第五章 天下布武へ向けて⑧
正月の騒ぎが終わったころ、忠繁は信長と共に光秀の居城である坂本城へ出向いた。今日は信長の仲介で、光秀の次女の玉と藤孝の嫡男の忠興(ほそかわただおき)、二人の婚約が決められたのだ。と言っても、この時、忠興と玉は同じ一一歳。実際の婚姻式(結婚式)は、まだ数年後になる。
「信長様、忠繁殿。ようお越しくださいました。」
光秀は自ら出迎え、二人を歓待した。坂本城の広間には、二人のために宴席が設けられていた。忠興と玉の紹介があった後、婚約が正式に認められ盃を交わした。忠興は幼いながらもしっかりした武将の顔付きで、信長や光秀、藤孝など、年長者の前でも立派な挨拶の口上を述べた。玉はそんな忠興の隣で、優しく微笑みながら頬を赤くしていた。忠繁の時代においても、二人は美少年、美少女の類に入るだろう。
宴会の途中、忠繁は二人の前に歩み寄り、持ってきた引き出物を差し出した。
「忠興殿、玉殿。婚約おめでとうございます。僭越ながら、私よりお二人にお祝いの品をお持ちしました。どうぞご笑納ください。」
忠興には樫の木で作らせた大ぶりの木刀、玉には書物を書くための筆一式。
「忠興殿は、この木刀を軽々振れるように鍛錬に励み、細川家の嫡男として、藤孝様のように立派な武将におなりください。そして玉殿は、この筆を使って書物を書く練習をし、忠興殿の正室として教養を磨き、素敵な女性になられてください。」
「和泉守様、私共のためにお気遣いいただきありがとうございます。この忠興、父に負けぬよう立派な武将になって見せます。」
「玉も、妻として恥ずかしくないように、教養を身に付けまする。」
初々しい二人を見ていると、昨年の怒涛の苦労が癒されていくようであった。忠繁が席に戻ると、煕子が酒を注ぎにやってきた。
「忠繁様、本日はありがとうございました。」
「ご無沙汰しております。煕子様もお元気そうで何よりです。」
「あなた様の導きで、夫も織田家でしっかりと立場を築くことができました。本当に、なんとお礼を申し上げてよいか。」
「何をおっしゃいます。十兵衛様のお力によるものでしょう。言ったではないですか、すぐに私を追い越して織田家の重臣になると。」
忠繁はそう言って笑ったが、煕子は何度も頭を下げた。
「十兵衛様はいつもおっしゃっております。忠繁様がたくさんの助言をしてくださるおかげで、誤った道を進まなくて済んだと。これからも、十兵衛様の良き理解者として、お付き合いくださいませ。」
「ええ。こちらこそ。」
「ところで。お風は、風花は元気にしておりますか?」
「はい。おかげ様で毎日家のことと、領内の畑に出向いては泥まみれになって畑仕事をしております。すっかり領民達の人気者ですよ。」
「あの幼かった風花が、本当に良かった。忠繁様、早くお二人のお子様を抱かせてくださいね。」
「はは。」
忠繁は苦笑いして頭をかいた。そればっかりは授かりもののため、なんともしがたいのだった。
酔いが回ったので、忠繁は風に当たるべく庭に出ると、城内にある大きな木を見つけ、その根元に腰かけた。桜の木だろうか。風にそよいで葉が優しい音を奏でていた。こんなに穏やかな気持ちになったのは久しぶりだ。昨年は包囲網打破のために各地を転戦した。我ながらよく生き残れたものだと感心してしまう。
時折聞こえてくる宴会の笑い声を聞いていると、忠繁の心に芽生えてきた気持ちが高まってきた。戦国の世に飛ばされて早一四年。この時代の人々に触れ、この数ヶ月悩んでいたことが、市の涙を見た時に決意を固めた。
『天正一〇年六月二日、本能寺の変を回避する。』
何度か試したが変えられなかった歴史、それであれば、せめて信長が自分の知る歴史通り生きていけるようにと助言を続けてきた。しかし、歴史がどうとか、その中の人物がどうとかではなく、忠繁はすでに、一人の人間としての信長や光秀達を好きになってしまっているのだ。本能寺の変を回避し、そして、信長に天下統一を果たさせてやりたい。それが信長の軍師になった自分の役目ではないかと、そう考え始めたのだ。
「おう。忠繁殿、ここにおったのか。探したぞ。」
「十兵衛様。本日は誠におめでとうございます。」
「かたじけない。さっそく忠興殿が木刀を振ったが、重すぎて転がってしまってな。みんなで笑っていたところじゃ。」
「はは、まだ忠興殿には早かったですね。」
「いやいや。あれを毎日振っていれば、屈強な武士になれよう。」
光秀は満面の微笑でそう話してくれた。
「十兵衛様。こんな穏やかな日が、続いていくといいですね。」
「そうじゃな。そのためには、信長様の天下布武、必ず果たさねばな。」
「十兵衛様がいらっしゃる限り、織田家は安泰です。」
「はは、そう言うてくれるのは忠繁殿だけじゃ。しかし、織田家も大きくなった。これからの敵は大きく強大なものになっていこう、お互い頑張らねばな。」
「ええ。」
大木の下で、二人は信長の天下統一を支えようと誓い合った。本能寺の変は歴史上、決まっていることかもしれない。しかし、今自分はこの時代の当事者として関わっている。自分がこの時代に飛ばされたのは、本能寺の変を回避させるためなのではないか。忠繁はそう考えることにした。
三月になると、信長は朝廷より官位を受ける。従三位参議の叙任があった。信長はこれまで、官位を受けるということは、朝廷の傘下に入る証明になると固辞し続けていたが、公家衆の有力者、山科言継の要請を受けてこれを承諾。その代わりに、かつての将軍達も認められなかった「蘭奢待(らんじゃたい。香木)」の切り取りを希望した。
朝廷関係者は大半が反対したが、言継は、
「織田の力なくして朝廷の維持は叶わず。」
と言って、正親町天皇を説得。信長は、三月二八日に三センチ大の欠片を二つ切り取り、一つは自分に、一つは正親町天皇へ奉納した。この蘭奢待、現在でも東大寺正倉院(奈良県奈良市)に収蔵されているが、延暦二四年(八〇四年)に初めて文献に記録が出て以来、現在までの一二〇〇年以上の歴史の中で切り取ったのは、足利義満、足利義政、織田信長、明治天皇の四回限りだとされている。それだけでも、この香木を切り取るということがいかに重要なものかがわかる。
信長は蘭奢待切り取りを認めさせることで、信長あっての朝廷、朝廷あっての信長を国内に周知させ、自らが日本の王であることを宣言したのだ。これが認められた背景には、衰退した公家衆を金銭面でも軍事面でも支えていたのが信長だからと言える。ただ、当然公家衆の中には、これを良く思わない勢力があることも事実だ。この強硬ともいえる蘭奢待切り取りが、ある人物の心中を脅かし、後の歴史に大きく関わることになってくる。
石山本願寺。ここでもこの信長の行動を認めないと考える人物がいた。一向宗の第一一代宗主、本願寺顕如(ほんがんじけんにょ)である。元亀元年に信長に敵対を表明してから、顕如は各地で宗徒に一向一揆を蜂起させ信長を悩ませてきた。包囲網は瓦解したが、西に本願寺、東に武田勝頼、信長は二大巨頭に挟まれる構図になってしまったのである。
顕如は一向一揆を蜂起させ越前を攪乱。朝倉滅亡後、越前の統治を任されていた朝倉の旧臣、前波九郎兵衛尉吉継(まえばよしつぐ)、魚住備後守景固(うおずみかげかた)、そして、朝倉義景に謀反し、その首をもって降伏してきた朝倉孫八郎景鏡(あさくらかげあきら)も、この一揆によって門徒兵に攻められ討ち取られる。これは、越前一国が本願寺の手に落ちたことを意味していた。
その最中、武田勝頼はついに兵を挙げ、遠江国高天神城を攻める。高天神城は交通の要所にある城で、ここを取られることは徳川家にとって遠江を失うに等しいことであった。家康は自軍だけでは対抗できないと判断し、信長に援軍を求めた。しかし、信長は越前一向一揆と、尾張領内にある長島願正寺の蜂起の対応のため、三河への援軍が出せないでいた。
「忠繁、何か良策はないのか?」
信長がいら立っているのが良く分かったが、忠繁の知る歴史の中で、この局面をどう乗り越えたかの予備知識はない。また、織田家の内情を考えても、思うように兵が出せないのは明白であった。いや、正確に言えば一〇〇〇〇程度の援軍であればすぐにでも送れる。しかし、この後にあるであろう武田との決戦を考えると、その程度の援軍がどのように作用するのか見通しが立たなかった。
「おそれながら。確実に武田を叩くのであれば、今、援軍は出せません。家康様には、私が直接行ってお詫びと今後の相談をいたしましょう。」
「であるか。高天神城は見捨てなければならぬか。」
信長は悔しそうに唇を噛んだ。
「忠繁、持っていってほしいものがある。」
そう言って信長は家康への詫び状と、贈り物を持たせ、忠繁を浜松城の家康の元へ派遣した。
三河の岡崎城を通過した辺りで、忠繁の元に高天神城が落城したと報告が入った。これにより、武田は遠江の大半を手中に収めたことになる。その報告を受け、忠繁の足取りはいっそう重いものになった。
続く。
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ついに、忠繁が本能寺の変を回避することを決意しました。
しかし、歴史の見えない力はそれを許すのでしょうか。
次回もどうぞお楽しみに!
水野忠




