第六章 虎と龍と梟と魔王④
久秀は佐久間信盛へ首尾を報告すると言って尾張で別れた。岐阜に戻った忠繁の報告を受けた信長は、上座を飛び出して大股で近付くと、無造作に忠繁の衣服をはぎ取った。そして、痣だらけの背中を見ると、大きな大きなため息を吐いた。
「おまえと言うやつは・・・。これでは何のために年末年始休ませたかわからぬではないか。」
「はは。ちょっとやりすぎちゃいました。」
「たわけが! わしのために尽くしてくれることには感謝しているが、もう少しお前は自分の身体を大事にせい!」
信長の表情が本当に心配そうだったため、忠繁は申し訳なくなり頭を下げた。
「しかし、これで武田との決戦の準備は整ったな。」
「はい。勝頼は必ず長篠城を攻め始めるでしょう。ここで肝心なのは、長篠城を落とされないことです。」
「わかっておる。家康には長篠城へ武器と兵糧をしっかり運び込むように伝えておこう。」
信長はそう言うと、さっそく家康に対して伝令を送ってくれた。
「それはそうと、まさか信玄が生きておったとはな。」
「はい、驚きました。しかし、脳卒中発病後、これまで生きているのが不思議なくらいの状態でございましたので、今後の脅威にはならないかと思います。」
「であるか。信玄もしょせんは人だったということじゃな。」
そう言う信長は少し寂しそうでもあった。朝倉義景や浅井長政にも敬意を払った信長である。今まで散々織田家の前に立ちふさがり、驚異の壁となっていた信玄の現状に心を痛めているのであろう。
「よし。信玄が表に出れぬのであればこの戦は勝てるぞ。」
「はい!」
忠繁は配置できる武将を選抜し、信長と綿密な打ち合わせを繰り返した。そして、四月下旬、信長は嫡男である信忠をはじめ、北畠信雄(きたばたけのぶかつ、信長の子。)、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益、明智光秀、佐久間信盛など、各地から集合させた有力武将達と共に、三〇〇〇〇もの大軍をもって岡崎城へ移動を開始した。
五月に入ると、予定通り長篠城は武田軍に包囲され、その猛攻を受けることになる。岡崎城で合流した信長と家康は設楽原へ移動した。織田勢三〇〇〇〇、徳川勢六〇〇〇、その兵士一人一人が一本の柵木と縄を持っていたという。
五月一八日に設楽原へ到着すると、信長は予定通りの場所へ兵を配置させ、持参させた柵木と縄を使っておびただしい数の馬防柵を作らせた。忠繁が勝頼に伝えていた通りで、設楽原の西側は急斜面になる。しかし、この場所の利点はそれだけではなかったのだ。
「馬防柵ができたら、配置の兵を除いて、残った者は申し付けてあった通りの場所へ布陣してください。」
忠繁はてきぱきと兵達に指示を出していった。設楽原の西側は斜面が多く、三六〇〇〇もの兵力をすべて配置するには狭かった。そこでも地形を利用して一計投じたのだ。
「信長様。長篠城への援軍の件を、家康様と調整してきたいのですが。」
「うむ。馬防柵は予定通りに組み上がりそうじゃ。そっちは任せた。」
「かしこまりました。」
一礼して家康の陣へ向かおうとした忠繁に、
「忠繁、もう無茶をするでないぞ!」
信長がそう言ってきたため、忠繁はもう一度頭を下げて家康の陣へ向かった。
「あやつ、そのうちまた無茶をするのであろうな。」
そうつぶやくと、あきれ顔で短くため息を吐いた。
徳川陣営では、馬防柵設営のほか、長篠城救援のための軍議が開かれていた。忠繁は警備兵に声をかけると軍議の場に出向いた。
「忠繁殿! こっちじゃ。」
図面を広げた机を前に、家康が手を振って声をかけてくれた。三方ヶ原の後、家康はすっかり忠繁が気に入ったようで、信長への贈答品を送る際には必ず忠繁にも手紙とプレゼントを送ってくれていた。
「家康様、遅くなりました。」
「聞けば、武田に計略を仕掛けるためにだいぶ無茶をなされたそうじゃな。怪我の具合はもうよいのか?」
「お気遣いありがとうございます。もう、ほとんど痣も消え痛みもありません。元気いっぱいでございます。家康様が送ってくださった薬や魚のおかげでございます。」
忠繁が久秀と共に躑躅ヶ崎館に行くために苦肉の策を用いたと知った家康は、痛み止めや腫れを抑える軟膏などの医療品と、身ごもっている風花のために浜松で取れる魚の干物や野菜を贈った。
「対武田に関しては我ら徳川家の戦と思っておる。援軍である織田家の軍師殿が身を犠牲にしてまで勝頼を引っ張り出してきたのじゃ。ここで叩かなければ、徳川家は織田家の同盟者などとおこがましくて名乗れなくなるわ。」
家康も家臣団も、武田相手は自分たち徳川の戦いだと自認している。そのため、攻め込んでくる武田に対して有効な打撃を与えられていないことも、勝頼を決戦場である設楽原に引き出すため、忠繁達が苦心したのも申し訳なく思っているのだ。
「さっそくですが、この戦の手順を確認いたします。勝頼の軍勢はおそらく二〇〇〇〇から二五〇〇〇程度。向こう側は緩やかな斜面ですので、武田騎馬隊は勢い付いて攻めてくるでしょう。一方、こちら側は斜面が急なうえに馬防柵を用意しております。騎馬隊の速度は落ちると思いますので、そこへ一斉に鉄砲を撃ちかけます。敵の損害が大きくなり、進撃が弱まったところで、大挙して勝頼に攻めかかります。」
図面を指しながら、忠繁は説明を進めていった。すると、徳川の重臣である酒井忠次が、
「軍師殿。武田の退路を断つためにも、長篠城を取り囲む武田兵と、城の眼前に築かれた鳶ヶ巣山砦を落としたい。我ら酒井一党にお任せくださらぬか。」
そう言って、長篠城の前に造られた武田の砦、鳶ヶ巣山砦を指さした。物見からの報告では、長篠城に籠城している徳川兵は五〇〇程度、鳶ヶ巣山砦には八〇〇ほどの武田兵が守備に当たっている。勝頼の主力は設楽原に出てくるはずなので、ここを落としてしまえば、武田は退路を断たれて前に出るしかなくなるのである。
「無用です。我ら連合軍は武田の兵よりもはるかに多く、そのうえ、勝頼はわが方が寡兵と信じて前進してきます。鉄砲は三〇〇〇丁以上あり、小細工をする必要はありません。」
珍しく厳しい口調の忠繁に、忠次はむっとしたが、諸将の手前もあってそれ以上は強く言えなかった。
「では、みなさま。油断召されませんように、開戦までしっかり準備をお願いいたします。」
軍議は終わり、諸将はそれぞれの持ち場へ戻っていった。忠繁は家康と共に陣の後方に建てた小屋に入った。ここは、徳川本陣として家康が作った小屋である。
「家康様。恐れ入りますが、酒井様をお呼び出しいただけますか?」
「おお、わかった。誰かあるか、酒井忠次を呼べ。」
家康は、きつい言い方をした詫びでもするのであろうかと考えていた。いかに不要な作戦と言えども、重職にある忠次の提案をきつく一蹴しては、忠次の矜持が傷付くというもの。
「およびですかな。」
不機嫌そうな忠次が小屋に入ってきた。忠繁は周りに人がいないことを確認すると、
「酒井様、先ほどはご無礼をいたしました。家康様がお許しくださるのなら、鳶ヶ巣山砦の攻略をお願いしたいと思います。」
そう言って、忠繁は深々と頭を下げた。
「なに、どういう事じゃ。」
「先ほどの軍議は屋外でしたので、どこで間者が聞き耳を立てているかわかりませんでした。そのため、失礼な物言いをしてしまいました。鳶ヶ巣山砦を落とせば武田は退路を失い、勝頼は前へ出ることを強調するでしょう。そうすれば我らの勝ちは固まります。しかし、鳶ヶ巣山へ向かうには、南の険しい山道を越えなければいけません。それに加え、敵に悟られぬように大勢でも行けません。家康様のご重臣を死地に向かわせなければなりませんので、心苦しくも思います。」
忠繁の真意を知り、忠次は笑って見せた。
「ふはは。そう言うことでござったか、殿が気に入られるわけですな。軍師殿、我ら三河勢は犬並みの忠義者と馬鹿にされておるが、我らはそれを誇りに思っておる。軍師殿は知らぬかもしれぬが、殿が人質にあった時代、我ら三河の家臣は今川に尻尾を振ってでも忠誠を示し、ひたすらに殿のご帰還を待ち続けた。なに、その頃の屈辱と苦労に比べれば、死地に行くのも野山を駆けていくのも、極楽にいるようなもんじゃわい。」
その幼い家康が戻るまで、家を守ろう腕を鍛えようと、家臣が一丸となっていた時代があるからこそ、三河兵の強さは折り紙付きなのであろう。また、そう言った経緯があるからこそ、家康は天下を取るのだろうと思えた。
「忠次、二〇〇〇の兵を預ける。こちらは気にしなくともよい。遮二無二、鳶ヶ巣山を攻め、これを落として参れ。」
「ははっ。」
「信長様にお願いし、鉄砲隊の一部を援軍に付けます。鉄砲があれば、砦を落とすことも可能でしょう。」
忠繁はそう言うと、信長に状況を説明し、金森五郎八長近(かなもりながちか)と馬廻り隊の一部、そして鉄砲隊五〇〇名を援軍として向かわせた。
「酒井様。鳶ヶ巣山砦を攻める前に、一つの策をお渡しします。」
そう言って、忠繁は一枚の畳んだ書状を手渡した。
「攻める前に、これに書いてあることを準備してください。少しは、有利になるはずです。」
「かしこまった。では、軍師殿。行ってまいる。」
「どうか、ご武運を。」
忠次は意気揚々と小屋を出ていった。忠次が向かう鳶ヶ巣山砦へは、設楽原の陣から南に迂回し、船着山を越えなければいけない。また、夜間の山中を抜けなければいけないため、その行軍はかなり厳しいものになるはずだった。しかし、忠次をはじめとする三河の精兵達は、今こそ家康を大大名にのし上げる時と、その戦意は相当に高かったと言われている。
信長は馬防柵が出来上がった部隊から順に食事を取るように命じた。すっかり日も沈み、辺りは暗くなっていたが、月明かりに自分達の陣の様子が手に取るように分かった。
「忠繁。そなたの進言通り、ここに陣を構えたのは正解であったのぅ。ここからは丸見えじゃが、勝頼からは全軍は見えぬ。」
「はい。そのうえ、勝頼は私達が寡兵だと信じています。きっと、度肝を抜かれるでしょうね。」
「うむ。忠繁、勝頼に会うてみて、やつの印象はどうじゃった。」
「そうですね。勇猛果敢で強すぎたる将と言われておりますが、見た目は凛々しく整った顔立ちでかわいらしくも見えます。また、いいやつでした。」
「ん? いいやつだと。」
「ええ、私の怪我を気遣って、下部の湯治場で療養させてくださいましたから。ですから、少し心苦しくもございます。」
「ふ、ははは!」
忠繁の物言いに、信長は腹を抱えて笑い出した。
「そうか、勝頼はいいやつじゃったか。」
「はい。時代が違えば、よき友になれたかと存じます。勇猛果敢で強すぎたるがゆえに、勝頼はこの戦に勝てません。」
忠繁は性格上、滅多に人を嫌いにはならない。まず相手を好きになる。それは忠繁が営業で磨いたスキルでもある。人間は単純な生き物だ。自分を好きだという相手には、なかなか敵意は見せない。そう言った意味でも、勝頼は素直で好人物だった。
明けて五月二十日深夜、鳶ヶ巣山砦の裏手に出た忠次は、兵の一人にろうそくを付けさせ、忠繁から手渡された書面を広げた。
「和泉守様はなんと?」
援軍の長近がのぞき込んできた。
「うむ。砦の前に仕掛けを作って伏兵を装い、敵の気をそらした後に、後方から攻めかかるように書いてある。」
「砦の気をそちらに移させるというわけですね。わかりました。その役目は我らがお引き受けいたしましょう。」
「砦の前方に回って仕掛けを用意すると大変じゃ、時間もそんなにはない。」
「なに、我ら馬廻り衆は、幼少より殿に付いて野山を駆け巡った悪童の集まりでございます。野山を駆けずり回るのは得意中の得意、酒井様は我らが仕掛けるまで、しばしご休息くだされ。」
長近はそう言うと、配下の者を従えて砦を迂回した。確かに整備されていない山道を移動するのは短距離でも困難だが、今夜は月明りもあり、比較的容易に移動することができた。砦を伺うと、見張り台に兵士は見えたが、こちらには全く気が付いていないようだった。
「よし、音を立てぬように気を付けながら仕掛けを作るぞ。」
長近と馬廻り衆は、縄を伸ばし、木々の間を通した。そうしておいて木板を結び付け、揺らせば音が鳴るようにし、鉄砲を持った兵達をなるべく広範囲に広げさせた。そうすることで、実際よりも多くの兵がいると思いこませようとしたのだ。
長近は頃合いを見て、見張り台の兵士に向けて鉄砲を撃った。それを合図に、他の兵士達も一斉に鉄砲を撃ち、他では縄を揺らして木板を鳴らし、歓声を上げた。砦内が騒がしくなるのと、撃たれた見張り兵が崩れ落ちて落下するのと、そんなに時間差はなかった。長近は弾の装填を終えると、
「続けざまに撃て!」
そう言って、今度は砦の柵越しに見えた兵士を狙撃した。しばらくして、砦の中から応戦の矢が飛んできた。長近は大木に身を隠しながら、砦の兵士達の注意が自分達に向くように攻撃を続けた。
一方、裏手で休んでいた忠次は、一斉に聞こえた鉄砲の音に飛び起き、兵達に突入の準備を促した。砦と言っても城とは違い周囲は柵で固めただけだ。見張りさえいなくなればすぐにでも突入はできる。多少の人影があった裏手は、長近の攻撃と共に人の気配が完全になくなった。
「よし。今じゃ、かかれぃ!!」
忠次達の別動隊が一斉に柵を引きはがし、砦内に突入を開始した。驚いたのは砦の兵士達である。前の山林にも相当な数の敵兵がいるはずなのに、後方からも攻撃が開始されたのだ。砦内は大混戦となった。
しかし、最初は深夜の襲撃に浮足立った武田兵だったが、よく訓練されている精鋭達で、一度は退却して砦から出ていったが、態勢を整えると再び砦を襲いこれを奪取、すると、今度は忠次が態勢を立て直し、再度奪い返すという戦いを幾度か繰り返した。明け方、東の空に日が昇り始めたころ、
「鳶ヶ巣山砦、酒井忠次が取った!」
ついに砦を完全に掌握したのであった。
「よし、長篠城の兵も出し、残りの砦を潰しに行くぞ。」
「おう!」
「長近殿、砦の柵木を燃やしてくれぬか。狼煙の代わりにする。」
「本陣に知らせる目印ですね。わかりました。」
長近は柵木を取り払って火を付けると、その中に生木を入れて煙を発生させた。これで、両軍どちらにも鳶ヶ巣山砦が落ちたことがわかるだろう。
忠次は勢いを止めることなく、小休止して長篠城の兵力を加えると、姥ヶ懐(うばがふところ)、君ヶ臥床(きみがふしど)、中山、久間山の各砦を落とすべく出陣した。
続く。
ここまでお読みいただきありがとうございます\(^o^)/
「面白い!」「続き読んでもいいぞ!」という方は、
ぜひ高評価お願いいたします!
また、周りの方にもおススメしてくださいね!
いよいよ長篠の戦いが始まりました。
次回は武田騎馬軍団に織田鉄砲隊が火を噴きます。
ご期待くださいね!
水野忠




