第五章 天下布武へ向けて④
その一週間後、対浅井最前線の虎御前山砦の本陣に戻ると、長政に降伏の使者を送った。しかし、長政は今さら降ることはできぬと断り、長政が降らない以上、市も戻らないと返答された。
使者の報告を聞いた信長は、さっそく浅井討伐の軍議を開いた。忠繁の指示で、朝倉追撃中も虎御前山砦や横山城の周囲には、偽兵工作として多くの旗指物を立ててあった。それを見た小谷城内の浅井兵は、夜な夜な浅井の命運を悟り脱走が相次いだという。当初、五〇〇〇の兵で小谷城に立てこもったが、今は半数にも満たないまでになっていた。
「サル! 長政の様子はどうじゃ?」
「はっ。動きはありません。小谷城に籠ったままです。」
「忠繁。小谷城内を見てきたお前の意見を聞きたい。」
忠繁は図面を前に、大嶽砦に石を置き、同じように横山城、虎御前山砦にも石を置き、小谷城が完全に孤立したことを示した。
「戦の定石でしたら、このまま兵糧攻めにするのも一つの手ですが、信長様の天下布武を押し進めるにはここで時間はかけられません。よって、今夜中の夜襲を提案いたします。この三年間、藤吉郎様は浅井家と対峙し、この周辺は調べ尽くしていると思います。墨俣の時と同じく、野山をかけるのを苦にしない木下隊で攻めるべきです。」
忠繁はそう言って秀吉の顔を見た。任せとけとでも言うように秀吉は力強くうなずいてくれた。それに、この作戦には市への配慮があった。信長の性格を考えれば、城ごと焼き払えと言わんばかりだが、妹の市を死なせたくないのはどの家臣にもわかる。しかし、織田家当主だからこそ、その思いを言えないのだ。それに、お市大好きの秀吉なら、配慮してくれるはずだ。
「夜襲をかけるのはいいが、そのあとはどうするつもりじゃ。」
「はい。信長様は本隊を引き連れ、南側より正規通りの道からお攻めください。おそらく大した兵は配置していないと思われますので、本丸まで上がってくるのはそんなに苦ではないはずです。信長様が来られるまでに、お市様とそのお子様を奪還します。」
表情こそ変えなかったが、信長は確かに市のことを想ったと感じた。
「よかろう、おぬしの考えるようにやって見せよ。ただし、わしが本丸に付くまでじゃ。それまでに話が付かなければ、小谷城は焼き払う。長政と市、共々な。」
そう言うと、信長は軍議を終了し、各将に指示を出すと、砦に用意された自室へ入っていった。勝家達が幕舎を出ていくと、入れ替わりに竹中半兵衛や蜂須賀正勝が入ってきた。
「こりゃ。城を落としたくらいじゃ手柄にはならんでござるな。」
「無論です。何としてもお市様とお子らは奪還せねばなりません。」
「なんじゃ。おぬし、風花殿と言う嫁がいながら、お市様に惚れたか?」
「藤吉郎様。寝言は寝てから言うから寝言ですよ? 信長様はご兄弟の中でお市様を一番にかわいがられております。また、お市様も信長様をお慕いしております。この狂った戦国の世に、お二人のような兄妹愛がございましょうか。決して死なせてはなりません。そのお子様達もです。」
「はは、冗談じゃよ。さて、どこから夜襲をかけるか決めようでござる。」
秀吉はそう言って忠繁の肩を叩くと、再び図面を広げた。小谷城は信長が攻め上る南側、門に当たる番所に始まり、金吾丸、大広間、本丸、そしてその後ろに京極丸と小丸、山王丸と続く。本丸には長政が、そしてその後方、小丸には長政の父、久政が守りを固めていた。
「半兵衛殿。小谷城へ行くのに一番険しいルート、いえ、道のりはどこでしょうか。」
「そうですな。小谷城は山の尾根に連なって作られた山城です。その中でも一番険しいのは、中央の京極丸の裏の崖ですね。」
「では、浅井の守りもそこは薄いことでしょう。藤吉郎様、攻めるなら京極丸ですね。」
「よし、わかった。」
こうして、秀吉達の手勢三〇〇〇は、陽が沈むとすぐに移動を開始し、城を迂回して反対側に出ると、京極丸の崖下へ移動し、月夜を頼りに登り始めた。
「火は最小限にせよ。ここにいるのがわかれば、上から一斉に攻撃を食らうぞ。」
秀吉はそう言って兵達に注意し、慎重に事を進めていった。何と言っても暗がりの中の崖登りである。綱を使って順番に引き上げ、先手の蜂須賀隊が京極丸を攻め始めたころには、うっすらと東の空が白んでいた。
「よし。かかれ!」
正勝の号令で、蜂須賀隊は京極丸を攻め始めた。驚いたのは京極丸にいた浅井兵六〇〇である。前後に小丸と本丸があるために、すっかり油断していたのだ。守備兵はすぐに斬り伏せられ、東の空に日が昇り始め、秀吉達が京極丸に上がってくる頃には制圧も完了し、木下家の旗が翻った。
もっと驚いたのは長政と久政である。大嶽砦から攻めてくると予想していたが、いきなり中央を取られたために連携ができなくなってしまったのだ。それに加え、脱走が相次いだことで、京極丸を取り返す兵力も残っていなかった。長政は配下の報告を聞いて飛び起き、京極丸の旗指物を見て唇を噛んだ。
秀吉は本丸からの襲撃を警戒しつつ、小丸への攻撃を命じた。同じころ、信長も主力を率いて金吾丸を攻め始めた。小丸に立てこもった浅井兵八〇〇は久政の指揮の下よく戦ったが、しょせんは多勢に無勢、落とされるまでに時間はかからなかった。
「長政は出てこぬか。うむ、それでよい。今出ては織田に背後を取られる。」
久政は一杯だけ酒を口にすると、一族の浅井惟安(あさいこれやす)に介錯を命じ、自刃して果てた。秀吉が小丸に入った時にはすでに事切れていたという。こうして、堅城で知られた小谷城は、本丸を残してすべて信長の手に落ちたのであった。
本丸の門の前には木下隊が整列し、突入の構えを見せていた。
「忠繁殿、相談があるでござる。」
「どうかなさいましたか?」
「おぬしは誠実で口が堅いと見込んで話すでござる。さっきはおぬしをからかったが、わしは、お市様を死なせたくない。」
「ええ、それは存じております。」
「そうではない。わしは昔からお市様が好きじゃった。何というか、寧々への気持ちとは違う、お市様への気持ちは・・・。」
「憧れ、ですか?」
忠繁がそう言うと、秀吉は満面の笑顔で忠繁の背中を叩いた。
「そうそう、それでござる!!」
「信長様は間もなく到着なされます。そうすれば、本丸も落ちましょう。」
「それまでに、何とかしたいのじゃが。」
「わかりました。私が降伏を促す使者に立ちましょう。」
忠繁はそう言ってうなずいた。長政とはもはや見知らぬ間柄ではない。市との面識もあるし、子供達にも会っている。安心させることができると考えていた。
「忠繁殿だけに行かせるのでは万が一の時に心配です。殿、小六殿を護衛に付けさせてはいかがでしょう。」
半兵衛が心配して声をかけてくれた。
「そうじゃな。小六、忠繁殿を護衛して、浅井に降伏の使者として出向いてくれぬか。」
「おぅ。いざとなったら長政の首を取ってくればいいか?」
「阿呆! 忠繁殿に万が一のことがあったら木下家は取り潰しじゃ。命に代えても守るでござる。」
本丸に残ったのは三〇〇程度の小勢であった。脱落兵が多くなった今、残っているのは長政と共に死ぬ覚悟を決めた精兵中の精兵と言える。殺気立ち、緊張は頂点に達している。下手なことをすれば、使者と言えども斬り捨てられることだって十分にあった。
しかし、忠繁の心中は信長の市への想い、そして、市とその子供達を守ってやりたいという気持ちでいっぱいだった。そして、困難ではあっても、あわよくば長政を降伏させ、再び信長と共に歩んでほしいという思いもあった。
「では、行ってまいります。」
忠繁は正勝を伴って、本丸の門前まで歩み出た。
「織田家臣。霞北和泉守、使者として参りました。浅井備前守様にお目通り願いたい。」
中ではどうするかざわめく声が聞こえたが、やがて門が開き招き入れられた。すぐさま門は閉じられ、忠繁と正勝に緊張が走った。本丸の建物の前では、長政自らが二人を出迎えた。
「忠繁殿、久しぶりじゃな。」
「ご無沙汰しております。長政様、信長様の使者として参りました。お話よろしいでしょうか。」
「おぅ、ここではわが兵が殺気立って落ち着かぬじゃろう。中へ入られよ。」
「はい。」
そう言って忠繁は、刀を抜いて預けようとしたが、
「いや、それは無用じゃ。ここに残った兵達は殺気立っておる。不測の事態に備え、帯刀したままでよい。」
そう言って首を振った。驚いたのは浅井の家臣達である。当主が帯刀した敵の使者と個室で会うなど前代未聞であった。しかし長政は涼やかな顔で、
「よいか。その方らが何もしなければ、和泉守殿はわしに危害を加えるような男ではない。話が済むまで大人しくしておれ。」
そう家臣達をたしなめると、忠繁達を中に連れて入っていった。奥の一室に入る際、部屋の前の鎧武者がこちらを見て一礼してきた。長政の弟・政元(あざいまさもと)である。
「正勝様。話をしてまいりますので、ここでお待ちください。」
「しかしな。」
「申し訳ないが、正勝様の強面では、長政様のお子らが怖がりましょう。」
それを聞いた長政と政元は吹き出してしまった。確かに正勝は体型もがっしりしていて、野武士時代に付いた傷跡が残り強面だ。付き合ってみると豪快で兄貴肌な好漢なのだが、なじみがないと委縮してしまうかもしれない。
忠繁や長政達が笑ったために、その場の雰囲気が和んだのを感じ取ったのか、
「浅井様も忠繁も笑いすぎじゃ。」
そう言うと、わざと不貞腐れたように腕を組んで扉の前に立った。政元の手で扉が締められると、中には長政と忠繁だけになった。二人は向かい合うように座り、穏やかな表情で笑いあった。もうどうすることもない運命に諦観したのだった。
「正直に申すとな。包囲網ができ、信玄公が挙兵した時に、義兄上の命運は尽きたと思っておった。じゃが、信玄殿は死に、将軍は追放され、朝倉は滅んだ。それもこの数か月の間にじゃ。義兄上には、神仏の加護があるとしか思えぬな。」
「比叡山焼き払っちゃいましたけどね。」
「はは! そうじゃ、その通りじゃ。しかし、結果的に義兄上は生き残った。これは決して運だけのことではなかろう。」
長政は笑いながらそう言うと、さみしそうにため息をつき、
「できれば、義兄上の隣で共に天下布武に突き進みたかったものじゃ。」
そう話した。
「今からでも、いいのではないでしょうか。」
「違う。そなたが言っているのは、義兄上の家臣としての道じゃ。わしは、義兄上の隣を歩きたかった。だが、わしにはその器量がなかった。わしはな、そなたが羨ましい。義兄上の考えを理解し、的確に戦略を練っている。わしにはできぬ。」
もう一度、長政はさみしそうに笑った。
「長政様。お市様とお子様らは、お返しいただけますでしょうか。」
「無論じゃ。本来ならば、金ヶ崎に義兄上を攻めた時、織田家に返さなければいけなかった。しかしな、市と子供達と過ごす時間は、浅井家当主と言う枷を忘れられる唯一の時間だったのじゃ。甘えだと笑え。」
「いいえ、笑いません。決して笑いません。」
長政の言葉に、忠繁は胸が締め付けられた。家族との時間。それがいかにかけがえのないものであるか、それは、この時代も未来の時代も変わりはないことに気付かされた。忠繁としても、日々の厳しい仕事の毎日にあって、明里や楓と過ごす時間はかけがえのないものであった。命のやり取りをするこの時代なら、その思いはもっと大きなものであるのだろう。
「三度。三度でよい、織田勢と刃を交えれば武人としての意地も通せよう。そのあとは、大人しく引っ込んで腹を斬るゆえ、義兄上にはそう申し伝えられよ。」
「・・・承りました。」
「それから、市と子供達のことを頼む。姫であれば、義兄上も惨いことはせぬであろうよ。」
「はい。」
長政は立ち上がると、
「では、市達を呼んでまいる。」
そう言って退室しようとした。
「長政様、少しだけお話しさせてください。」
忠繁の声掛けに、長政は立ち止まり、振り返ると頭を下げる忠繁を見た。
「信じていただかなくて結構ですが、実は、私は未来から来た人間でございます。」
「なに?」
「今から四〇〇年以上先の時代から、なぜか時を超えてこの時代に舞い込んできてしまいました。私の知る歴史では、この先、もう二〇年もすると、天下はある人物によって統一され二六〇年にわたる太平の世が参ります。その時代には、茶々様は関白家の嫁になり、初様は関白配下の大名家に嫁ぎ、江様は将軍家の嫁に行き、浅井家の血は後々まで引き継がれていきます。ですので、どうか、どうか・・・。」
忠繁の告白に、長政の表情はさみしそうなものから一気に優しい微笑みに変わっていった。
「はは、何を世迷言を。だが、それは素晴らしい話じゃなぁ。そんなことになっていくのであれば、この長政、ここで死んでも本望というものじゃな。」
信じたのか、信じようとしたのか、長政は目に涙を浮かべて笑った。
「忠繁殿、心が安らかになった。礼を申すぞ。」
長政はそう言って退室していった。忠繁は、ただひたすら頭を下げるしかできなかった。
忠繁達は、市と子供達を連れ本丸を後にした。意外だったのは、ここまで長政に付いてきた市が、素直に退去に応じたことであった。市は長政の正室らしく、凛とした佇まいで歩いている。子供達三人は、それぞれ侍女に抱えられていた。茶々は泣き疲れて眠っているようだ。目元が赤い。初は何が起きているのか理解できていないらしく、集まった織田兵の多さに目を丸くしている。江はまだ幼く、眠っているようだった。
「迎えに来たのが忠繁殿でよかった。子供達も安心しよう。」
「このまま横山城までご案内いたします。後に信長様も参りましょう。」
本丸を出ると、そこには到着した信長が主力の兵達と共に待っていた。市本人の気丈さなのか、夫を攻める兄への意地なのか、信長のことを一瞥もせず、市は城下へ歩いて行った。忠繁は信長に一礼し、
「長政様は、三度刃を交えれば武士の意地が立つ。そう申されました。」
長政からの言葉を伝えた。
「であるか。忠繁、大儀であった。市を横山城まで連れて行ってやってくれ。」
「かしこまりました。」
忠繁は先を歩く市達を追いかけ、輿に乗せた。小谷城を退去するときに城を見上げると、本丸から炎が上がっているのが見えた。
「本丸が、小谷城が燃える。」
その中で、すでに旅立ったのであろう長政のことを考えると、ふいに忠繁の視界がぼやけてきた。長政は忠繁から見ても実直で、家族思いで、家臣思い。そして、思慮深い尊敬できる人物であった。
「忠繁。おぬし泣いておるのか?」
「い、いえ。大丈夫です。」
「このような世の中でなければ、そなたは長政殿とよい友になっていたかもしれんのぅ。」
輿の中からだったので、市の表情はうかがい知ることができない。忠繁はお互いの顔が見えないのをありがたく思った。
横山城に到着する頃には、すっかり日が傾き始めていた。子供達を寝かしつけると、市は侍女に退室を命じた。この部屋からは小谷城は見えない位置にある。炎上する小谷城を見せないほうがいいだろうと、城兵に命じて用意させた部屋だった。
市は子供達の上掛けを整えると、安心したように穏やかな表情をしていた。
「お市様。何か御入用なものはございますか?」
「気遣いは無用じゃ。」
そう言うと、市は立ち上がって忠繁に歩み寄った。
「だが、そうじゃな。」
ふいに、市は忠繁に身体を預けてきた。
「お、お市様?」
「しばし、しばしの間でよい。このままいさせておくれ。今しばらくしたら、母に戻るゆえ。しばしの間だけ・・・。」
最後の方は、涙声になっているのがわかった。
「大名の妻でなくともよい。たとえ貧しくとも、もっともっと一緒にいたかった。離れたくなかったのじゃ。」
とうとう耐え切れなくなった市は、嗚咽を漏らして涙を流した。市は二六歳、夫と死別するには早すぎたのだ。きっと、浅井長政の妻として、母として、信長の妹として、弱い女の姿など見せるわけにはいかなかったのだろう。泣きじゃくる市に、忠繁はただ、肩を抱くでもなく、髪をなでるでもなく、市の気が済むまでただそこに立っていた。
長政は忠繁に伝えたとおり、三度織田勢に攻めかかったが、多勢に無勢、その刃が信長に届くことはなかった。三度目の突撃を終えると、信長へ一礼して奥へ引き上げた。そして、信長は長政の引き上げと同時に攻撃の中止を命じ、織田勢が見守る中、長政は心穏やかに自刃して果てた。天正元年(一五七三年)九月一日、浅井備前守長政は二九年の生涯を閉じたのであった。
続く。
ここまでお読みいただきありがとうございます\(^o^)/
「面白い!」「続き読んでもいいぞ!」という方は、
ぜひ高評価お願いいたします!
また、周りの方にもおススメしてくださいね!
長政と市の別れは、
本当に悲劇としか言えません。
戦国の時代だったとしても、
市の悲しみは大きなものであったのではないでしょうか。
悲しみの市姫。
いつか、お市の物語も書いてみたいです。
さて、
物語はまだまだ続きます。
次回もお楽しみに!
水野忠




