第五章 天下布武へ向けて②
足利義昭は二条城で武田からの書状を読んでいた。
「武田は再度上洛すると書状を出してきおったぞ!」
藤孝はその書状を受け取ると、文面を読み返した。事情があって三方ヶ原から撤退したが、体制を整えて再び上洛するとのことであったが、いつどのように上洛するとは一切書かれていなかった。
「将軍。これではいつ上洛するかわかりませぬぞ?」
「藤孝、出陣じゃ。」
「なんですと?」
「余が自ら出陣すれば、武田だけではない。浅井、朝倉、本願寺、松永と皆こぞって出陣し、我先にと功を競うであろう。ここに信長包囲網は完成じゃ。ついに信長の最期じゃ!」
「それはちと軽率ではございませぬか。一説では信玄はすでに死んだとの噂もございます。」
「馬鹿者! そう都合良く信長にいいことばかり起こってたまるか。藤英はおるか!」
「ははっ。」
三淵弾正左衛門尉藤英(みつぶちふじひで、藤孝の異母兄)、義昭の側近である。
「この二条城の守りを任せる。余は槇島城で挙兵する。」
「かしこまりました。」
「信長ぁ、今度こそお前の最期じゃぁ。ほほほ!」
義昭は高笑いしながら部屋を出ていった。藤孝は何も耳に入らない暗愚な将軍の後ろ姿をため息で見送ると、藤英に向かって挙兵の有無を尋ねた。
「義兄上、まさか本当に兵を挙げるおつもりですか?」
「将軍の命では仕方なかろう。包囲網の各将が呼応すれば、信長とておいそれとは攻められまい。」
「義兄上は信長様の恐ろしさをわかっておらぬ。わしは協力できん。」
藤孝の心の中では、いよいよ義昭に対しての不信が募り、もう従えないというところまで来ていた。しかし、母が違うとはいえ藤英は藤孝の兄だ。義弟である藤孝の苦しい心うちはよくわかっていた。
「藤孝。お前は信長の下へ行け。」
「なんですと?」
「われら、どちらかが生き残れば、我らが血筋は安泰じゃ。」
この戦国時代には、この方法はよく取られていた。家族で敵味方に分かれることで、どちらが勝っても家名を残すことができるからである。有名なところでは、真田家の当主、真田昌幸(さなだまさゆき)が、豊臣と徳川が対立したときに息子をそれぞれの陣営に付けた。兄の信之(さなだのぶゆき)は徳川方に、弟の信繁(さなだのぶしげ、俗にいう真田幸村)は豊臣方に味方させ、大坂の陣では信繁が死に、信之が生き残って家名を守った。
七月三日、藤英は二条城で六〇〇〇の兵を挙げて籠城し、義昭は宇治にある槇島城に三七〇〇の兵で立てこもった。ここで籠城し、信長が攻めあぐねているうちに包囲網の諸将が駆け付け、一気に信長をつぶそうと考えたのだ。しかし、しょせんは担ぎ上げられた飾りの将軍。歴戦の強者である信長に勝てるはずがなかった。
「忠繁。」
「ははっ。」
「そなたに歴史が動く瞬間を見せてやろう。」
「室町幕府の最後、でございますね。」
「そうじゃ。行くぞ、出陣!」
信長はかねてから用意してあった南蛮船(巨大な兵員輸送のための船)で一気に琵琶湖を渡り二条城を強襲、八日には二条城を包囲し藤英に開城を迫った。藤英は最後まで籠城したが、次々と味方が脱落し、最後に残ったのは数百の兵であったという。大局が見えた藤英は一〇日に開城して全面降伏した。
藤英はこの後、信長に仕えることになるが、天正二年(一五七四年)七月、信長より所領を没収され、嫡男と共に切腹を命じられ、その生涯を閉じることになる。
信長はしばらくの休息を挟み、一六日に全軍をもって槇島城を包囲した。槇島城は、宇治川の中州に築かれた城で、宇治川の流れが天然の堀の役割を果たしている城だった。攻め手は丸見えのため、守りやすく攻めにくい城と言えるが、
「な、な、なんじゃこの兵の数は!!?」
義昭は城を取り囲んだ織田勢を見て腰を抜かした。信長がこの戦いに投じた兵力は七〇〇〇〇もの大軍であった。この時、浅井長政は秀吉の軍勢に阻まれ出陣ができず、本願寺も遠征には不向きのために身動きができず、武田は信玄が死亡したあと家中がまとまらず、新当主の勝頼は兵を出せなかった。朝倉に至っては出陣の準備すら間に合わなかったという。
大和国多聞山城で反旗を翻した松永久秀は、
「包囲網の誰も動かぬか。これはちと、早計過ぎたかのぅ。」
と言って、すでにどうやって信長に再降伏するか算段に入っていたという。多聞山城の本丸から、京の方角を見て、
「やはりあのお飾り将軍ではダメか。」
と苦笑いした。
一八日になり、信長は渡河を命じ、朝方から一斉攻撃を開始した。まさに多勢に無勢、四方から火矢を射かけられ、殺到した織田勢によって城門はすぐに破られた。一気に織田勢がなだれ込み、大手門が破られたところで義昭は降伏の使者を信長に出したのである。攻撃開始から落城まで、わずか一刻(約二時間)とかからなかったという。
「さすがに、忠繁の知略は必要なかったな。」
信長はそう言って笑った。忠繁は槇島城内に入り、捕らえられた兵達をみた。数千はいるだろうと思うと、ほとんど戦わずして決着が付いたことがわかる。この時、家老の佐久間信盛のほか、柴田勝家、明智光秀、前田利家など、信長の主要な武将だけでなく、将軍家から降ってきた細川藤孝、荒木摂津守村重(あらきむらしげ)も参陣していた。
破壊された大手門から、義昭が奉公衆に連れられてやってきた。髪が乱れ、後ろ手に縛られたその姿からは、征夷大将軍の威厳など微塵も感じなかった。
「だいぶ好き勝手やってくれたな義昭。」
「おのれ、なぜ余がこのような辱めを受けねばならぬ!」
「この期に及んでまだわめくか。」
「当たり前じゃ。そもそもお前がいなければ、余が天下人としてこの国を治められたのじゃ。」
「たわけが。坊主上がりの貴様に何ができようか。大人しく禁裏との付き合いに専念しておれば、将軍のままでいれたものを。」
「余の作った包囲網が機能しておれば、今ごろお前の首はなかったはずじゃ。信玄も、本願寺も、朝倉も浅井も役立たずばかりじゃ! おのれ、離せ! 信長、この悪魔め、比叡山を焼き払った魔王め!」
義昭の言葉に、忠繁はずっと我慢していた言葉を口にした。
「将軍。武家の頭領たる征夷大将軍が何という言い草ですか。」
「なんじゃ、和泉守。」
「天下泰平を目指す征夷大将軍が、簡単に不平を口にし、方々に信長様討伐の書状を送り付け、いたずらに戦火を拡大した。信長様が悪魔? 魔王? あなたのおかげでどれだけの無駄な戦がおき、どれだけの命が失われたと思ってるのですか! 仮に信長様が魔王なら、あなたは多くの民を殺した天下の大極悪人だ!!」
そう言って忠繁は時霞を抜いた。
「き、斬るのか。余を、征夷大将軍を斬るのか。」
「征夷大将軍だろうがなんだろうが、無駄に戦乱を広げるというのであれば、室町幕府などお前と一緒に斬り捨ててやる!」
そして、時霞を振り上げた。が、しかし、
「やめぃ!」
信長の言葉に忠繁は動きを止めた。振り返ると、信長が無表情でこちらを睨んでいた。
「光秀、義昭殿を枇杷荘へ移せ。その後の処置はおって沙汰する。」
「かしこまりました。」
義昭はガタガタ震えながら、光秀に守られ枇杷荘(現在の京都府城陽市)へ移送され、その後、西の大国である毛利家へ流れていく。かつて、後醍醐天皇と対立した足利尊氏が一三三六年に開いた室町幕府は、二三七年一五代で幕を閉じたのである。
京を追放された義昭は、毛利家の庇護に置かれ、信長の死後、秀吉の時代になると京へ戻り、前将軍の貴人として大名待遇を受けることになる。そして、慶長二年(一五九七年)に六〇歳で永眠し、天寿を全うするのであるが、再び征夷大将軍に返り咲き、天下に号令をかけることはできなかった。
「忠繁、落ち着いたか?」
「はい。申し訳ありませんでした。」
「おぬしの言い分、皆の心に響いたであろう。わしも可成を思い出した。」
そう、義昭の包囲網画策がなければ、可成は死ななかったのかもしれない。信長と長政が敵対することもなかったのかもしれない。そんなことを考えてしまったのだ。もっとも、信長の命令失くして義昭を斬るようなことはしなかったが、義昭には自分が負けたことを理解してほしかった。
信長はそのまま、義昭に加担した岩成主税助友通(いわなりともみち)の立てこもる淀城を攻めこれを討ち取ると、七月二六日には公家衆の有力者である権大納言・山科言継(やましなときつぐ)を通して朝廷に改元を申し出る。義昭の立てた『元亀』を破棄し、『天正』と改元したのであった。これは事実上、足利家から織田家へ政権が移ったことを意味していた。
続く。
ここまでお読みいただきありがとうございます\(^o^)/
「面白い!」「続き読んでもいいぞ!」という方は、
ぜひ高評価お願いいたします!
また、周りの方にもおススメしてくださいね!
義昭が信長と手を取ったら、
どんなことになっていたのでしょう?
また、足利家も一五代、
徳川家も一五代、
この辺りにも、
なにか見えない因果を感じます。
次回もどうぞお楽しみに!
水野忠




