まれない限り、私から話すことはしたくありません。」
顕如の言葉は頑なに聞こえた。つまり、髭の老人について特定できるだけの情報を顕如は持っている。そして、その人物がわかれば、次の戦のきっかけになりえるということか。と、忠繁は考えた。僧である顕如が、浄土真宗と別のところで戦が始まるきっかけを作りたくないということなのであろう。
そこまで考えて、
「顕如様。あなた様の条件と言うのをお聞かせください。私が叶えて差し上げられることなら努力します。そうでなければ、すぐに信長様にお願いしてみます。」
顕如の交渉に乗ることにした。無理難題は突っぱねなければならないが、せっかくつかみかけた雲の端だ。逃したくはない。顕如は再び穏やかな表情に戻ると、
「私からの要望は二つ。一つは織田殿に、本願寺が手を出さない限り、織田殿も本願寺には手を出さないという誓紙を書かせること。もう一つは、影月は我が家宝、織田殿がお持ちなら、速やかにお返し願いたい。」
と、二つの条件を提示してきた。講和の誓紙を交わしたときにも似たような条文はあったと思うが、信長に、特に個別に誓紙を書かせたいというのだろう。それで本願寺が安心するのはいいが、信長が滅ぼすと言った際に、どれほどの抑止になるか。しかし、これは情報を引き出す上で、信長には譲歩してもらうしかない。
問題は、影月を返すということだ。忠繁は興味がないため茶器には詳しくないが、信長は収集家としても有名だ。茶器に領地の代わりの価値を持たせ、それを家臣達の恩賞にしている。それを考えたのは信長と言う説もある。松永久秀と共に散った平蜘蛛の茶釜などは、城の二つ三つ持つと同等の価値があったと言われている。
影月は信盛が追放された時に信長へ献上されている。影月がどのくらいの価値を持つ物かは見当もつかないが、顕如が我が家宝とまでいうほどの物を、はたして信長が素直に手放すかどうか。しかし、髭の老人を何とかしない限りは、また、思わぬ痛手を被る可能性は大きい。
「わかりました。顕如様、墨と筆をお借りできますか? 信長様へ書状を書きます。」
忠繁は顕如から墨と筆を借りると、顕如の言葉を踏まえ、信長に報告と提案の書状を作成して、墨が乾くと丁寧に折りたたみ、弥助に持たせた。
「弥助。安土城に戻り、上様にこの書状を渡すんだ。」
「ハ、ハイ。」
「中に詳しく書いてあるから、上様にお願いしますと言って渡せばいいからね。」
「ハイ、わかりました。忠繁さんはどうするのデスカ?」
「私はここに残って返事を待つよ。」
その言葉に、弥助は心配そうな顔をしていたが、
「大丈夫。顕如様は無意味に私を斬るような方ではない。それよりも、一刻も早く書状を上様に渡すんだ。いいね。」
「わかりました。行ってきマス!」
忠繁の言葉にうなずくと、猛ダッシュで鷺森別院を飛び出し、安土へ駆けていった。
「・・・馬、使えばいいのに。」
声をかけようとしたが、あまりの速さに時機を逸してしまった。弥助は体力もあるし足も早い。大差はないかとほほ笑み、離れに戻った。驚いた顔の宗久と、含み笑いをしている顕如が待っていた。
「あなたが残るとは思いませんでしたよ。敵陣に残るとは、あなたはやはり馬鹿なようですね。」
「ええ。弥助を残して何か失礼があっては困りますから。私がここにいる限り、信長様はいきなり攻めかかるようなことはしないですし、攻めかからせないためには、顕如様は私を殺せません。」
「ふふ。ずいぶんと信長を信頼しているのですね。信長よりも、あなたを先に極楽浄土へ送る作戦を立てておくべきでしたね。」
さわやかに笑う顕如に、
「いや、それって殺すってことですよね。」
忠繁は顕如の底意地の悪さに首を振ると、離れに腰を下ろし、
「とにかく、信長様からの返事が来るまで、お世話になりますよ。顕如様。」
そう言って信長からの返事を待つことにした。
安土城。蘭丸から、忠繁が顕如に面会に行くと出ていったことを聞かされた信長は、慌てて長可に兵を集めるよう命令した。
「あの馬鹿者は、いったい何を考えておるのじゃ。」
蘭丸の知らせを聞いた信長の第一声はそうであったと言う。頭を抱えながらも、すぐに兵を動かせるように手配したのだった。そして、今、まさに出陣しようと言う時に、弥助が城へ戻ってきたのだ。
「ハァ、ハァ、ハァ。」
「弥助殿。忠繁様はどうした?」
「ハァ、ハァ、ちょっと、待ってクダサイ。」
とにかく息を整えさせようと、蘭丸は井戸から水を組むと、桶ごと弥助に渡した。弥助はそのまますごい勢いで水を飲み干し、今度は自ら水を汲むと、頭からかぶって身体の火照りを覚ました。
「落ち着いたか、弥助。」
「ハイ。これ、忠繁さんからの手紙デス。」
と、取り出した書状は、駆けてきたせいでぐちゃぐちゃになっていた。しかも、汗と先ほどの行水で濡れたせいで広げることもできない。仕方なく信長は、書状を乾かすように命じ、弥助からどんな状況になっているのか聞き出そうとしたが、
「影月と、上様の手紙、欲しいそうデス。お願いしマス。」
それしか伝えられず、またもや頭を抱えることになった。とにかく忠繁からの書状を乾かし、中身を見るのが先決と考えた信長は、
「蘭丸! 忠繁の書状が乾いたら持って参れ!!」
そう言いつけると城の中に戻ってしまった。蘭丸は弥助に書状を持たせて懸命に扇子で仰ぎ、少しでも早く乾くように祈り続けた。
一刻(約二時間)掛けてようやく乾いた書状を、恐る恐る広げていくと、そこには顕如からの要望と、信長への今後に対する提案が書かれていた。その内容を読み、蘭丸はすぐに手を打たなければいけないと、信長の元に駆けだした。
信長は甲冑を着込んだまま、安土城内の広間で湯漬けを食べていた。
「蘭丸、乾いたか。」
「はい。こちらにございます。」
信長は書状を読み、
「ふん。顕如め、影月を返せと言ってきおったか。」
そう言うと、残った湯漬けをかっ込み、書状を二つ書くと、
「蘭丸。お前はこれを持って伊勢に行け。」
そう言って二つの書状を投げ渡し、
「では、あの馬鹿者の奪還に参るとするか。」
そう言って、弥助を連れて鷺森別院に出陣した。森長可や母衣衆を中心に二〇〇〇の軍勢は、安土を南下して紀伊を目指した。
続く。
ここまでお読みいただきありがとうございます\(^o^)/
「面白い!」「続き読んでもいいぞ!」という方は、
ぜひ高評価お願いいたします!
長篠で信長が予言した通り、
忠繁クン、相変わらず無茶します(^_^;)
では、次回もよろしくお願いいたします。
水野忠




