第五章 天下布武へ向けて⑨
浜松城に到着すると、途端に物々しい空気に包まれた。明らかに織田家へ対しての不信である。武将だけでなく、一般の兵士達からの忠繁達を見る目も厳しかった。忠繁は家康の側近である榊原康政に案内されて城内の広間に通された。
「霞北和泉守、信長様の使者として参りました。」
「遠路よう来られた。三方ヶ原の時は世話になったな。」
「恐れ入ります。この度、高天神城救援に援軍が出せずに申し訳ありませんでした。信長様からくれぐれもよろしくお伝えしてほしいと頼まれております。」
忠繁のその言葉に、
「ふん。よくもぬけぬけと申したものじゃ、徳川が武田に敗れれば、すなわち信長公は武田と本願寺に挟まれて滅亡するというのがわからぬのか。」
家康の傍に座っていた若武者がそう毒づいてきた。
「信康! 信長殿には信長殿の考えがある。滅多なことを言うものではない。」
徳川次郎三郎信康(とくがわのぶやす)、家康の嫡男で、この時、一五歳の若武者である。
「忠繁殿、失礼いたした。若者の戯言と笑って許してくだされ。」
「いえ。信康様のおっしゃることはごもっともです。徳川様あっての織田家、織田家あっての徳川家です。我々は清州同盟以降、全国でも類を見ない強固な同盟関係を築いております。それは、後世においても大きな評価をされることでしょう。」
「ふん。後世よりも大事なのは今じゃ。」
「信康は黙っておれと申すに。すまぬな、忠繁殿。」
「お気になさらないでください。信康様の申し出、いちいちごもっともです。この度、援軍が出せなかったお詫びに、信長様よりお預かりしてきたものがございます。まずはお受け取りください。」
忠繁は配下の者に、信長から預かった贈答品を用意させた。それは、今まで見たことのない量の黄金であった。ざっと三〇キロはあるだろうか。一グラム七〇三四円(二〇二一年六月二八日の相場)と換算して、約二億円相当の金額である。
「こ、これは、なんじゃ?」
「信長様からのお詫びの品でございます。」
忠繁がそう伝えると、広間にいた重臣達が怒り出して詰め寄ってきた。
「織田殿は金で解決しようというのか!」
「何という無礼な扱いじゃ! 金をやるから黙っておれとでも言いたいのか!」
「徳川は織田の家臣ではないぞ!」
詰め寄る徳川家臣団を、両手を広げて忠繁は制した。
「落ち着きくだされ! 信長様は徳川家を家臣などとは思っておりません。また、見下してもおりません。ゆめゆめ御勘違いなさいますな!」
忠繁の剣幕に、徳川家臣団は黙り込んだ。忠繁は一歩だけ家康に近づき、腰を下ろすと、家康の顔を覗き込んだ。家康はさすがに冷静で、何か信長の意図があるのだろうと考えてはいるようだったが、やはり面食らっている様子であった。
「織田家は、本願寺が炊きつける各地の一向一揆で満足な援軍が出せません。いえ、正確には一〇〇〇〇やそこらの援軍であればすぐにでも動かせるのでしょうが、それで武田を叩いても一時しのぎにしかなりません。信長様は、次に武田家と事を構える時は必勝の策をもって壊滅しようと準備なさっております。そのためには、信玄の後を継いだ勝頼に、決戦場まで出てきてもらわなければいけないのです。勝頼はさすが信玄の子、武勇この上なき武将です。だからこそ勝ち戦を続けさせ、家康様も信長様も大したものではないと思わせなければいけません。そのためには、今は負け続けるのが最も最良の策なのです。」
「つまり、勝頼を勝ちに乗じておびき出そうというのか?」
「そうです。甲斐の兵は強者ぞろいです。特に騎馬隊は日本一の強さを誇ります。だからこそ、正面切って戦うのであれば、これを確実に仕留める方法を取らなければいけません。」
忠繁の言葉に、家康は難しい表情になった。
「武田騎馬隊に、どうやって立ち向かうというのじゃ。」
「鉄砲です。」
「鉄砲じゃと?」
「はい。それも一〇〇や二〇〇ではありません。三〇〇〇丁の鉄砲をかき集めております。」
その数の多さに、徳川家臣団は驚いたようだった。この時代の鉄砲の使い方と言えば、開戦と同時に射撃を浴びせ、敵が怯んだところへ騎馬隊が突撃、攪乱した後に槍隊が槍衾をもって突撃をかけるのが定石であった。鉄砲本体も、弾も火薬も、とにかく鉄砲を用いるのには金がかかりすぎるのだ。
「信長様はその決戦で武田家を完膚なきまでに叩き潰すおつもりです。この黄金は、それまでに損害を受けるであろう徳川様への復興のための資金です。武田をつぶし、奪われた領土を取り返したときには、必ず復興させなければいけません。手間も犠牲もかけさせてしまうので、せめて復興の資金は用意したいという信長様のお考えです。」
「信長殿は、そこまで・・・。」
「これが、他の同盟国でしたら頼まないでしょう。家康様だからこそ、お願いできる作戦だと思います。家康様の類まれな忍耐力にすがりたいのです。」
「忠繁殿。もうよい、それ以上申すな。」
家康はいつの間にか普段の穏やかな表情に戻っていた。
「信長殿がそこまで考えているのであれば、同盟者であるわしは、その期待に応えて耐えるしかなかろう。皆の者、決戦の時は必ず来る。それまで、勝頼には勝ち戦の味を存分に食らわせてやろうぞ。」
家康の言葉に、徳川の重臣達は腰を下ろして黙り込んでしまった。家康は温和だが頑固なところもある。家康がそのように決めたのであれば、家臣達は付き合う以外にないのであろう。
「して、その決戦の時期は?」
「申し訳ありません。まだ少し先になると思われます。まずは、一向一揆を食い止め、後顧の憂いを失くさなければ出陣は叶いません。私の見立てでは、遅くとも、来年の夏前までにはすべての準備を整えたいと思います。」
「本願寺の門徒兵はそこら中におる。徳川家臣団の中にも一向宗徒として参加したいと離反した者もおる。信長殿はどうするおつもりじゃ。」
家康の問いかけに忠繁は視線を落とした。宗教、とりわけそこにある信仰心を絶つにはどうすればいいか、方法は一つしかなかった。一向宗の宗徒が全国的に増えたのには理由がある。何よりわかりやすいからだ。それまでの身分や生活、罪なども関係ない。『南無阿弥陀仏』を念じれば、老若男女、罪があってもなくても、仏は等しく極楽浄土へ送ってくれるという、そのわかりやすさだ。また、一揆が鎮圧されて首謀者が討ち取られても、残った宗徒は他の首謀者の下で兵を挙げる。ある程度は力を見せつけて諦めさせなければならない。
つまり、多くの犠牲が出るということだ。
「・・・そうか。信長殿は、修羅の道を歩むのじゃな。」
家康はそう言うと複雑な表情をした。家康は戦国の武将の割には表情が豊かだ。楽しければ笑い、苦しければ苦しそうな顔をし、つらければ泣き、寂しければ寂しい顔をする。喜怒哀楽が豊かなだけにわかりやすく、家臣団も付いていきやすいのだろう。そして、忠繁もこの家康の正直な性格が好きだった。
「こればかりは、私も良策が思い浮かびませんでした。しかし、無駄に領民を死なせないように、全力は尽くすつもりです。」
「うむ。しかし、致し方あるまい。わしが信長殿でも同じ選択をする。忠繁殿、信長殿には竹千代は耐えるゆえに、安心して修羅道を行かれよと伝えてくだされ。また、武田討伐の折には、この家康も同じ道を歩みましょうと、な。」
「ははっ。」
忠繁は深々と頭を下げ、家康に感謝の意を表した。
天正二年(一五七四年)七月、信長は長島願正寺を攻めるべく、各地より兵を集めた。その数実に一二〇〇〇〇。ここに、信長史上最大規模の作戦が展開される。
忠繁は、先鋒隊の各将に長島周辺の砦を攻めるように指示を出した。そして、必ず逃げ道を残すようにし、退却する者はそれを追わぬように厳命した。門徒兵は数も多く神出鬼没であるが、個々の戦闘能力はないに等しい。門徒兵のほとんどは平民であるため、武器も刀や槍だけではなく鍬や鎌を使う者も多い。数で物を言わす門徒兵に、戦闘集団である織田勢が数で攻めればひとたまりもなかった。各砦は敗走に敗走を重ね、その多くの門徒が長島願正寺に逃げ込んだ。
長島願正寺は、伊勢湾に流れ込む長良川、揖斐川と木曽川に挟まれた中州にあり、川が堀の役目を果たすために難攻不落の寺として要塞化されていた。信長はこの要塞寺に、各地の砦を逃げ延びた門徒衆を集めたのだ。そして、その上で川の周囲を封鎖し、完全に孤立させたのであった。
本願寺顕如は信長の考えを見抜き対応をしたかったが、明智光秀や羽柴秀吉の軍に阻まれ、援軍を送ることができなかった。
長島願正寺に集まった一向宗徒は一〇〇〇〇〇近い人数になったと言われている。もともと二〇〇〇〇名の宗徒が立てこもっていたところにそれだけの人数が流れてきたために、寺内ではたちまち食糧難となった。信長と忠繁はここで兵糧攻めを考えたのだ。
「信長様。申し訳ありません、このような策しか思いつかず。多くの者を死なせてしまいます。それも、兵糧攻めで苦しませるような惨いことを・・・。」
「何も言うな。宗教はその教えが染みついているからこそ質が悪い。仏にすがるなとは言わぬ。だが、一揆をしても世の中は良くならないことを知らしめなければいかん。そのためには多少の犠牲はやむを得えまい。なに、すぐに降ることになろう。そうすれば勝手に散っていく。犠牲は最小限にとどまろう。」
信長と忠繁は、兵糧攻めで根を上げて降伏が決まったら、宗徒は解散させ、長島願正寺で軍の指揮を執る下間頼旦(しもつまらいたん)、顕忍(けんにん)を討ち取れば、この戦は終わると考えていた。そして、兵糧攻めで生き残った多くの門徒は助けられるように、逃亡者は追わずと決めていたのだ。信長も門徒はほとんどが平民のため、それでいいと許可した。忠繁の知る歴史では、この長島願正寺の戦では数万の門徒が死ぬことになっている。それだけは回避したかったのだ。
ここでの兵糧攻めには約二ヶ月の時間を要した。そして、九月二十九日、とうとう長島願正寺から無条件降伏の使者が訪れたのだ。
「顕忍様、下間頼旦様。お二人は信長様に首を差し出す代わりに、願正寺にいる門徒達には慈悲を賜りたいと、そのように申しております。どうか、お願いいたします。」
「よかろう。わしとしてもこれだけの領民を殺したくはない。それぞれが本願寺に加担せず、元の生活に戻るというのなら命は助けてやろう。」
「ははーっ。」
使者は平伏し、長島願正寺へ戻っていった。明日、長島願正寺は開かれ、立てこもっていた門徒衆は降ることになった。
「これでようやく武田攻めに集中できますね。」
「うむ。」
信長も満足そうにうなずいた。
しかし、歴史の運命はこの二人の判断を許してはくれなかった。
長島願正寺攻めに参加した織田勢には、これまで満足に戦に出てこなかった織田家の一族も参加していた。あわよくばここで名を上げようと考えていた者も少なくない。織田右衛門尉信次(おだのぶつぐ、信長の叔父)、織田又八郎信直(おだのぶなお、信長の義弟)、織田三郎五郎信広(おだのぶひろ、信長の異母兄)がそうである。
長島願正寺の大手門から長良川を渡ったところに信広の陣があった。おそらく、自分が顕忍と頼旦を捕らえ、信長の前に引き連れるものと考えていた。
「信広様、このまま終わらせて良いのですか?」
信広に声をかけたのは家老の須田儀伝(すだぎでん)だった。
「どういう意味じゃ?」
「信広様はかつて、信長様に謀反を企んだことがございましたな。」
「もう、昔の話じゃ。信長ももうそれは許してくれている。」
「さよう。しかし、今日まで信広様は閑職に追いやられ、日の目を見ていないではございませんか。秀吉や光秀など、外様に追い抜かれたままでよいのでしょうか?」
「どうしろと言うのじゃ?」
「降伏してきた顕忍と下間頼旦を討ち取って手柄になさいませ。」
そう言って儀伝は意地悪く笑った。
「しかし、降ってきた者を討ち取るのはいかがなものか。」
「長島願正寺の中には、美濃の日根野備中など、各地で名を馳せた武将もおります。なに、その者達が降伏と見せかけて襲ってきたため討ち取ったとすれば、信長様も信広様のお力をお認めになりましょう。相手は兵糧攻めで死にかけた者達、簡単に討ち取れましょうて。」
「なるほどな。」
信広はうなずくと、配下の兵達に指示を出して、迎撃の準備に入った。
続く。
ここまでお読みいただきありがとうございます\(^o^)/
「面白い!」「続き読んでもいいぞ!」という方は、
ぜひ高評価お願いいたします!
また、周りの方にもおススメしてくださいね!
鉄砲三〇〇〇丁、
今の金額だと九〇〇億(一丁三〇〇〇万計算)します。
その規模に驚きますね。
まさに織田家の財力無双です。
次回もどうぞお楽しみに!
水野忠




