第五章 天下布武へ向けて③
翌八月上旬。横山城を守る秀吉が、長政の小谷城の支城である山本山城の守将、阿閉貞征(あつじさだゆき)の調略に成功すると、信長は朝倉・浅井連合軍討伐の兵を挙げた。この時、忠繁は信長の軍師として、織田家の中でも側近として参加していた。
信長は秀吉と合流すると、小谷城周辺の地図を広げて軍議を開かせた。忠繁は、以前小谷城へ出向いた時の経験から、やはり大嶽砦を獲るべきだと主張した。この時、大嶽砦には朝倉の軍勢が守りに当たっていた。また、北側からは朝倉義景が自ら率いた二〇〇〇〇の軍勢が救援に駆けつけていたが、織田勢に阻まれ浅井と合流できずにいた。山本山城を抑えた織田勢は、背後を付かれる心配がなくなったため、全速力で街道を塞いだのだ。この街道では大軍が進軍するのには難しいため、いかに朝倉勢でもそのまま決戦には持ち込めなかった。
積極的に攻めかからなかったのは他にも理由がある。朝倉勢も浅井勢も、信玄が死に、義昭が追放されたとして兵達の戦意が低かったこともあった。大儀なき進軍に、士気が上がらなかったのである。
忠繁の主張した大嶽砦を落とすには山頂まで登らなければならないが、下手に兵を動かせば小谷城からは丸見えで、察知した浅井勢と朝倉勢に挟み撃ちされる恐れがあった。
「せっかくこれだけの軍勢をそろえたのに、このままじゃにらみ合いしかできぬでござるな。」
軍議の途中、秀吉が腕を組んでそうつぶやいた。秀吉は横山城に入ってからの三年間、この辺りの地形は嫌と言うほど調べ上げていた。それは、地の利を大事とする竹中半兵衛の提案であったという。そのおかげで、子細な地形の図面が出来上がっており、忠繁は大いに助かった。小谷城は難攻不落の堅城、大軍で攻めたからと言って、すぐに落とせるような城ではなかった。
「信長様。大嶽砦を守る朝倉勢はせいぜい五〇〇程度、少数で奇襲するのが効果的だと考えます。」
「拙者もそのように考えます。以前、和泉守様が小谷城を訪問した際、大嶽砦が鍵になるとおっしゃっておりましたので、砦周辺は徹底的に調べ上げております。天文を読みますと、本日、夜半に天候が崩れるはずです。その時に夜襲を仕掛ければ容易に落とせましょう。」
半兵衛と忠繁の意見が一致しているため、信長は大嶽砦を攻める精鋭を選抜し、自ら一〇〇〇の兵をもって移動を開始した。小谷城にも大嶽砦にも朝倉勢にも気付かれないように、月明かりを頼りに火を灯さないまま行軍は進められた。
そして、日付が変わる手前で冷たい風が吹き始めると、先ほどまでの月夜が嘘のように陰り、半兵衛の予想通り雷を伴う大雨となった。数メートル先も見えないような大雨となった中、ここでも織田家と浅井・朝倉家の大将としての差が顕著に出てしまった。長政は雨のために山を登るのは容易ではないと考え、義景は兵糧や鉄砲を濡らさないことに注視し、決戦は雨が上がってからだと考えたのだ。
経験、戦術、発想力に行動力。すべてにおいて信長が勝っていたのだ。
「桶狭間を思い出すのぅ。」
雨に打たれてびしょ濡れになりながらも、楽しそうに信長が言った。そして、刀を抜くと、一斉攻撃の指示を出した。
信長の馬廻り隊を中心に構成された奇襲部隊は、闇夜と雨音に隠されて容易に砦の壁を超えることに成功した。門番兵を斬り伏せると門を開き、一斉に砦の中へ攻めかかった。驚いたのは大嶽砦を任されていた朝倉武将、氏家助左衛門直利(うじいえなおとし)であった。雨が降り始めたために安心して寝所に引き上げたのだが、眠りに付くや否や、寝所のドアが蹴破られて鎧武者がなだれ込んできたため、飛び起きたまま腰を抜かした。
「な、なにやつ?」
「織田方馬廻り衆、毛利新助。」
「同じく、服部小平太。推参!」
桶狭間以前から信長の馬廻り衆として仕えてきた毛利良勝と、服部一忠であった。直利は抵抗もできないまま引き出され、他の家臣達と共に砦の中央に集められた。相手は比叡山を焼き討ちにしたあの織田信長である。誰もが助からないと己の最期を悟った。
「砦の大将は誰か?」
信長の問いに、直利は手を挙げた。
「それがしがこの砦の守将、氏家直利にございます。」
「そうか。氏家、生き残った砦の兵をまとめ、早々に朝倉本陣に引き上げよ。」
「へっ、お助けいただけるので?」
「何度も言わせるな。貴様らごとき小勢など問題にならんわ。戻って義景に伝えぃ。大嶽砦は織田の物になった。これ以上の対陣は無駄だとな!」
「は、ははーっ。」
直利は残兵をまとめると、土砂降りの中を転がるようにして下り、朝倉本陣へ駆け込み、信長からの言葉を伝えた。
「大嶽砦が、織田の手に落ちたと?」
「はい。あの土砂降りの中、雨に紛れて奇襲され、成す術もなく。」
義景は慌てて山崎吉家から図面を引っ手繰ると、他に突破の手口はないか確認していった。しかし、大嶽砦を取られてしまった以上、朝倉勢にはつけ入る隙がなくなってしまった。
「・・・浅井は、助けられぬ。」
「殿、天候が回復してから織田勢に一戦しかけては?」
「吉家、わが方の士気の低さを見よ。ここで惨敗すればわが方が滅ぶ。」
そう言って義景は天を仰いだ。空からはまだ雨が降り続いていた。すでに大嶽砦から降ってきた兵達によって、砦が陥落したことが知れ渡っており、なおさら士気の低下につながったのだ。
「雨が上がり次第、一乗谷へ撤退する。吉家、ここに対陣していると見せかけるために、雨が弱まったらかがり火を多くせよ。朝になればもぬけの殻の陣を見て、織田勢も驚くじゃろう。」
「承知いたしました。」
吉家はかがり火を増やす準備を指示し、悟られないように粛々と撤退の準備を始めていった。しかし、この義景の指示が、朝倉家滅亡への引き金となってしまう。
大嶽砦に入った信長は、眼下にある小谷城を眺めた。忠繁の言ったとおり、ここを抑えれば小谷城の中はすべて筒抜けだった。日が昇って砦に織田の旗が翻っているのを見れば、浅井勢も驚くであろう。
信長は参陣している主だった将を集め、
「よいか。今夜、必ず義景は兵を退く。各隊、すぐに追撃ができるように準備し、その時が来るまで休息せよ。」
そう命令した。この時、佐久間信盛など、大半の将は半信半疑だったが、忠繁は信長の言っていることが良くわかった。朝倉義景もこの戦乱の世の中を生き抜き、越前で朝倉家を大きくした人物。同盟国とは言え、浅井家のためにここですべてを賭けた一大決戦に出るというのは考えにくかった。
それに加え義景は、もし退却を開始したとしても、織田勢は浅井勢を先に滅ぼすと考えると思ったのだ。普通ならそう思うだろう。追撃して遠く越前まで攻め込むよりも、大嶽砦を抑えた今、浅井は風前の灯火、確実にそちらを叩くのが戦の定石だった。
そして、すっかり雨が上がり、星空が見え始めた丑の刻(午前二時)。朝倉勢が後方からゆっくりと撤退を開始した。その様子は大嶽砦の見張り台からもよくわかった。義景の指示によって増やされたかがり火のために周囲が明るくなり、撤退する軍勢の動きがわかってしまったのだった。
「行くぞ。忠繁、付いて参れ!」
「ははっ。」
信長は馬廻り衆とわずかな兵を連れ、朝倉追撃のために山を降った。驚いたのは普代の家臣達である。信長の命があったにもかかわらず、まさか今夜中の撤退はないだろうと油断していた各将は、慌てて兵を叩き起こすと、信長の後を追って追撃に参加した。
驚いたのは信長の家臣達だけではない。義景は、まさかこんなに早く撤退を察知され、織田勢が追撃してくるとは考えていなかった。退きながら要所に兵を配置していこうと考えていたが、いきなり背後を付かれて総崩れになっていった。朝倉勢二〇〇〇〇が、追撃隊一〇〇〇名に翻弄されたのである。
「義景様! 総崩れにございます。」
「おのれ、なぜこんなに早く動ける! 信長はなぜわしらの動きの先が読めるのだ。奴には神か魔物が味方し、我らの考えを伝えているとしか思えぬ!」
「しっかりしてくださいませ。義景様は一刻も早く一乗谷へお退きください。ここはこの山崎が引き受けます!」
「無理じゃ!! もはやこれまで、ここで織田と刺し違えよう!」
「殿、宗滴様のお言葉をお忘れか! 武士は犬とも言え、畜生とも言え、勝つが本にて候!!」
山崎吉家はそう言って義景を逃がした。この言葉は吉家が師と仰いだ朝倉宗滴(あさくらそうてき、義景の大叔父。)の『大将は犬と言われようが、畜生と言われようが、何度失敗しても勝ちにこだわることこそ、本当に大事なことである。』という教えである。
吉家は手勢をまとめて街道に展開すると、
「よいか、義景様に受けたご恩を返す時ぞ! 宗滴様の言葉を思い出せ。討ち死にするなら、一人でも敵を道連れにせよ!」
吉家達は、迫りくる織田勢に斬り込んでいった。しかし、戦うと言うよりも、少しでも長く生きて時間を稼ぐという戦いに、次々と朝倉兵は数を減らしていった。実際に吉家が織田勢を食い止めたのはわずかな時間であった。だが、最期の一人が討ち取られるまで、執拗に織田兵に襲い掛かって斬り死にしたと言われている。
吉家は最期の一人になっても目の前の兵を蹴り飛ばし、倒れたところに刀を突き刺した。そのあまりの形相と立ち姿に、織田兵は前に出ることができなくなってしまった。吉家は刀を地面に刺して肩で息をした。もう、力が入らない。無数の矢、無数の槍、無数の刀傷を受け、流れ出る血は地面に吸い込まれていった。そのあまりに壮絶な姿に、集まった織田兵は躊躇して踏み込むことができなかったのだ。
なんとかしようと、兵の一人が槍を繰り出したが、吉家は嘘のような力で穂先を交わして槍を抱え込むと、そのまま兵を引き寄せて、その喉元に刀を突き刺した。しかし、その刀は刃の根元で折れてしまった。
抱えた兵を突き飛ばすと、折れた刀を見て吉家は笑った。次第に視界がぼやけて、とうとう最期が来たことを悟ったからだ。
「宗滴様。お教えは果たしましたぞ。義景様、どうか、ご無事で・・・。」
吉家は、最期にそうつぶやくと仰向けに倒れた。
追撃の途中、ようやく追いついてきた柴田勝家や佐久間信盛が信長を追い越し、朝倉勢に襲い掛かった。
「殿! 遅くなって申し訳ありませぬ!」
「たわけ! 今夜撤退だと申しつけたであろう!! この失態、許し難し!」
信長はこぶしを握ってしかりつけたという。
「申し訳ありません。さすがに今夜の撤退はないと考えておりました。しかし、我らが来たからにはもはや朝倉は風前の灯火ですな。」
「くっ、この!」
遅れていながら開き直りともとれた信盛に対して、信長は怒りをあらわにしたが、
「もうよい! 追撃じゃ!!」
今は追撃が優先と、朝倉勢を再び追いかけ始めた。浅井勢は光秀と藤孝の軍勢が後方に残り、迎撃ができないように抑えられている。織田勢は残った全軍が追撃に向かっていたのだった。朝倉勢は疲れ始めた者、怪我をした者から討ち取られ、次第に数を減らしていった。
途中、余呉川の上流、柳ケ瀬の二又道に差し掛かった。先頭を駆け抜けていた柴田勝家は、義景がどちらに逃げたかわからず一瞬動きを止めた。越前へ抜けるにはこのまま北上する方が近い。
「勝家様、左です!!」
後方から十六夜で追い付いてきた忠繁が声を上げた。
「まっすぐ行く方が越前には近いぞ!」
「そうですが、西への道は疋田城や敦賀城などの朝倉家の要衝があります。私が朝倉の家臣であったら、途中で追い付かれても態勢を整えられるように、要衝のある道を選びます。」
「よし、わかった!」
勝家はそう言うと、敦賀へ抜ける左の道を進んだ。朝倉勢は手勢を率いて刀根坂で迎え撃った。その後も、幾多の武将が殿(しんがり)として立ちはだかったが、織田勢の勢いを止めることはできずに討ち死にしていった。後に『刀根坂の戦い』と呼ばれる戦である。この戦いで、朝倉家は四〇名近い武将と、三〇〇〇名以上の兵を討ち取られる。街道には朝倉兵の屍が累々と転がった。
織田勢はそのまま敦賀まで北上し、敦賀城を制圧。しかし、信長はこれで満足はしなかった。二日間、敦賀で兵に休息を与えると、
「明日、日の出と共に一乗谷へ進軍する。」
徹底的に義景を追い詰めるべく、さらなる追撃を命じたのであった。数日後には一乗谷城下は焼き払われ、城も炎上した。
「おのれ。かくも徹底的に攻め入るとは、侮った。信長を侮ったぞ。」
義景は親戚に当たる大野郡(現在の福井県大野市)の景鏡(あさくらかげあきら)を頼り、数名の供を連れて逃れようと移動を開始した。
景鏡の勧めで大野郡近くの六坊賢松寺へ入った義景は、そこで久し振りにぐっすりと睡眠をとった。
「このようにぐっすり眠れたのはいつ以来であろうか。」
「ゆっくりお休みになられたご様子、安堵仕りました。」
傍らに控えていた側近の鳥居兵庫助景近(とりいかげちか)は、穏やかな表情でそう言った。受け入れの準備ができ次第、景鏡から迎えが来るはずだった。
「しかし、大野郡だけでは持ちこたえられまい。妻や子も一乗谷で死んだ。わしだけ生き残るわけにはいくまいな。景鏡と合流したら、信長と一戦まみえて相果てようぞ。」
一乗谷を攻められた際、義景は当主として逃げることに精一杯で、残った妻の小少将(こしょうしょう)と嫡子の愛王丸(あさくらあいおうまる)は、炎上する一乗谷城の中で最期を迎えたと言われている。
「殿。気のまま北へ逃れ、上杉謙信公に助けを求められては?」
景近はそう提案したが、義景は首を振った。謙信の養子には義景の娘が輿入れしている。
「妻と子を死なせておいて、今さらわしだけ生き残ろうとは思わん。」
「殿・・・。」
「だが、せめて最期の瞬間くらいは、武士として華々しく散りたいものよ。」
その時、寺の外がにわかに賑やかになってきた。ようやく景鏡が準備を整え、迎えに来たようだった。義景家臣の高橋景業(たかはしかげあきら)は、景鏡が迎えに来たと思って寺の門に駆け寄ったが、
「火蓋を斬れぃ!」
という景鏡の号令の声に歩みを止めた。まさかと思った時、寺の塀を乗り越えようと梯子が掛けられたのが視野に入った。景業は慌てて身を翻すと、寺の中に向かって走り始めた。
「放てぇ!」
号令と共に乾いた音がすると、景業は背中に衝撃と激痛を感じて前のめりに倒れた。一瞬、何が起きているのかわからなかったが、身を起こそうとした時に再び背中に激痛が走り、自分が撃たれたことを悟った。後方からは、塀を乗り越えた兵士達の歓声が近付いてきている。
「義景様!! 朝倉景鏡、謀反!!」
そう叫んだ直後、駆け寄った兵によって景業は討ち取られた。寺の中で着替えをしていた義景は、景業の最期の声を聞いて命運を悟った。
「景鏡様は義景様の従兄弟であり筆頭家老! なにゆえに謀反など!?」
景近は地団太を踏んで悔しがったが、義景は大きくため息を吐くと、
「所詮、わしは家名に守られた凡将であったか。」
そう言って腰を下ろすと、腰刀を抜いた。
「景近、介錯せぃ。」
そう言うと、腰刀を突き立てた。
「ぐっ! 宗滴様、申し訳ありません。朝倉家を、守れませんでした。」
腹を斬り裂きながら、義景は苦悶の表情を浮かべ、絞り出すように最期の言葉をこぼした。
「もっと積極的に、信長を攻めるべきであった!」
「見事な気概。この景近、介錯仕る!!」
景近の刀が振り落とされ、義景は四〇歳で生涯を閉じる。信長が朝倉・浅井討伐の兵を起こし岐阜を出発したのが八月八日、義景が自刃したのが八月二〇日。南北朝時代に朝倉広景(あさくらひろかげ)が越前朝倉家を興したのを初めとして、一一代二五〇年続いた名門・朝倉家は、わずか二週間足らずで燃え尽くされたのである。
続く。
ここまでお読みいただきありがとうございます\(^o^)/
「面白い!」「続き読んでもいいぞ!」という方は、
ぜひ高評価お願いいたします!
また、周りの方にもおススメしてくださいね!
とかく、優柔不断な凡将と扱われやすい朝倉義景公ですが、
越前では善政を敷いたため、
領民からの評判は良かったようですね。
そんなことも勉強しながら書いていくと面白いものです。
次回もどうぞよろしくお願いいたします。
水野忠




