第四章 元亀争乱⑩
戦いは、武田勢最前線の小山田信茂の投石から始まったと言われている。この投石と言うのは、映画などでよく見かける振り子を利用した大掛かりなものではなく、人力で小石を投げつけたと言われている。一見地味だが、大の大人が本気で投げた石は弓矢や鉄砲ほどの威力はないとしても十分危険な武器になる。
そして、相手がひるんだところで、内藤昌豊と山県昌景の騎馬隊が一気に突撃を開始してきた。大胆にも、信玄は両隊に直接家康の本陣を付くように命じたのである。武田騎馬隊が迫る中、特に主力となっている山形隊は、家康の本隊を守ろうと前に出た小笠原、松平の両隊を瞬く間に蹴散らし、一心に家康の本陣を突いた。
驚いたのは援軍に来ていた佐久間信盛である。小笠原等の隊が蹴散らされた以上、家康の右翼に構えていた信盛と汎秀、一益が前に出なければならないが、あっという間に徳川勢を蹴散らしてくる武田騎馬隊に信盛は震えあがった。信盛の副将として参陣していた忠繁は、
「信盛様、出るなら今です。」
そう促したが、信盛の顔面は蒼白だった。内藤隊、山形隊の後ろから、武田勝頼と馬場信春の騎馬隊が迫っているのも見えたからである。
「信盛様!」
動かぬ信盛隊に先駆け、汎秀が前に飛び出て山形隊に突撃していった。汎秀の部隊は騎馬兵と足軽の混成隊である。なんとか時間を稼ごうと果敢に攻め込んでいったが、
「あ、あ、汎秀様・・・。」
忠繁は、汎秀隊の旗指物があっという間に武田菱に飲み込まれていくのを見てしまった。それは、あまりにあっけなく儚いものであった。汎秀もなんとかしようと奮戦したが、突撃してきた騎馬兵の槍を無数に受け、無残に討ち死にした。忠繁はいよいよかと、震える右手で時霞を抜き、山県隊を待ち構えたが、その時、信じがたい言葉が耳に飛び込んできた。
「ひ、退けぇ!」
なんと、一戦も交えずに信盛が退却を命じたのである。そして、大将自ら引き上げたのだ。慌てて忠繁は信盛を追いかけ、
「大将自ら先駆けて退却とは何事ですか!」
「黙れ忠繁! 多勢に無勢、籠城のために無傷で引き上げるのだ!!」
「お待ちください!」
「無礼者! どけぃ!!」
忠繁の制止も聞かず、信盛は脱兎のごとく去っていった。突き飛ばされた忠繁はバランスを失い十六夜から落馬してしまった。信盛隊が引き上げたため、それを敗走と見たのか武田勢は一気に勢いづいた。山県騎馬隊が家康本隊に殺到し、家康を守ろうと動いた徳川勢を、他の武田勢が足止めした。
「もはやこれまでか。」
家康は山県勢を前にうなだれ、ため息をついた。所詮、適う相手ではなかったのだと諦めた時、一騎の騎馬武者が近づき、家康に掴みかかった。
「殿! まだじゃ、まだ終わりではない!!」
先ほど、切腹しようとしたのを家康に止められた中根正照であった。
「正照。」
「殿が生きてさえいれば、徳川は安泰じゃ!」
そう言って、強引に馬の向きを変えさせると、手に持っていた刀で家康の騎馬の尻を思い切り叩いた。驚いた馬は家康を乗せたまま浜松城方面に駆けだした。
「正照!」
「殿! ご無礼のお咎めは、後でいくらでも!」
正照は満面の笑顔でそう言うと、刀を抜いて山県騎馬隊に単騎突撃していった。
「正照!!」
家康が無事に逃がされたのを見た本多忠勝は、
「これより籠城戦に移る。全軍、敵を抑えつつ浜松城へ退け!!」
そう言うと、部隊を率いて三方ヶ原の南方、本坂街道に布陣した。ここなら幅が狭いため、大軍が一気に抜けることは難しい。
「さぁ、武田の騎馬兵ども! わが蜻蛉斬りの切れ味をとくと味わえ!!」
忠勝の名槍、蜻蛉斬り。家康が忠勝の武功の褒美に与えたものだが、その穂先に蜻蛉が止まろうとした際、そのまま真っ二つに切れてしまったことから名付けられた。可成の十文字槍同様、現代にもその名が伝わる名槍だ。忠勝はここで武田兵を食い止め、無双の活躍を見せる。
その頃、忠繁はすっかり後れを取ってしまい、合戦の真っただ中に取り残されていたが、家康が退去するのを遠巻きに発見し、その後を追った。途中、忠勝の隊を見かけたため声をかけた。
「本多忠勝様! 霞北和泉守でございます。」
「おう、無事であったか。」
「家康様は?」
「殿は浜松城へ退いて行かれた。援軍のそなたに頼むは不本意だが、殿を頼みたい! わしはここで武田勢を食い止める!」
「かしこまりました。では、浜松城へ向かいます。忠勝様、どうかご武運を!」
「おう!」
忠繁は十六夜の腹を蹴り、浜松城へ急いだ。夕方に始まったこの三方ヶ原の戦いは、両軍合わせて四〇〇〇〇人近い軍勢が激突したにもかかわらず、わずか二時間程度、日没前に終わってしまった。武田勢の死傷者二〇〇名に対し、徳川勢は二〇〇〇名以上の死傷者を出した。武田方の大勝利であったという。
徳川勢は、家康を逃がすために中根正照のほか、鳥居四郎衛門忠広(とりいただひろ)、本多肥後守忠真(ほんだただざね、忠勝の叔父)、田中彦次郎義綱(たなかよしつな)、夏目次郎左衛門吉信(なつめよしのぶ)といった有力な武将を失ったが、家康を浜松城へ退却させることに成功する。
この家康の退却にはいくつもの逸話が伝わっている。まず一つは、退却中の家康が途中で立ち寄った茶屋で小豆餅を食べて休憩していた。武田兵が来たと聞いて驚いて飛び出したが、慌てていたために代金を支払わなかったので、店主が追いかけてきて代金を徴収したという話。これは今でも静岡県浜松市に「小豆餅」や「銭取」と言う地名が残されている。
退却中の食事の話はほかにもあり、途中で農家に立ち寄り、そこで粥を提供してもらったため、後にその農民に「小粥(おがい)」という名字を授けて庄屋にしたという話もある。
また、もっとも有名な話では、この退却の際に、追撃してくる武田騎馬隊の姿に死を恐れ、思わず馬上で脱糞したという話。浜松城に退却した際に、家臣にそれを指摘されると、
「馬鹿者! これは糞ではない。味噌だ!」
と言ったとか言わなかったとか。これが相手をけなす『糞味噌に言う。』の語源になったかどうかは定かではない。
浜松城に帰城した後、家臣の反対を押し切って出陣し、大敗したことで苦悩する自らの姿を、戒めとして絵師に書かせたのも有名な話で、足を組み、頬杖をついた家康の絵が「徳川家康三方ヶ原戦役画」として、現代も名古屋市にある徳川美術館に所蔵されている。
続く。
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次回はいよいよ浜松城籠城戦です。
絶体絶命のピンチに、忠繁がとった策略とは?
どうぞご期待ください!
水野忠




